問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章は、1956年に発表された小説である。これを読んで、後の設問に答えよ。

1 小柄な痩せた男で、茣蓙でくるんだ苗木を背中にまっすぐに背負って、庭に立つと、

2 「ごめんください」

3 と、云って汚れた帽子をとって腰をかがめた。その、ごめんください、という挨拶が、女性的な声だけどどこか格式張っていた。顔つきはその声のように細おもての柔和な、むしろ伏目がちの弱気な表情だった。

4 「植木屋でございますが、今日は沈丁花を持ってまいりましたが……」

5 「植木屋さんなの」

6 しげのが縁先きへ出てゆくと、爺さんは背中から茣蓙の包みをおろしてひらいた。

7 「あら、小さいのね。いくら?」

8 「一本80円ですが、2本ありますから、2本買って下されば、130円におまけいたします」

9 「お父さん、どうします。買いますか」

10 そして沈丁花を買うことになって、それがきっかけで、庭の周囲の七、八本の檜葵も、この爺さんが運んでくることになった。順吉たちのつもりでは、檜葉は目かくし用にとおもって頼んだのだが、爺さんの背負ってくるのは、いつも殆ど一尺ばかりの苗木だった。

11 「あら、そんなに小さいの?」

12 と、そのときもしげのは云った。爺さんは目を伏せ、気弱に、しげのの言葉を聞き流して、

13 「なに、すぐ檜葉は大きくなりますです」

14 と、答えて、自分で土を掘って植えた。

15 しげのはお茶を出したり、丁度昼飯どきには、そうめんを分けて出したりした。

16 たいてい日曜に来るので、順吉もいた。植木屋の爺さんは縁側に腰をかけ、お茶をのむときも、そうめんをよばれるときも、「いただきます」と云って手にとったが、その、いただきます、という調子には歌うようなひびきがあって、ちっとも卑屈なものがない。優しい顔をしている。

17 一度その姓名を聞いたとき、爺さんが、あんまり立派な名前なので、しげのは爺さんの前身に興味を持ったが、戦争中女房の実家の千葉県に疎開して百姓をやっていたつづきで、今は植木を売って歩いているのだ、ということしかわからなかった。伊志野剛直という、いかめしい姓名には似合わず、小柄のひょこひょこと歩く苗木売りだが、そのもの云いだけ、どこか変っている。しかも、順吉はその苗木屋を自分より年上とおもっていたが、見かけよりはずっと若く、まだ四十代で、小学生の女の子があるという。

18 しげのは心易くなり、今度は少し大きい樹を持ってきてくれ、と不満そうに云うのだが、そんなとき、伊志野剛直は、ちょっと悲しい表情をするような気がした。

19 「はい」

20 と答えて、伏目に前を見つめる。順吉は女房にばかり応対させて、自分はあまりものを云わなかったが、苗木屋の表情の悲しげなのに気づくのは彼だった。

21 しげのに云われても、その苗木屋のその次に持ってくるのはやっぱり一尺足らずの苗木ばかりだ。値が安いので伊志野の持ってくる度に、順吉の家では買い、小さな植木ばかり、雑然と植えた。木犀、乙女椿、くちなし、ざくろ、つつじなど。しかし伊志野剛直は、格式張った口調で、ときには自分の苗木に鹿つめらしい説明をすることもある。

22 「楓には、板屋楓、高尾楓などありまして、これは高尾でございます。紅葉のもみじと申しますは、この高尾楓の紅葉が、いちばん美しいので、その名をよぶようになりまして、城州は高尾山に多いところから、高尾楓と申します」

23 「ああ、なるほどね」

24 しげのが対手上手なので、伊志野は、この家へ来ると、安心したように縁側に腰をおろして、ときには、持って来た苗木を買ってもらえないときでも暫く休んで行ったりした。帰るときには、

25 「あ、お邪魔をいたしました。また、お願いいたします」

26 とゆっくり挨拶をして、茣蓙包みを背負って、ひょこひょこと帰ってゆく。両方でなじんで順吉の家では次ぎ次ぎにその庭の殆どが伊志野剛直の苗木で埋まっていった。しかしその庭は残念ながら腰より高い樹木はないのだった。

27 が、順吉は、二年ばかりの間に、近所に新しく建った住宅の玄関などが、ちんまりと植込みのできているのを、朝夕見ているうちに、わが家の前が依然としてむき出しなのを、少々もの足りなくなっていた。そして遂いにあるとき、3千円ばかりはずんで、これは本職の植木屋に頼んで、冬も落葉しない樹をという注文で、樫の木、柊などを植えることにした。そのとき順吉は、伊志野剛直をおもい出して、彼に気の毒なおもいをさせるような気がした。3千円といえは苗木屋の二年間に運んだ植木代の倍であった。

28 その日曜日、本職の植木屋は、いかにも本職らしいいでたちで、若いものひとりを使って、軒まで達する高さの樫の木をリヤカーで運び、高声の早口で配置の位置を指定したりしながら、深く土を掘った。樫の木には支えの添え木も2本つけて縄で結(ゆわ)き、その下には柊や、つくばねうつ木や、黄楊を植え、片方には、おまけだといって篠竹も植える筈だった。順吉は馬穴の水を運んだりして手伝っていたが、彼が内心で気づかっていたとおり、丁度その最中に、苗木屋の伊志野剛直が、いつものように茣蓙包みを背負ってやって来たのである。

29 「あ、ごめんください」

30 伊志野は、本職の植木屋には顔を合せず、いつものように縁先きに来て腰をおろした。しげのもやはりいつものようにお茶を出して、

31 「おじさんに大分植えてもらいましたけどね、玄関さきだけ、あんまり淋しいから、大きな樹を一本入れるんですよ」

32 と、言訳をした。

33 「は、お立派になります」

34 「そんなにはねえ、お金をかけないから」

35 さすがにその日は茣蓙を解かず、

36 「また、お願いいたします」

37 と立った。

38 「ええ、また、来て下さいね。今日はすみませんでした」

39 順吉の方は、苗木屋に顔を合わせることができないで、隠れるようにしていた。順吉にはそんな気の弱いところがある。気が弱いというよりは、伊志野に対して、いささかの裏切りをしたような、自分を責めるおもいさえ彼は感じていた。

40 値込みの終った玄関先きに、彼は満足しながらも、その夕方、しげのと膳に向ったとき、

41 「あのいつもの植木屋の爺さん、厭な気がしただろうねえ」

42 と、云っていた。 しげのの方は割り切ったように、

43 「だって、あのおじさん苗木ばっかりですもの、仕方がないですよ

44 「また、来るかね」

45 「もう、うちの庭も広くないもの、植えるところもないですよ」

46 ところが、伊志野剛直は、それっきり、この家の庭先きに姿を現わさなくなったのである。もうそれから一年経つ。苗木屋の植えた囲いの檜葉は倍の丈に伸びて、結構、形を成した

47 大田順吉は、苗木屋の伊志野剛直が、この庭に、というより、順吉夫婦に親しみを寄せていたとおもう。だから、順吉が本職の植木屋を入れたとき、彼を裏切るような、うしろめたさを感じた。それ以来、伊志野剛直がこの庭に姿を現わさない、ということで一層順吉は、彼を傷けたおもいが消えない。

48 伊志野剛直はいく度、しげのが、も少し大きい樹を、と云っても、苗木しか持って来られない事情があったのであろう。本職の植木屋とゆき合ったとき、彼は、だから引け目を抱いたのにちがいない。

49 だが、それ以来ばったり姿を見せない、ということは、伊志野剛直の誇りなのか。

50 今日順吉は、勤め先きの家具製造店で厭なおもいをした。

51 彼は、請求書の計算をまちがえたのである。若い店員がずけずけと店主の前でそれを云い、順吉は一言もなかった。こんなとき、順吉は自分の年齢を引け目に感じた。ふっと心のどこかで、姿を現わさない苗木屋の誇りをおもい出していたような気がする。

52 「あの、植木屋の爺さん、どうしたかね」

53 と、 順吉はしげのに声をかけた。

54 「あれっきり来ませんね。やっぱり苗木売って歩いてるんでしょうにね。また小学校にゆく子がいるといってたけど、少し変ってましたよ、ね」

55 しげのには、伊志野剛直の誇りはわからないらしい。大田順吉は黙ったまま、あの苗木屋に対する自分の裏切りと、そして再び姿を見せぬあの苗木屋に、同感とも羨望ともつかぬ、なつかしさを、じいっと感じて立っていた。

