問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章は、夏目漱石が正岡子規を偲んで記したものである。子規は闘病のかたわら「写生」を唱えて短歌・俳句の革新運動を行い、三十代半ばで逝去した。これを読んで、後の設問に答えよ。

 

1 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまって置いた。年数の経つにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああして置いては転宅の際などに何処へ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵をはたいて中を検(しら)べると、画は元のまま湿っぽく四つ折りに畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はその中から子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一まとめに表装させた。

2 画は一輪ざしに挿した東菊(あずまぎく)で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎みかけた所と思いたまえ。ア下手(まず)いのは病気の所為(せい)だと思いたまえ。嘘だと思わば肱をついて描いて見たまえ」という註釈が加えてある所を以て見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るかなという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。

3 壁にかけて眺めて見るとイいかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合わせてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持ちが襲って来てならない。

4 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少なくとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折りは、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明らかな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上で既に悟入した同一方法を、この方面に向かって適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。
5 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、ウ余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのぐらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観がある所に、隠しきれない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄嗟に弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れ難い。

6 子規は人間として、また文学者として、もっとも「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得たためしがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。できうるならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、エ淋しさの償いとしたかった

設問

(一)「下手いのは病気の所為せいだと思い玉え」(傍線部ア)にあらわれた子規の心情について説明せよ。

(二)「いかにも淋しい感じがする」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(三)「余は微笑を禁じ得ないのである」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「淋しさの償いとしたかった」(傍線部エ)にあらわれた「予」の心情について説明せよ。

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