問題文(段落番号は便宜上付けたもの)
次の文章は、1956年に発表された小説である。これを読んで、後の設問に答えよ。
1 小柄な痩せた男で、茣蓙でくるんだ苗木を背中にまっすぐに背負って、庭に立つと、
2 「ごめんください」
3 と、云って汚れた帽子をとって腰をかがめた。その、ごめんください、という挨拶が、女性的な声だけどどこか格式張っていた。顔つきはその声のように細おもての柔和な、むしろ伏目がちの弱気な表情だった。
4 「植木屋でございますが、今日は沈丁花を持ってまいりましたが……」
5 「植木屋さんなの」
6 しげのが縁先きへ出てゆくと、爺さんは背中から茣蓙の包みをおろしてひらいた。
7 「あら、小さいのね。いくら?」
8 「一本80円ですが、2本ありますから、2本買って下されば、130円におまけいたします」
9 「お父さん、どうします。買いますか」
10 そして沈丁花を買うことになって、それがきっかけで、庭の周囲の七、八本の檜葵も、この爺さんが運んでくることになった。順吉たちのつもりでは、檜葉は目かくし用にとおもって頼んだのだが、爺さんの背負ってくるのは、いつも殆ど一尺ばかりの苗木だった。
11 「あら、そんなに小さいの?」
12 と、そのときもしげのは云った。爺さんは目を伏せ、気弱に、しげのの言葉を聞き流して、
13 「なに、すぐ檜葉は大きくなりますです」
14 と、答えて、自分で土を掘って植えた。
15 しげのはお茶を出したり、丁度昼飯どきには、そうめんを分けて出したりした。
16 たいてい日曜に来るので、順吉もいた。植木屋の爺さんは縁側に腰をかけ、お茶をのむときも、そうめんをよばれるときも、「いただきます」と云って手にとったが、その、いただきます、という調子には歌うようなひびきがあって、ちっとも卑屈なものがない。優しい顔をしている。
17 一度その姓名を聞いたとき、爺さんが、あんまり立派な名前なので、しげのは爺さんの前身に興味を持ったが、戦争中女房の実家の千葉県に疎開して百姓をやっていたつづきで、今は植木を売って歩いているのだ、ということしかわからなかった。伊志野剛直という、いかめしい姓名には似合わず、小柄のひょこひょこと歩く苗木売りだが、そのもの云いだけ、どこか変っている。しかも、順吉はその苗木屋を自分より年上とおもっていたが、見かけよりはずっと若く、まだ四十代で、小学生の女の子があるという。
18 しげのは心易くなり、今度は少し大きい樹を持ってきてくれ、と不満そうに云うのだが、そんなとき、伊志野剛直は、ちょっと悲しい表情をするような気がした。
19 「はい」
20 と答えて、伏目に前を見つめる。順吉は女房にばかり応対させて、自分はあまりものを云わなかったが、苗木屋の表情の悲しげなのに気づくのは彼だった。
21 しげのに云われても、その苗木屋のその次に持ってくるのはやっぱり一尺足らずの苗木ばかりだ。値が安いので伊志野の持ってくる度に、順吉の家では買い、小さな植木ばかり、雑然と植えた。木犀、乙女椿、くちなし、ざくろ、つつじなど。しかし伊志野剛直は、格式張った口調で、ときには自分の苗木に鹿つめらしい説明をすることもある。
22 「楓には、板屋楓、高尾楓などありまして、これは高尾でございます。紅葉のもみじと申しますは、この高尾楓の紅葉が、いちばん美しいので、その名をよぶようになりまして、城州は高尾山に多いところから、高尾楓と申します」
23 「ああ、なるほどね」
24 しげのが対手上手なので、伊志野は、この家へ来ると、安心したように縁側に腰をおろして、ときには、持って来た苗木を買ってもらえないときでも暫く休んで行ったりした。帰るときには、
25 「あ、お邪魔をいたしました。また、お願いいたします」
26 とゆっくり挨拶をして、茣蓙包みを背負って、ひょこひょこと帰ってゆく。両方でなじんで順吉の家では次ぎ次ぎにその庭の殆どが伊志野剛直の苗木で埋まっていった。しかしその庭は残念ながら腰より高い樹木はないのだった。