設問

(一)「彼に気の毒なおもいをさせるような気がした」(傍線部ア)とあるが、 それはなぜか、説明せよ。

(二)「だって、あのおじさん苗木ばっかりですもの、仕方がないですよ」(傍線部イ)とあるが、なぜそのように言ったのか、説明せよ。

(三)「苗木屋の植えた囲いの檜葉は倍の丈に伸びて、結構、形を成した」(傍線部ウ)とあるが、ここからどのようなことがうかがわれるか、これまでの経緯を踏まえて説明せよ。

(四)「同感とも羨望ともつかぬ、なつかしさ」 (傍線部工)とはどのような心情か、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 鏡像を自己として認知できるようになるには、生後1年半、2年程度の時間がかかるといわれている。B・アムスターダムの古典的研究によると、生後一年ごろまでの乳児は、鏡に映った身体を他者として知覚している。鏡に向かって手を伸ばし、微笑みかけ、頬ずりをするなど、鏡像を遊び相手として扱うような振る舞いを見せるのである。ところが、14カ月ごろから振る舞い方に変化が起こり始め、鏡像を見て感嘆したり困惑したりという揺らぎのある反応を見せつつ、全般的に鏡像を避ける行動が増え、20カ月ごろまでこの傾向が続く。この時期を過ぎると、24カ月に向かって鏡を見ながら自己の身体を探索する自己指向行動が増えていく。

2 生後間もない乳児にとって、自己の身体は、空腹や渇きのような内受容感覚、身体を動かすと筋肉や健で受容される固有感覚によって主に構成されており、視覚的な関心を惹く対象ではない。むしろ乳児が視覚的に惹きつけられるのは、視野に登場する母親や父親の顔である。M・ジョンソンらの研究で知られるようになったとおり、新生児は各種の対象の中でも人間の顔を好んで注視する傾向がある。また、この傾向は実物の顔だけでなく、目・鼻・ロなどのパーツがあり、それが人の顔のように配列されている絵でも確認することができる。つまり、生後一年ごろまでの乳児にとって、身体に由来する体性感覚的な情報と、外界に由来する視覚的情報とは分断されており、いまだ統合されていないのである。鏡に映る視覚的な全身像を、「ここ」にある体性感覚的な情報と結びつけることができるようになるのに、生後2年近い時間がかかるということである。

3 両者の統合過程において、何が起きているのだろうか。鏡像認知が成立する途上の移行期に、鏡像を回避する行動が見られるところが興味深い。これは別の研究でも確かめられている。時期がややずれるが、R・ザゾによると、17カ月ごろから鏡を前にする乳児には忌避反応が見られるという。困ったような表情をしたり、鏡像に対して顔をそむけたり、鏡の前でフリーズしたり、鏡像から遠ざかろうとしたり、といった反応である。すべての乳児になんらかの忌避反応が見られ、平均的に3カ月5カ月程度続くという。

4 鏡に対する回避的な反応が生じる以前、乳児にとって鏡像は「他者」として経験されている。鏡の中の身体は、視覚的には「そこ」に見えているが、「ここ」で生じている身体由来のさまざまな体性感覚とは結びつかない。これに対して、鏡像認知ができるようになった乳児にとって鏡像は「自己」として現れる。視覚的に「そこ」に見えている像が、「ここ」で生じている身体由来の体性感覚としつかりと結合している。手を上げ下げすれは、「ここ」で豊かな運動感覚が生じると同時に、「そこ」に見えている手も上がったり下がったりする。運動感覚と視覚像は緊密に連合している。鏡の中に自分が見えるとは、このような経験である。

5 移行期の乳児にとっては、鏡像はどっちつかずの中途半端な存在だろう。鏡を見ると他者のような視覚像が映っているにもかかわらず、それがこちら側の「ここ」で生じている体性感覚と奇妙にも連動しており、どのように受け止めてよいのかいまだ正解が見当たらず、これが落ち着きのない回避行動を引き起こす原因になっているように見える。移行期の落ち着かなさに決着をつけるには、鏡の中に見えている視覚像が自己自身の視覚像であることに気づき、受け入れるしかない。これはどのように可能になるのだろうか。

6 この点に本質的に関連しているのが、G・ギャラップによるチンパンジーの鏡像認知研究である。チンパンジーは鏡像認知ができる数少ない動物の一つであるが、彼の報告によると、群れから引き離して単頭飼育したチンパンジーは鏡像認知ができるようにならなかった。チンパンジーの鏡像認知を試す際には、額や耳のように鏡を見ないと確認できない身体部位にマークを付け、鏡を見せてそれに気づくかどうかを試す「マークテスト」と呼ばれる手法を用いる。ギャラップが報告するところでは、単独で飼育されたチンパンジーは群れで育ったチンパンジーとは違ってマークに関心を示さず、鏡を見ながらマークに手を伸ばす自己指向行動も見せなかった。

7 ここから推測できるのは、鏡像認知が単に「ここ」で生じる体性感覚と「そこ」に見える視覚像との連合だけで成り立ってはいないということである。群れで育ったチンパンジーは、「他者の身体」に囲まれて育っている。チンパンジーは成長の過程で、「自己から見た他者の身体」と「他者から見た自己の身体」を互いに交換することで、自己の身体が外的な視点から見るとどのように見えるのかということを学習するのである。群れで育ったチンパンジーは「他者から見た自己の身体」を最初から知っているからこそ、鏡を初めて見たとしても、そこに映っている身体の像が「外的視点から見た自己の身体」であると気づくことができるのである。

8 鏡像認知は、体性感覚と視覚を結びつける単なる連合の問題には還元できない。単独で飼育されたチンパンジーにとっては、そもそも両者を結びつける動機も必然性もないことに注意しておこう。人間も同様である。他者とともに育つ乳児にとって、他者にケアされるという身体的相互作用は決定的に重要である。自己の視点から他者の身体を見るだけでなく、自己の身体が他者の視点からどのように見えるのかに気づくとき、「ここ」で生じている体性感覚と「そこ」に見えている視覚像とが有機的に連合するのである。この過程はとりわけ、他者の身体にある「顔」が自分の身体にもついていることに気づくうえで決定的に重要である。

9 メルロ=ポンティも、 発達心理学者H・ワロンの研究に沿って鏡像認知に言及しながら、次のように指摘している。

10 彼[幼児]にとっての問題は、身体の視覚像と身体の触覚像が空間中の二点に位置しているのに実際には一つに過ぎないと理解することではなく、鏡の中の像が彼の像であり、他人が見ているところの彼の像であり、他の主体に対して彼が提示している外観であると理解することにある。この総合は、知性による総合なのではなく、他者との共存に関する総合なのである。

11 ここでの文脈に沿って言い直そう。鏡に映る身体の姿を「自己の身体」として認知できるようになるにはたんに体性感覚と視覚を連合するだけでは十分ではない。「ここ」にある自己の身体が、「そこ」にいる他者の眼から見てどう見えるのかに気づくことが必要である。鏡像認知はたんに多感覚統合の課題ではなく、「見る」「見られる」という関係において他者と共存することを学ぶ経験に他ならないのであり、その意味で私たちの身体イメージには他者の眼差しが刻印されているのである。この点が明らかになったことで、自己身体の「付き合いにくさ」の源泉に一歩近づくことができたように思う。

設問

(一)「鏡像を遊び相手として扱うような振る舞いを見せる」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「鏡像認知が成立する途上の移行期に、鏡像を回避する行動が見られる」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(三)「そこに映っている身体の像が「外的視点から見た自己の身体』であると気づくことができる」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「私たちの身体イメージには他者の眼差しが刻印されている」(傍線部エ)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ(句読点も1字と数える)。

(五)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

1 「日本語を母語としているのに、なぜフランス文学を研究するんですか?」と尋ねられたことがある。十年以上前、ようやく文学を勉強しはじめた大学三年の夏。この質問をわたしにしたのは、才媛という表現がこの上なく似合う、理系畑の聡明な後輩だった。そのときどう答えたのか、今となっては思い出せない。しどろもどろに、当時感じていたフランス文学の魅力を伝えたような気がする。ただ、うまく答えられなかったなりに、それが重要な問いで、時間をかけて向き合うべき宿題だと直感的に感じたことだけはよく覚えている。
2 そう言われてみれば、たしかに外国文学を学ぶというのは奇妙なことだ。自国にもすぐれた作品は無数にあるのに、なぜか遠い国の言葉をわざわざ習得してものを読み、書こうとする。難解な構文をどう訳すか手を焼くたび、辞書を引きながら拙いフランス語でなんとか表現しようとして言葉に詰まるたび、じかに触れたいものにガラス越しにしか接近できないようなもどかしさが募る。少しずつ言葉を覚えるにつれてアガラスは薄くなっていくが、障壁がなくなる日は決して来ない
3 しかし、このガラスの壁は障害になっているだけではなく、わたしたちに世界を見る新しい方法を教えてくれもするのではないか。遅まきながらこのことを心底実感するに至ったのは、質問された時から何年も経ってからのことだった。外国語を学ぶことは、イ世界の見方が変容する経験を伴わずにはいない。たとえば、 clairière(クレリエール)という言葉がある。これは「明るい、澄んだ、透けた」を意味するclairという形容詞からくる言葉で、森の中の木のまばらな空き地の部分や布地の薄い部分をあらわす。それまでただの「ひらけた土地」でしかなかった場所は、この言葉を知ることで、木々の葉を透かして空き地を照らす陽光のまばゆさと結びつくようになった。
4 母語でないテクストを読むときの「遅さ」それ自体に、欠点だけではなく意義もあるのだ、ということを実感したのは、それよりもっとあとのことだった。たしかに、言葉の端々に宿る微細な意味の揺らぎやズレを感知する点にかけては母語話者のほうがずっと優れているかもしれない。けれども、ひとつずつ言葉を手繰りながら舐めるように繰り返し読む中でしか現れてこない文章の表情もある。「速く読みすぎても、遅く読みすぎても、何も分からない」というパスカルの箴言は、外国語で文学作品を読む人にとって大いなる示唆を与えてくれるものでもある。
5 ひるがえって、外国語のフィルターを通すことで母語で書かれた文学作品の輪郭がより鮮明に見えてくることもある。それを知ったのは、日本語を学ぶフランス人の友人と一緒にいくつかの日本語のテクストを読んだときだった。彼女がフランス語に翻訳した芥川龍之介の『羅生門』を原文と突き合わせながら、「この言葉はこんな意味で、この単語はここにつながっているの」と説明していく。そのやり取りの中で、今まで何度も読んできた短編小説が、不意にひとつのすばらしく精巧な構造として立ち上がってきたときの驚きは忘れがたい。もちろん、文章を的確に捉えられる人が丁寧に読めば、日本語だけでも作品の機序を完璧に捉えることはできるに違いない。だがわたしにとっては、作家がすべての単語を無駄なく有機的に絡みあわせ、クライマックスに向けて文章を盛り上げていくその手つきを知ることができたのは、彼女の部屋でお茶を飲みながら二つの言語を往還したあの時間あってこそだった。
6 文学の話からは逸れてしまうけれども、母語でない言語は、「もうひとりの自分」を発見させてくれることもある。フランスにいた頃、よく家事をしながらフランス語でひとりごとを言うことがあった。洗濯物をたたみながら、食器を拭きながら、あるいはくたびれて単にベッドの縁に腰掛けながら。そういう時に考えているのは大概、抱えていた様々な悩みごとだった。なぜそうなったのか、どうすればよいのか、何が悪かったのか。原因や解決法をぼんやり思案していると、ふとウ「本当の答え」が口から飛び出てくる。自分の愚かさ、認めたくない欠点、人から見えないように守ってきた心の柔らかな未熟な部分。とても直視に堪えないこうした自分の瑕疵が、外国語という「ガラスの壁」を通すことではじめて、検閲と抵抗をくぐり抜けて言葉になる。まるで檻に閉じ込められた小動物が外に出ようと身をよじっているうちに、狭い柵の間をするりと通り抜けてしまうように。母語は自分に近い「本当」の言葉で、外国語は後から学んだ「借り物」の言葉のように思えるが、実はその「借り物」の言葉こそが、まさにそのよそよそしさゆえに、心のもっとも奥ふかくに秘匿されている自己を―無惨なまでに―あらわにするのだった。
7 先に見たクレリエールという言葉は、森の空き地や布地の薄い部分の意から転じて比喩的な意味でも用いられる。ある辞書には「追憶の間隙」という用例が記されていた。ふと口をついて出た独言が剥き出しにする「もうひとりの自分」も、おそらくひとつのクレリエールだと言えるのだろう。意識と無意識の隙間に明滅し、母語という手綱が手放されたときだけ束の間浮かび上がる心の「空き地」。それは決して光降りそそぐ明るい場所ではないけれども、エそのようなほの暗い場所を自分のうちに見出し、認めるのは、不思議と静かな慰めを与えてくれる経験でもある