27 が、順吉は、二年ばかりの間に、近所に新しく建った住宅の玄関などが、ちんまりと植込みのできているのを、朝夕見ているうちに、わが家の前が依然としてむき出しなのを、少々もの足りなくなっていた。そして遂いにあるとき、3千円ばかりはずんで、これは本職の植木屋に頼んで、冬も落葉しない樹をという注文で、樫の木、柊などを植えることにした。そのとき順吉は、伊志野剛直をおもい出して、ア彼に気の毒なおもいをさせるような気がした。3千円といえは苗木屋の二年間に運んだ植木代の倍であった。
28 その日曜日、本職の植木屋は、いかにも本職らしいいでたちで、若いものひとりを使って、軒まで達する高さの樫の木をリヤカーで運び、高声の早口で配置の位置を指定したりしながら、深く土を掘った。樫の木には支えの添え木も2本つけて縄で結(ゆわ)き、その下には柊や、つくばねうつ木や、黄楊を植え、片方には、おまけだといって篠竹も植える筈だった。順吉は馬穴の水を運んだりして手伝っていたが、彼が内心で気づかっていたとおり、丁度その最中に、苗木屋の伊志野剛直が、いつものように茣蓙包みを背負ってやって来たのである。
29 「あ、ごめんください」
30 伊志野は、本職の植木屋には顔を合せず、いつものように縁先きに来て腰をおろした。しげのもやはりいつものようにお茶を出して、
31 「おじさんに大分植えてもらいましたけどね、玄関さきだけ、あんまり淋しいから、大きな樹を一本入れるんですよ」
32 と、言訳をした。
33 「は、お立派になります」
34 「そんなにはねえ、お金をかけないから」
35 さすがにその日は茣蓙を解かず、
36 「また、お願いいたします」
37 と立った。
38 「ええ、また、来て下さいね。今日はすみませんでした」
39 順吉の方は、苗木屋に顔を合わせることができないで、隠れるようにしていた。順吉にはそんな気の弱いところがある。気が弱いというよりは、伊志野に対して、いささかの裏切りをしたような、自分を責めるおもいさえ彼は感じていた。
40 値込みの終った玄関先きに、彼は満足しながらも、その夕方、しげのと膳に向ったとき、
41 「あのいつもの植木屋の爺さん、厭な気がしただろうねえ」
42 と、云っていた。 しげのの方は割り切ったように、
43 「イだって、あのおじさん苗木ばっかりですもの、仕方がないですよ」
44 「また、来るかね」
45 「もう、うちの庭も広くないもの、植えるところもないですよ」
46 ところが、伊志野剛直は、それっきり、この家の庭先きに姿を現わさなくなったのである。もうそれから一年経つ。ウ苗木屋の植えた囲いの檜葉は倍の丈に伸びて、結構、形を成した。
47 大田順吉は、苗木屋の伊志野剛直が、この庭に、というより、順吉夫婦に親しみを寄せていたとおもう。だから、順吉が本職の植木屋を入れたとき、彼を裏切るような、うしろめたさを感じた。それ以来、伊志野剛直がこの庭に姿を現わさない、ということで一層順吉は、彼を傷けたおもいが消えない。
48 伊志野剛直はいく度、しげのが、も少し大きい樹を、と云っても、苗木しか持って来られない事情があったのであろう。本職の植木屋とゆき合ったとき、彼は、だから引け目を抱いたのにちがいない。
49 だが、それ以来ばったり姿を見せない、ということは、伊志野剛直の誇りなのか。
50 今日順吉は、勤め先きの家具製造店で厭なおもいをした。
51 彼は、請求書の計算をまちがえたのである。若い店員がずけずけと店主の前でそれを云い、順吉は一言もなかった。こんなとき、順吉は自分の年齢を引け目に感じた。ふっと心のどこかで、姿を現わさない苗木屋の誇りをおもい出していたような気がする。
52 「あの、植木屋の爺さん、どうしたかね」
53 と、 順吉はしげのに声をかけた。
54 「あれっきり来ませんね。やっぱり苗木売って歩いてるんでしょうにね。また小学校にゆく子がいるといってたけど、少し変ってましたよ、ね」
55 しげのには、伊志野剛直の誇りはわからないらしい。大田順吉は黙ったまま、あの苗木屋に対する自分の裏切りと、そして再び姿を見せぬあの苗木屋に、エ同感とも羨望ともつかぬ、なつかしさを、じいっと感じて立っていた。