設問

(一)「ガラスは薄くなっていくが、障壁がなくなる日は決して来ない」(傍線部ア) とはどういうことか、説明せよ。

(二)「世界の見方が変容する経験」(傍線部イ)とはどういうことか、本文に即して具体的に説明せよ。

(三) 「『本当の答え』が口から飛び出てくる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「そのようなほの暗い場所を自分のうちに見出し、認めるのは、不思議と静かな慰めを与えてくれる経験でもある」(傍線部エ)とあるが、それはなぜだと考えられるか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 タンザニアの行商人の間では現在、SNSを通じて注文を集めたり配達したり、商品代金を電子マネーでやり取りすることが増えている。しかし少なくとも2000年代末までの同国の行商人は、仕入れた商品を携えて客を探しながら練り歩き、遭遇した客と対面で値段交渉する業態が一般的であった。
2 当時、私がムワンザ市で調査していた古着の行商人たちにとって商売上の悩み事のひとつは、貧しい得意客から頻繁に掛け売りを求められることであった。たとえば、2002年から2003年に調査した行商人Aの85日間の売り上げ記録では、一日に平均して3.6枚の掛け売りがなされていた。客の中には「今度の給料日に払う」「次の日曜に貯蓄講の順番が回ってくるので払う」などの支払計画を提示する者もいたが、多くは「カネが手に入ったら払う」「また行商に来たついでに(支払えるかを)聞いてくれ」などと支払期限の曖昧な口約束をした。実際、行商人の得意客の多くも給料日が決まっている労働者ではなく、浮き沈みの激しい零細自営業者や不安定な日雇い労働者であったので、客がその日の生活費を超える余剰の現金をいつ獲得できるかは客自身にも予想がつかないものだった。行商人たちは、「最近、羽振りがいい」などの噂を頼りに客の懐が温かくなる頃を見計らって訪ねて行ったが、居留守を使われたり、「子どもがマラリアになったので、まだ払えない」「貯蓄講で受け取った金は、他の借金の支払いに消えた」などと言われたりし、ツケの取り立てには非常に苦労していた。しつこく取り立てに通うと、得意客は憤り、「待ってくれないなら、返品する」と古着を突き返したり、「洗濯したら色落ちしたので、ツケを負けろ」など過去にさかのぼって値段交渉に持ち込んできたりもした。
3 もちろんア行商人たちにとって掛け売りを認めることは、商売戦略上の合理性とも合致していた。貧しい消費者はツケを認めてくれる行商人を贔屓にするため、得意客の確保や維持につながる。ツケの支払いのついでに新たな商品を購入してくれる可能性もある。また行商人たち自身も、仕入れ先の仲卸商人から信用取引で商品を仕入れており、販売枚数を稼げば、仕入れ先の仲卸商人から仕入れの順番や価格交渉において優遇されることもあった。さらに銀行口座をもたない行商人たちの中には、ツケを緊急時に使用する「預金」のようにみなし、商売が不調の時に回収するべく、好調なときにはあえてツケを取り立てに行かないと語る者も多くいた。
4 ただ、それはツケが返済されてこその戦略である。行商人たちは通常、他の行商人と競争しながら偶然に仕入れた古着の種類や品質に則してその日の行商ルートを選択していた。「高品質で高価なシャツを多く仕入れた場合には、高級住宅街カプリポイントを巡回する」「若者向けの派手なシャツがたくさん手に入った場合には、サッカースタジアム周辺を回る」といった選択である。また、仕入れた古着を見ながら「そういえば、薬局の店主がデニムシャツを欲しがっていた」と具体的な客を思い出し、その人物の職場や家がある地域を通るルートを選択することも多い。そのため、行商ルートから外れるツケの回収に拘泥すると、その日に仕入れた古着の売れ行きに響くことになる。結局、行商人たちは何度か通って相手に支払う気がないとわかると、しばらく放置し、機会があったときに訪ねていくようになる。ただ、数カ月、半年と時間が経つにつれ、訪問回数は減っていき、ついには訪問をやめてしまう。
5 こうした事態が生じる原因のひとつは、行商人が帳簿をつけないことにあった。「なぜ帳簿をつけないのか」と尋ねると、「払える人は払うし、払えない人からはどうしたって取り立てられないのだから、気がかりなことが増えるだけだ」などと返答された。たしかに毎日のように掛け売りをし、ツケの支払いは早くて数日、通常は数週間、時には何カ月も先になるので、ツケは雪だるま式に増えていく。そのすべてを回収しようとするよりも、焦げ付きを価格等に織り込んで商売をしたほうが合理的だろう。それでも私は、日々余裕がない中で、ツケを何カ月も放置する者に怒りもせず、不満も言わず、ただ許している彼らの態度が不思議であった。みな生活が苦しいのに支払う人と支払わない人がいるのは不平等ではないかと思ったのだ。私は時々、「あそこの家には未払いの代金があるから取り立てに行こう」と誘ったが、彼らは「まだ彼/彼女は困難のさなかにあり、いま取り立てにいっても交渉に負ける」と渋ることも多かった。
6 ただし、「このままツケが返ってこなくてもよいのか」と聞くと、「ツケは返してもらう」という答えが返ってくる。その上で彼らは、「いまはその時ではない」「カネを稼ぐまでは待つと言ったのに、相手の時間的な余地(nafasi)を奪うのは難しい」と主張するのだ。実際、数年が経って私が「信用の不履行が生じた」と認識した負債についても、彼らは「イまだ返してもらっていないだけだ」と言い張り、「いつ返してもらうのか」としつこく聞くと、「そんなこと、俺にわかるわけがないだろう」と怒り出した。
7 これらの商人や客の言葉や態度から、私はしだいに、彼らは商品やサービスの支払いを先延ばしにする取引契約である掛け売りを「市場交換」と「贈与交換」のセットで捉えているのではないかと考えるようになった。つまり、ツケは商品やサービスの対価であり、支払うべき金銭的「負債」である。これは返してもらう必要がある。だが、ツケを支払うまでの時間的猶予、すなわち客が現在の困難を解決し、ツケを支払う余裕ができるようになるまでの時間や機会は「贈与」したものなので、ひとたび「あげた」時間/機会を取り上げるには特別な理由がいる、あるいはその機会をいつ返すかはプレゼントの返礼のように与えられた側が決めるのだと。
8 しかし支払い期限を決めるのが貸し手ではなく借り手であり、しかも「生活に余裕が生まれた」という借り手の主観に左右される期限であるならば、支払いは50年後になることも、結果として死ぬまで負債が支払われないことだってありうる。明らかに貸し手に不利な契約であるが、「支払い猶予を与える契約」を「代金支払いの契約」と「時間・機会の贈与交換」に分割して考えると、彼らの言動はつじつまがあい、商売の次元とは異なる次元で帳尻があっているようにも見えた。
9 まず掛け売りが支払いの遅延を伴う売買契約に過ぎない場合、ツケを支払った時点で客には負債がないことになる。しかし実際には、ツケを支払っても客は、行商人に「借り」をもつかのように語ったりふるまったりする。行商人たちは客との交渉で「君がピンチのときに、ツケにしてあげたじゃないか」と言うことで、高値で買ったり、在庫を引き取ったりするよう説得する。客も「いつものツケのお礼に、今日は二枚買うよ」などと応じることもある。より奇妙なことは、ツケが未払いな客が「ツケのお礼に」と食事を奢ってくれることだ。奢る余裕があるなら、なぜツケを払わないのかと疑間に思うが、行商人たちは喜んで応じる。さらに客は「ツケのお礼に」自身の商売で行商人に掛け売りしてくれたりもするが、行商人がしたツケと客が行商人にしたツケが相殺されることもない。行商人は自身の商売でしたツケが未払いな客に対し、儲かった日に掛け売りの代金を払うのだ。こうした事態を説明するには、一つひとつの掛け売りの中に商品支払いと別に贈与交換が含まれていると考えるしかない。そして仮に「商品代金の支払い」は遂行されなくても、「時間や機会の贈与」に何らかの返礼が遂行されるのだとしたら、商売の帳尻があわなくても、ウ生活全般の上では帳尻があっているような気もするのだ。
10 いまから振り返ると、掛け売りが代金支払いの契約と同時に「贈与交換」を含むという了解は、彼ら自身が交渉の過程において共同で生み出していることでもあった。行商人と客との値段交渉は、互いに私的な困難を訴えあうことを基本とする。行商人は「昨日から何も食べていない」「取り締まりに遭って商品を失った」ので「高く買ってくれ」などと訴え、客は「滞納した家賃の支払いを迫られている」「息子が病気である」ので「安く売ってくれ」などと訴える。こうした値段交渉を「リジキ(riziki)(食い扶ち。サプシステンス)を分けあう」という言葉で彼らは表現した。行商人は、交渉において客の表情や言葉尻などから相手のその時点での状況を察知し、多少の嘘や誇張はあってもおそらく生活が苦しいのだと判断すれば、価格を下げ、それなりに好調な生活をしていると判断すれは、価格を上げる。このときに行商人と客とのあいだには、「私は騙された(駆け引きに負けた)かもしれないが、それは相手を助けたのかもしれない」「私は騙した(駆け引きに勝った)かもしれないが、それは相手に助けてもらったのかもしれない」という余韻が残る。ツケの交渉も同様であり、行商人も客も互いに真実を話しているという確証はないが、それでもツケが成功裏に認められると、商売上では判断を誤った/うまくやったかもしれないが、「彼/彼女は事情を汲んでできる限りのことをした/してくれた」という余韻が残る。エこの余韻が商交渉の帳尻をあわせる失敗を時間や機会の贈与交換に回収させるステップになるのだとすると、この交渉で実践されているのは、市場取引の体裁を維持しながら、二者間の基盤的コミュニズムを胚胎させることに他ならない。

設問

(一)「行商人たちにとって掛け売りを認めることは、商売戦略上の合理性とも合致していた」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「まだ返してもらっていないだけだ」(傍線部イ)とあるが、なぜそう主張できるのか、説明せよ。

(三)「生活全般の上では帳尻があっている」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「この余韻が商交渉の帳尻をあわせる失敗を時間や機会の贈与交換に回収させるステップになる」(傍線部エ)とあるが、筆者はどのようなことを言っているのか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。

(五)省略

問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 いまさらいうまでもなく、仮面はどこにでもあるというものではない。日本の祭に常に仮面が登場するわけではない。世界に視野を広げても、仮面を有する社会は、一部の地域にしか分布しない。オセアニアでは、メラネシアでしか、仮面はつくられていない。アフリカなら赤道をはさんで南北に広がる熱帯雨林やウッドランド、サヴァンナ地帯だけで仮面がつくられている。南北アメリカやユーラシアでは広い範囲で仮面の制作と使用が確認できるが、それでもすべての社会に仮面が存在するというわけではない。いまひとつ、仮面が農耕や狩猟、漁撈、採集を主たる生業とする社会にはみられても、牧畜社会にはみられないという点も忘れてはならない。いずれにせよ、仮面は、人類文化に普遍的にみられるものではけっしてない。

2 ただ、世界の仮面の文化を広くみわたして注目されるのは、仮面の造形や仮面の制作と使用を支える組織のありかたに大きな多様性がみられる一方で、随所に、地域や民族の違いを越えて、驚くほどよく似た慣習や信念がみとめられるという事実である。相互に民族移動や文化の交流がおこったとは考えられない、遠く隔たった場所で酷似した現象がみとめられるというのは、やはり一定の条件のもとでの人類に普遍的な思考や行動のありかたのあらわれだと考えてよい。アその意味で、仮面の探求は、人間のなかにある普遍的なもの、根源的なものの探求につながる可能性をもっている

3 地域と時代を問わず、仮面に共通した特性としてあげられるのは、それかいずれも、「異界」の存在を表現したものだという点である。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルに登場する異形の仮面や魔女の仮面まで、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみや死者の仮面から、現代の月光仮面(「月からの使者」といわれる)やウルトラマン(M78星雲からやって来た人類の味方)に至るまで、仮面はつねに、時間の変わり目や危機的な状況において、異界から一時的に来たり、人びとと交わって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。それは、アフリカやメラネシアの葬儀や成人儀礼に登場する死者や精霊の仮面についてもあてはまる。そこにあるのは、異界を、山や森に設定するか、月に設定するか、あるいは宇宙の果てに設定するかの違いだけである。たしかに、知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬ世界=異界は、村をとりまく山や森から、月へ、そして宇宙へと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての異界の力に対する人びとの憧憬、異界からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。

4 ただ、忘れてならないのは、人びとはその仮面のかぶり手を、あるときは歓待し、あるときは慰撫し、またあるときは痛めつけてきたということである。仮面は異界からの来訪者を可視化するものだとはいっても、それはけっして視られるためだけのものではない。それは、あくまでもいったん可視化した対象に人間が積極的にはたらきかけるための装置であった。仮面は、大きな変化や危機に際して、人間がそうした異界の力を一時的に目にみえるかたちにし、それにはたらきかけることで、そのカそのものをコントロールしようとして創りだしてきたもののように思われる。そして、テレビの画面のなかで繰り広げられる現代の仮面のヒーローたちの活躍もまた、それと同じ欲求に根ざしているのである。

5 ここでは、仮面が神や霊など、異界の力を可視化し、コントロールする装置であることを強調してきた。しかし、そのような装置は少なくとももうひとつある。神霊の憑依、つまり憑霊である。しかも、仮面は、これまで、憑依の道具として語られることが多かった。いちいち引用の出典を記すまでもない。仮面をかぶった踊り手には、霊が依り憑き、踊り手はその霊になりきるのだ。あるいは、仮面をかぶった踊り手はもはや仮面をかぶる前の彼ではない、それは神そのものだといった議論は、世界各地の仮面についての民族誌のなかに数多く見いだされる。

6 たしかに、神や精霊に扮した者は、少なくとも何がしか神や精霊の属性を帯びることになるという信念が維持されていなければ、彼らとかかわることで福や幸運が享受できるかもしれないという、かすかな期待を人びとが抱くことすら不可能になる。その意味で、儀礼における仮面と憑依との結びつきは、動かしえない事実のようである。

7 しかし、その一方で神事を脱し芸能化した仮面や子どもたちが好んでかぶる仮面に、憑依という宗教的な体験を想定することはできない。仮面のありかたの歴史的変化が語っているのは、イ仮面は憑依を前提としなくなっても存続しうるという事実である。そしてその点で、仮面は決定的に霊媒と異なる。霊媒は憑依という信念が失われた瞬間、存立しえなくなるからである。

8 仮面と憑依の相同性を強調した従来の議論に反して、民族誌的事実と歴史的事実は、このように、ともに仮面と憑依との違いを主張している。仮面は憑依と重なりあいつつも、それとは異なる固有の場をもっているのである。では、その固有性とは何か。それを考えるには、顔をもうひとつの顔で覆うという、仮面の定義に戻る以外にないであろう。そして、その定義において、仮面が人間の顔ないし身体をその存立の与件としている以上、仮面の固有性の考察も、私たちの身体とのかかわりにおいて進められなければならない。以下では、仮面を私たちの身体的経験に照らして考察することにする。

9 仮面と身体とのかかわり。それはいうまでもなく、仮面が顔、素顔の上につけられるものだという単純な事実に求められる。もちろん、世界を広くみわたしたとき、顔の前につける仮面は、必ずしも一般的だとはいえない。むしろ、顔と体の全体を覆ってしまうかぶりもののほうが多数を占めるかもしれない。しかし、その場合でも、顔が隠されることが要件であることは間違いない。

10 変身にとって、顔を隠すこと、顔を変えることが核心的な意味をもつ理由をはじめて明確に示したのは、和辻哲郎であった。私たちは、たとえ未知の他人であっても、その他人の顔を思い浮かべることなしに、その他人とかかわることはできない。また、肖像画や肖像彫刻にみるように、顔だけで人を表象することはできても、顔を除いて特定の人物を表象することはできない。このような経験をもとに、和辻は「人の存在にとっての顔の核心的意義」を指摘し、顔はたんに肉体の一部としてあるのでなく、「肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座」を占めていると述べたのであった。

11 この和辻の指摘の通り、確かに私たちの他者の認識の方法は顔に集中している。逆にいえば、他者もまた私の顔から私についてのもっとも多くの情報を得ているということになる。しかし、他者か私を私として認知する要となるその顔を、私自身は見ることができない。自分の身体でも他の部分なら鏡を使わずになんとか見えるのに、顔だけは絶対に見ることができないのである。和辻の言葉を借りていえば、顔は私の人格の座であるはずなのに、その顔は私にとってもっとも不可知な部分として、終生、私につきまとうことになる。

12 顔は、しかも身体のなかでも、時々刻々ともっとも大きな変化を遂げている部分であろう。喜ぶとき、悲しむとき、笑うとき、苦しむとき、顔はひとときとして同じ状態でそこにあることはない。

13 もっとも他者から注目され、もっとも豊かな変化を示すにもかかわらず、けして自分ではみることのできない顔。仮面は、まさにそのような顔につけられる。そして、ウ他者と私とのあいだの新たな境界となる

14 ここで仮面が、木製のものと繊維製のものとを問わず、それぞれにほほ定まった形をもったものだという点を忘れてはならない。そのうえ、私たちは、その仮面、自分と他者との新たな境界を、自分の目で見て確かめることができる。仮面は、変転きわまりない私の顔に、固定し対象化したかたどりを与えるのである。したがって、「仮面をかぶると、それまでの自分とは違った自分になったような気がする」という、人びとが漏らす感想も、固定された素顔から別のかたちに固定された顔への変化にともなう感想なのではない。それはむしろ、常に揺れ動き定まることのなかった自身の可視的なありかたが、はじめて固定されたことにともなう衝撃の表明としてうけとられるべきである。また、精霊の仮面をかぶった男が精霊に憑依されたと確信するのも、そしてウルトラマンの仮面をかぶった少年がウルトラマンに「なりきれる」のも、仮面によってかぶり手の世界に対する関係がそのかたちに固定されてしまうからにほかならない

15 仮面は、私たちにとって自分の目ではけっしてとらえられない二つの存在、すなわちエ「異界」と自分自身とを、つかの間にせよ、可視的なかたちでつかみ取るための装置なのである。

設問

(一)「その意味で、仮面の探求は、人間のなかにある普遍的なもの、根源的なものの探求につながる可能性をもっている」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「仮面は憑依を前提としなくなっても存続しうる」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「他者と私とのあいだの新たな境界となる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「『異界』と自分自身とを、つかの間にせよ、可視的なかたちでつかみ取るための装置」(傍線部エ)とはどのようなことを言っているのか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。

(五)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 私がこれまでに作曲した音楽の量は数時間あまりにすぎない。たぶんそれは、私がひととしての意識を所有しはじめてからの時間の総量に比べれば瞬間ともいえるほどに短い。しかもそのなかで他人にも聴いて欲しいと思える作品は僅か数曲なのである。私は、今日までの全ての時間を、この無にも等しい短い時のために費やしたのであろうか。あるいは、私が過ごした時の大半が、宇宙的時間からすれば無にちかい束の間であり、この、惑星のただ一回の自転のために必要な時間にも充たない数時間の作品と、これからの僅かな時が、ひととしての私を定めるのであろうか、などと考えるのであるが、それは、もうどうでも良いことであり、いずれにせよ私がすることなどはたかが知れたことであり、それだから後ろめたい気分にたえず落ちいることもなしにやっても行けるのだろう、と思うのである。

2 寒気の未だ去らない信州で、棘のように空へ立つ裸形の樹林を歩き、頂を灰褐色の噴煙にかくした火山のそこかしこに雪を残した黒々とした地表を凝視(みつ)めていると、知的生物として、宇宙そのものと対峙するほどの意識をもつようになった人類も、結局は大きな、眼には感知しえない仕組の内にあるのであり、宇宙の法則の外では一刻として生きることもなるまいと感じられるのである。

3 生物としての進化の階梯を無限に経て、然し人間は何処へ行きつくのであろうか。

4 八年程前、ハワイ島のキラウェア火山にのぼり、火口に臨むロッジの横長に切られた窓から、私は家族と友人たち、それに数人の泊り客らとぼんやりと外景を眺めていた。日没時の窓の下に見えるものはただ水蒸気に煙る巨大なクレーターであった。 朱の太陽が、灰色の厚いフェルトを敷きつめた雲の涯に消えて闇がたちこめると、クレーターはいっそう深く黯(くら)い様相をあらわにしてきた。それは、陽のあるうちは気づかずにいた地の火が、クレーターの遥かな底で星のように輝きはじめたからであった。

5 誰の仕業であろうか、この地表を穿ちあけられた巨大な火口は、私たちの空想や思考の一切を拒むもののようであった。それはどのような形容をも排けてしまう絶対の力をもっていた。今ふりかえって、あの沈黙に支配された時空とそのなかに在った自分を考えると、そこではア私のひととしての意識は少しも働きはしなかったのである。しかし私は言いしれぬ力によって突き動かされていた。あの時私の意識が働かなかったのではなく、意識は意識それ自体を超える大いなるものにとらえられていたのであろうと思う。私は意識の彼方からやって来るものに眼と耳を向けていた。私は何かを聴いたし、また見たかも知れないのだが、いまそれを記憶してはいない。

6 その時、同行していた作曲家のジョン・ケージが私を呼び、かれは微笑しながら nonsense! と言った。そして日本語で歌うようにバカラシイと言うのだった。そこに居合せた人々はたぶんごく素直な気持でその言葉を受容(うけい)れていたように思う。

7 そうなのだ、これはバカラシイことだ。私たちの眼前にあるのは地表にぽかっと空いたひとつの穴にすぎない。それを気むずかしい表情で眺めている私たちはおかしい。人間もおかしければ穴だっておかしい。だが私を含めて人々はケージの言葉をかならずしも否定的な意味で受けとめたのではなかった。またケージはこの沈黙の劇に註解をくわえようとしたのでもない。イ周囲の空気にかれはただちょっとした振動をあたえたにすぎない

 

8 昨年の暮れから新年にかけて、フランスの学術グループに加わり、インドネシアを旅した。デンパサル(バリ島の中心地)から北西へ四十キロほど離れた小さなヴィレッジへガムランの演奏を聴きに行った夜のことだ。寺院の庭で幾組かのグループが椰子油を灯してあちこちで一斉に演奏していた。群衆はうたいながら踊りつづけた。私は独特の香料にむせながら、聴こえてくる響きのなかに身を浸した。そこでは聴くということは困難だ、音の外にあって特定のグループの演奏する音楽を択ぶことなどはできない。「聴く」ということは(もちろん)だいじなことには違いないのだが、私たちはともすると記憶や知識の範囲でその行為を意味づけようとしがちなのではないか。ほんとうは、聴くということはそうしたことを超える行為であるはずである。それは音の内に在るということで音そのものと化すことなのだろう。

9 フランスの音楽家たちはエキゾチックなガムランの響きに夢中だった。かれらの感受性にとってそれは途方もない未知の領域から響くものであった。 そして驚きのあとにウかれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった。私は現地のインドネシアの人々とも、またフランスの音楽家たちとも異なる反応を示す自分を見出していた。私の生活は、バリ島の人々のごとくには、その音楽と分ちがたく一致することはないだろう。かといってフランスの音楽家のようには、その異質の音源を自分たちの音楽表現の論理へ組みこむことにも熱中しえないだろう。

10 通訳のベルナール・ワヤンが寺院の隣の庭で影絵が演じられているというので、踊る人々をぬけて石の門をくぐった。急に天が低く感じられたのは、夜の暗さのなかで星が砂礫のように降りしきって見えたからであった。庭の一隅の、そこだけはなおいっそう夜の気配の濃い片隅で影絵は演じられていた。奇異なことに一本の蠟燭すら点されていない。影絵は精緻に切抜かれた型をスクリーンに映して宗教的な説話を演ずるものである。事実、その後ジャワ島のどの場所で観た影絵も灯を用いないものはなかった。私は、演ずる老人のまぢかに寄ってゆき、布で張られたスクリーンに眼をこらした。無論なにも見えはしない。老人の側に廻ってみると、かれは地に坐し、組まれた膝の前に置かれた多くの型のなかからひとつあるいはふたつを手にとっては呟(つぶや)くように説話を語りながらスクリーンへ翳していた。私は通訳のワヤンに訊ねた、老人は何のためにまた誰のために行なっているのか。ワヤンの口を経て老人は、自分自身のためにそして多くの精霊のために星の光を通して宇宙と会話しているのだと応えた。そして何かを、宇宙からこの世界へ返すのだと言ったらしいのだ。たぶん、これもまたバカラシイことかもしれない。だがその時、私は意識の彼方からやってくるものがあるのを感じた。私は何も現われはしない小さなスクリーンを眺めつづけた。エそして、やがて何かをそこに見出したように思った

設問

(一)「私のひととしての意識は少しも働きはしなかったのである」(傍線部ア) とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「周囲の空気にかれはただちょっとした振動をあたえたにすぎない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「かれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「そして、やがて何かをそこに見出したように思った」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章は、夏目漱石が正岡子規を偲んで記したものである。子規は闘病のかたわら「写生」を唱えて短歌・俳句の革新運動を行い、三十代半ばで逝去した。これを読んで、後の設問に答えよ。

 

1 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまって置いた。年数の経つにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああして置いては転宅の際などに何処へ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵をはたいて中を検(しら)べると、画は元のまま湿っぽく四つ折りに畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はその中から子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一まとめに表装させた。

2 画は一輪ざしに挿した東菊(あずまぎく)で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎みかけた所と思いたまえ。ア下手(まず)いのは病気の所為(せい)だと思いたまえ。嘘だと思わば肱をついて描いて見たまえ」という註釈が加えてある所を以て見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るかなという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。

3 壁にかけて眺めて見るとイいかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合わせてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持ちが襲って来てならない。

4 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少なくとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折りは、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明らかな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上で既に悟入した同一方法を、この方面に向かって適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。
5 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、ウ余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのぐらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観がある所に、隠しきれない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄嗟に弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れ難い。

6 子規は人間として、また文学者として、もっとも「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得たためしがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。できうるならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、エ淋しさの償いとしたかった

設問

(一)「下手いのは病気の所為せいだと思い玉え」(傍線部ア)にあらわれた子規の心情について説明せよ。

(二)「いかにも淋しい感じがする」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(三)「余は微笑を禁じ得ないのである」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「淋しさの償いとしたかった」(傍線部エ)にあらわれた「予」の心情について説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 「近代化」は、それがどの範囲の人びとを包摂するかによって異なる様相を示す。「第一の近代」と呼ばれるフェーズでは、市民権をもつのは一定以上の財産をもつ人にかぎられている。それは、個人の基盤が私的所有におかれており、財の所有者であってはじめて自己自身を所有するという意味での自由を有し、ゆえに市民権を行使することができるとみなされたからである。この制限は徐々に取り払われ、成人男子全員や女性に市民権が拡張されていく。市民権の拡張とともに今度は、社会的所有という考えにもとづき財を再配分する社会保障制度によって、「第一の近代」から排除されていた人びとが包摂され、市民としての権利を享受できるようになる。これがいわゆる福祉国家であり、人びとはそこで健康や安全など生の基盤を国家によって保障されることになったのである。それでも、理念的には国民全体を包摂するはずの福祉国家の対象から排除される人びとはつねに存在する。

2 人類学者が調査してきたなかには、国家を知らない未開社会の人びとだけではなく、すでに国民国家という枠組みに包摂されたなかで生きる人たちもいる。ただそこには、なんらかの理由で国家の論理とは別の仕方で生きている人たちがいて、国家に抗したり、その制度を利用したりしながら生きており、そうした人たちから人類学は大きなインスピレーションを得てきた。ここでは、国家のなかにありながら福祉国家の対象から排除された人びとが形づくる生にまつわる事例を二つ紹介しておこう。

3 第一の例は、田辺繁治が調査したタイのHIV感染者とエイズを発症した患者による自助グループに関するものである。タイでは一九八〇年代末から九〇年代初頭にかけてHIVの爆発的な感染が起こった。そのなかでタイ国家がとった対策は、感染していない国民の感染予防であり、その結果すでに感染していた者たちは逆に医療機関から排除され、さらには家族や地域社会からも差別され排除されることになった。孤立した感染者・患者たちは互いに見知らぬ間柄であったにもかかわらず、生き延びるために、エイズとはどんなものでそれをいかに治療するか、この病気をもちながらいかに自分の生を保持するかなどをめぐって情報を交換し、徐々に自助グループを形成していった。

4 HIVをめぐるさまざまな苦しみや生活上の問題に耳を傾けたり、マッサージをしたりといった相互的なケアのなかで、感染者たちは自身の健康を保つことができたのだ。それは「新たな命の友」と呼ばれ、医学や疫学の知識とは異なる独自の知や実践を生み出していく。そこには非感染者も参加するようになり、アケアをする者とされる者という一元的な関係とも家族とも異なったかたちでの、ケアをとおした親密性にもとづく「ケアのコミュニティ」が形づくられていった。「近代医療全体は人間を徹底的に個人化することによって成立するものであるが、そこに出現したのはその対極としての生のもつ社会性」(田辺)だったのである。

5 こうした社会性は、福祉国家における公的医療のまっただなかにも出現しうる。たとえば筆者が調査したイタリアでは、精神障害者は二〇世紀後半にいたるまで精神病院に隔離され、市民権を剥奪され、実質的に福祉国家の対象の埒外に置かれていた。なぜなら精神障害者は社会的に危険であるとみなされていて、彼らから市民や社会を防衛しなければならないと考えられていたからである。精神病院は治療の場というより、社会を守るための隔離と収容の場であった。

6 しかしこうした状況は、精神科医をはじめとする医療スタッフと精神障害をもつ人びとによる改革によって変わっていく。一九六〇年代に始まった反精神病院の動きは一九七八年には精神病院を廃止する法律の制定へと展開し、最終的にイタリア全土の精神病院が閉鎖されるまでに至る。病院での精神医療に取って代わったのは地域での精神保健サービスだった。これは医療の名のもとで病院に収容する代わりに、苦しみを抱える人びとが地域で生きることを集合的に支えようとするものであり、イ「社会」を中心におく論理から「人間」を中心におく論理への転換であった。精神医療から精神保健へのこうした転換は公的サービスのなかで起こったことであり、それは公的サービスのなかに国家の論理、とりわけ医療を介した管理と統治の論理とは異なる論理が出現したことを意味している。

7 その論理は、私的自由の論理というより共同的で公共的な論理であった。たとえば、病院に代わって地域に設けられた精神保健センターで働く医師や看護師らスタッフは、患者のほうがセンターにやってくるのを待つのではなく、自分たちの方から出かけて行く。たとえば、地域に住む若者がひきこもっているような場合、個人の自由の論理にしたがうことで状況を放置すると、結局その若者自身と家族は自分たちではどうすることもできないところまで追い込まれてしまうことになる。そのような事態を回避し、地域における集合的な精神保健の責任をスタッフは負うのである。そこにはたしかに予防的に介入してリスクを管理するという側面がともないはするが、そうした統治の論理を最小限化しつつ、苦しむ人びとの傍らに寄り添い彼らの生の道程を共に歩むというケアの論理を最大化しようとするのである。

8 二つの人類学的研究から見えてくるのは、個人を基盤にしたものとも社会全体を基盤におくものとも異なる共同性の論理である。この論理を、明確に取り出したのがアネマリー・モルである。モルはオランダのある町の大学病院の糖尿病の外来診察室でフィールドワークを行い、それにもとづいて実践誌を書いた。そのなかで彼女は、糖尿病をもつ人びとと医師や看護師の協働実践に見られる論理の特徴を「ケアの論理」として、「選択の論理」と対比して取り出してみせた。

9 ウ選択の論理は個人主義にもとづくものであるが、その具体的な存在のかたちは市民であり顧客である。この論理の下で患者は顧客となる。医療に従属させられるのではなく、顧客はみずからの欲望にしたがって商品やサービスを主体的に選択する。医師など専門職の役割は適切な情報を提供するだけである。選択はあなたの希望や欲望にしたがってご自由に、というわけだ。これはよい考え方のように見える。ただこの選択の論理の下では、顧客は一人の個人であり、孤独に、しかも自分だけの責任で選択することを強いられる。インフォームド・コンセントはその典型的な例である。しかも選択するには自分が何を欲しているかあらかじめ知っている必要があるが、それは本人にとってもそれほど自明ではない。

10 対してケアの論理の出発点は、人が何を欲しているかではなく、何を必要としているかである。それを知るには、当人がどういう状況で誰と生活していて、何に困っているか、どのような人的、技術的リソースが使えるのか、それを使うことで以前の生活から何を諦めなければならないのかなどを理解しなければならない。重要なのは、選択することではなく、状況を適切に判断することである。

11 そのためには感覚や情動が大切で、痛み苦しむ身体の声を無視してたとえば薬によっておさえこもうとするのではなく、身体に深く棲みこむことが不可欠である。脆弱であり予測不可能で苦しみのもとになる身体は、同時に生を享受するための基体でもある。この薬を使うとたとえ痛みが軽減するとしても不快だが、別のやり方だと痛みがあっても気にならず心地よいといった感覚が、ケアの方向性を決める羅針盤になりうる。それゆえケアの論理では、身体を管理するのではなく、身体の世話をし調えることに主眼がおかれる。そこではさらに、身体の養生にかかわる道具や機械、他の人との関係性など、かかわるすべてのものについて絶え間なく調整しつづけることも必要となる。つまりケアとは、「ケアをする人」と「ケアをされる人」の二者間での行為なのではなく、家族、関係のある人びと、同じ病気をもつ人、薬、食べ物、道具、機械、場所、環境などのすべてから成る共同的で協働的な作業なのである。エそれは、人間だけを行為主体と見る世界像ではなく、関係するあらゆるものに行為の力能を見出す生きた世界像につながっている

設問

(一)「ケアをする者とされる者という一元的な関係とも家族とも異なったかたちでの、ケアをとおした親密性」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「『社会』を中心におく論理から『人間』を中心におく論理への転換」 (傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「選択の論理は個人主義にもとづくものである」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「それは、人間だけを行為主体と見る世界像ではなく、関係するあらゆるものに行為の力能を見出す生きた世界像につながっている」(傍線部工)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ。

(五)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 「あなたが何を考えているのか知りたい」小田久郎さんはそうおっしゃった。電話口を通してぼそぼそと響いてきたその肉声だけが、私にとってこんな文章を綴ろうとする唯一の理由だと、そんなふうに私は感じている。

2 編集者である小田さんの背後に、無限定な読者を想定することは、今の私にはむずかしい。私の考えることが、その人たちにとってどれだけ意味のあることか、私には確信がない。私の書くことはみな、まったく私的なことで、それを公表する理由がどこにあるのか見当がつかない、それが私の正直な気持ちだ。が、それでも私は電話口で小田さんの肉声に自分の肉声でためらいながらも答えたのである。

3 原稿を注文され、それをひきうけるという一種の商取引に私たち物書きは慣れ、その行為の意味を深く問いつめる余裕も持てないでいるけれど、その源にそんな肉声の変換があるとするならば、それを信じてみるのもいいだろう。作品をつくること、たとえば詩であると自分でやみくもに仮定してかかっているある多くない分量のことばをつなぎあわせること、また歌や、子どもの絵本のためのことばを書くことと、このような文章を書くことの間には、私にとっては相当な距離がある。

4 ア作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする。自分についての反省は、作品をつくっている段階では、いわば下層に沈澱していて、よかれあしかれ私は自分を濾過して生成してきたある公的なものにかかわっている。私はそこでは自分を私的と感ずることはなくて、むしろ自分を無名とすら考えていることができるのであって、そこに私にとって第一義的な言語世界が立ち現れてくると言ってもいいであろう。

5 見えがかり上、どんなにこのような文章と似ていることばを綴っているとしても、私には作品と文章(適当なことばがないから仮にそう区別しておく)のちがいは、少なくとも私自身の書く意識の上では判然と分かれている。そこからただちにたとえば詩とは何かということの答えにとぶことは私には不可能だが、その意識のうえでの差異が、私に詩のおぼろげな輪郭を他のものを包みこんだ形で少しでもあきらかにしてくれていることは否めない。

6 もちろん私が仮に作品(創作と呼んでもいい)と呼ぶ一群の書きものから、詩と呼ぶ書きものを分離するということはまた、別の問題なので、作品中には当然散文も含まれてくるから、作品と文章の対比を詩と散文の対比に置きかえることはできない。強いていえば、虚構と非虚構という切断面で切ることはできるかもしれぬが、そういう切りかたでは余ってしまうものもあるにちがいない。作品においては無名であることが許されると感じる私の感じかたの奥には、詩人とは自己を超えた何ものかに声をかす存在であるという、いわば媒介者としての詩人の姿が影を落としているかもしれないが、そういう考えかたが先行したのではなく、言語を扱う過程で自然にそういう状態になってきたのだということが、私の場合には言える。

7 真の媒介者となるためには、その言語を話す民族の経験の総体を自己のうちにとりこみ、なおかつその自己の一端がある超越者(それは神に限らないと思う。もしかすると人類の未来そのものかもしれない)に向かって予見的に開かれていることが必要で、私はそういう存在からはほど遠いが作品をつくっているときの自分の発語の根が、こういう文章ではとらえきれないアモルフな自己の根源性(オリジナリティ)に根ざしているということは言えて、イそこで私が最も深く他者と結ばれていると私は信じざるを得ないのだ。

8 そこには無論のこと多量のひとりよがりがあるわけだが、そういう根源性から書いていると信ずることが、私にある安心感を与える。これは私がこういう文章を書いているときの不安感と対照的なものなのだ。自分の書きものに対する責任のとりかたというものが、作品の場合と、文章の場合とでははっきりちがう。

9 これは一般的な話ではなくて、あくまで私個人の話だが、作品に関しては、そこに書かれている言語の正邪真偽に直接責任をとる必要はないと私は感じている。正邪真偽でないのなら、では美醜かとそう性急に問いつめる人もいるだろうが、美醜にさえ責任のとりようはなく、私が責任をとり得るのはせいぜい上手下手に関してくらいのものなのだ。創作における言語とは本来そのようなものだと、個人的に私はそう思っている。もしそういうものとして読まぬならば、その責任は読者にあるので、私もまた創作者であって同時に読者であるという立場においてのみ、自分の作品に責任を負うことができる。

10 逆に言えばそのような形で言語世界を成立させ得たとき、それは作品の名に値するので、現実には作家も詩人も、創作者としての一面のみでなく、ある時代、ある社会の一員である俗人としての面を持つものだから、彼の発言と作品とを区別することは、とくに同時代者の場合、困難だろうし、それを切り離して評価するのが正しいかどうか確言する自信もないけれど、離れた時代の優れた作品を見るとき、あらゆる社会的条件にもかかわらずその作品に時代を超えてある力を与えているひとつの契機として、ウそのような作品の成り立ちかたを発見することができよう。

11 <作品>と<文章>の対比を、言語論的に記述する能力は私にはない。私はただ一種の貧しい体験談のような形で、たどたどしく書いてゆくしかないので、初めに述べた私のこういう文章を書くことへのためらいもそこにある。エ作品を書くときには、ほとんど盲目的に信じている自己の発語の根を、文章を書くとき私は見失う。作品を書くとき、私は他者にむしろ非論理的な深みで賭けざるを得ないが、文章を書くときには自分と他者を結ぶ論理を計算ずくでつかまなければならない、そういうふうに言うこともできる。

12 どんなに冷静にことばを綴っていても、作品をつくっている私の中には、何かしら呪術的な力が働いているように思う。インスピレーションというようなことばで呼ぶと、何か上のほうからひどく気まぐれに、しかも瞬間的に働く力のように受けとられるかもしれないが、この力は何と呼ぼうと、むしろ下のほうから持続的に私をとらえる。それは日本語という言語共同体の中に内在している力であり、私の根源性はそこに含まれていて、それが私の発語の根の土壌となっているのだ。

設問

(一)「作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「そこで私が最も深く他者と結ばれている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「そのような作品の成り立ちかた」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「作品を書くときには、ほとんど盲目的に信じている自己の発語の根を、文章を書くとき私は見失う」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 迷い子になった。

2 僕が六歳か七歳の時だったと思う。母とふたりで買いものに出掛けた帰り途。乗り慣れた東武東上線の電車の中での出来事だった。車窓の風景を見るのが何より好きだった僕は、座っている母から少し離れたドアの前に立ち、夕暮れの街並みを目で追っていた。風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。あわてて車内を振り返ったが、母の姿は既にそこには無かった。あとになってわかったことだが、乗降客の波に一瞬僕を見失った母は、下赤塚で降りた別の少年を僕と見間違い、改札の外まで追い掛けてしまったらしい。

3 次の駅で降りれば、そこから家までは小学校の通学路だ。ひとりでもなんとか家に辿り着けるだろう。母はそう考えて、そのまま家へ戻り、夕飯を作りながら僕の帰りを待つことにしたようだ。しかし、車内に残された僕がそのことに気付いたのは、既に電車が次の駅を通過した後だった。その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。

4 (どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。そのまま放って置いたら、終点の池袋まで連れて行かれてしまったと思うのだが、途中でひと組の母娘が僕に声を掛けてくれたらしい。らしい、というのはその瞬間は僕の記憶からはスッポリと抜け落ちてしまっているからだ。

5 記憶の中の次のシーンでは、僕は駅のホームに設けられた薄暗い駅員室のような場所にポツンと座っている。恐らく彼らがかわいそうに思って僕を連れて電車を降り、駅員を呼んでくれたのだろう。僕はその部屋で母の迎えを待つことになったのだ。すっかり暗くなってしまった風景の中、恩人のふたりが、再び電車に乗って去っていく姿を覚えている。窓ガラス越しに見えた中学生くらいの女の子は(もう大丈夫よ)というように少し微笑んでいた。

6 母を待っている姿があんまり寂しそうだったからか、そばにいた駅員が僕の手のひらに菓子をひとつ握らせてくれた。ヌガーだった。キャラメルのような歯ごたえの、あの白いやつだ。駅員の顔は覚えていない。恥ずかしくてたぶん見られなかったのだろう。僕はお礼も言わずに、そのヌガーをほおばった。しばらく噛んでいると甘さの奥にピーナッツの香ばしさが口いっぱいに広がった。美味しかった。ああ……今度このお菓子を母親に買ってもらおうと、その時思った。イその瞬間、僕の中から不安は消えていた

7 迷い子になったときにその子供を襲う不安は、両親を見失ったというような単純なものでは恐らくない。それは、僕のことなど誰も知ることのない「世界」と、そしてその無関心と、否応なく直面させられるという大きな戸惑いである。その疎外感の体験が少年を恐怖の底につき落とすのだろう。自分を無条件に受け入れ庇護してくれる存在の元を離れ、「他者」(それが善意であれ悪意であれ)としての世界と向き合う――人が大人になっていく過程でいずれは誰もが経験しなくてはいけないウこのような邂逅を、予行演習として暴力的に体験させられる――それが迷い子という経験なのではないだろうか。だからこそ迷い子は、産まれたての赤ん坊のように泣き叫ぶのだ。たったひとりで世界へ放り出されたことへの恐怖から、これでもかと泣くのだ。そして、どんなに泣いても、もう孤独に世界と向き合っていかなくてはいけないのだと悟った時、少年は迷い子であることと訣別し、大人になるのだと思う。その時を境にして、母は、自分を包み込んでくれる世界そのものではなく、世界の片隅で自分を待っていてくれるだけの小さな存在に変質してしまう――。かつて迷い子だった大人は、そのことに気付いた時、エ今度はこっそりと泣くのである

8 あの日の夜、駅まで迎えに来てくれた母のことはどうしたわけか、全く覚えていない。ただ、今でも一緒に電車に乗ると、母はこの時のことを思い出しては「でもほんとうにお前に似た子だったんだよ、後ろ姿が…」と、申し訳無さそうな顔を僕へ向けるのである。

設問

(一)「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「その瞬間、僕の中から不安は消えていた」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(三)「このような邂逅を、予行演習として暴力的に体験させられる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「今度はこっそりと泣くのである」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

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