問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 「カオスの縁」という言葉をご存知だろうか? この「カオスの縁」とは、1960年代から行われているセル・オートマトンと呼ばれるコンピューター上のプログラムを使った研究が端緒となり提唱された概念である。とても大雑把に言えば、二つの大きく異なった状態(相)の中間には、その両側の相のいずれとも異なった、複雑性が非常に増大した特殊な状態が現れる、というようなことを指している。

2 身近なイメージで言えば“水”を挙げられるだろうか。ご存知のように、水は気体・液体・固体という三つの形態をとる。たとえば気体の水蒸気は、水分子の熱運動が大きくなり、各分子が分子同士の結合力の束縛から放たれ、空間の中で自由気ままに振舞っている非常に動的な姿である。一方、氷は水分子同士が強固に結合し、各分子は自身が持つ特性に従って規則正しく配列され、理にかなった秩序正しい形を保っている静的な状態だ。

3 その中間にある液体の、いわゆる“水”は、生命の誕生に大きく貢献したと考えられる、柔軟でいろんな物質と相互作用する独特な性質を多数持っている。水蒸気とも氷ともかなり異なった特性である。この“水”の状態で水分子が存在できる温度範囲は、宇宙のスケールで考えるなら、かなり狭いレンジであり、実際“水”を湛えた星はそうそう見つからない。巨視的に見れば“水”は分子同士が強固に束縛された氷という状態から、無秩序でカオス的に振舞う水蒸気という状態への過渡期にある特殊な状態、すなわち「カオスの縁」にある姿と言えるのかもしれない。

4 この「カオスの縁」という現象が注目されたのは、それが生命現象とどこかつながりを感じさせるものだったからである。生き物の特徴の一つは、この世界に「形」を生み出すことだ。それは微視的には有機物のような化学物質であり、少し大きく見れば、細胞であり、その細胞からなる我々人間のような個体である。そして、さらに巨視的に見れば、その個体の働きの結果できてくるアリ塚であったり、ビーバーのダムであったり、東京のような巨大なメガロポリスであったりする。

5 しかし、こういった生物の営みは、ア自然界ではある意味、例外的なものである。何故なら、この世界は熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)に支配されており、世界にある様々な分子たちは、より無秩序に、言葉を変えればカオスの方向へと、時間と共に向かっているはずだからである。そんなカオスへ向かいつつある世界の中で、「形あるもの」として長期間存在できるのは、一般的に言えば、それを構成する原子間の結合が極めて強いものであり、鉱物や氷といった化学的な反応性に乏しい単調な物質が主なものである。

6 ところが、生命はそんな無秩序へと変わりつつある世界から、自分に必要な分子を取り入れ、そこに秩序を与え「形あるもの」を生み出していく。その姿はまるで「カオスの縁」にたたずみ、形のないカオスから小石を拾い、積み上げているかのようである。また、その積み上げられる分子の特徴は、鉱石などと違い、反応性に富んだ物質が主であり、“不動”のものとして作り出されるのではなく、偶発的な要素に反応し、次々に違う複雑なパターンとして、この世に生み出されてくる。そして、それらは生命が失われれば、また形のない世界へと飲み込まれ、そこへと還っていくのだ。それは分子の、この世界における在り方という視点で考えれば、“安定”と“無秩序”の間に存在する、極めて特殊で複雑性に富んだ現象である。

7 また、生命の進化を考えてみよう。進化は、自己複製、つまり「自分と同じものを作る」という、生命の持続を可能とする静的な行為と、変異、つまり「自分と違うものを作る」という、秩序を破壊する、ある種、危険を伴った動的な行為の、二つのベクトルで成り立っている。現在の地球上に溢れる、大きさも見た目も複雑さもその生態も、まったく違う様々な生命は、その静的・動的という正反対のベクトルが絶妙なバランスで作用する、その“はざま”から生まれ出てきたのだ。

8 生命は、原子の振動が激しすぎる太陽のような高温環境では生きていけないし、逆に原子がほとんど動かない絶対零度のような静謐な結晶の世界でも生きていけない。この単純な事実を挙げるまでもなく、様々な意味で生命は、秩序に縛られた静的な世界と、形を持たない無秩序な世界の間に存在する、イ何か複雑で動的な現象である。「カオスの縁」、つまりそのはざまの空間こそが、生命が生きていける場所なのである。

9 「生きている」科学にも、少しこれと似た側面がある。科学は、混沌とした世界に、法則やそれを担う分子機構といった何かの実体、つまり「形」を与えていく人の営為と言える。たとえば、あなたが街を歩いている時、突然、太陽がなくなり、真っ暗になってしまったとする。一体、何が起こったのか、不安に思い、混乱するだろう。実際、古代における日食や月食は、そんな出来事だった。不吉な出来事の予兆とか、神の怒りとして、恐れられてきた歴史がある。

10 しかし、今日では日食も月食も物理法則により起こる現象であることが科学によって解明され、何百年先の発生場所、その日時さえ、きちんと予測することができる。それはある意味、人類が世界の秩序を理解し、変わることない“不動”の姿を、つかんだということだ。何が起こったのか訳が分からなかった世界に、確固とした「形」が与えられたのだ。

11 一方、たとえばガンの治療などは、現在まだ正答のない問題として残されている。外科的な手術、抗ガン剤、放射線治療。こういった標準治療に加えて、免疫療法、鍼灸、食事療法など代替医療と呼ばれる療法などもあるが、どんなガンでもこれをやれば、まず完治するというような療法は存在しない。そこには科学では解明できていない、形のはっきりしない闇のような領域がまだ大きく広がっている。しかし、この先、どんなガンにも効果があるような特効薬が開発されれば、ガンの治療にはそれを使えば良い、ということになるだろう。

12 それは、かつて細菌の感染症に対して抗生物質が発見された時のように、世界に新しい「形」がまた一つ生まれたことを意味することになる。このように人類が科学により世界の秩序・仕組みのようなものを次々と明らかにしていけば、世界の姿は固定され、新たな「形」がどんどん生まれていく。それはウ人類にもたらされる大きな福音だ。

13 しかし、また一方、こんなことも思うのだ。もし、そうやって世界の形がどんどん決まっていき、すべてのことが予測でき、何に対しても正しい判断ができるようになったとして、その世界は果たして、人間にとってどんな世界なのだろう? 生まれてすぐに遺伝子診断を行えば、その人がどんな能力やリスクを持っているのか、たちどころに分かり、幼少時からその適性に合わせた教育・訓練をし、持ち合わせた病気のリスクに合わせて、毎日の食事やエクササイズなども最適化されたものが提供される。結婚相手は、お互いに遺伝子型の組合せと、男女の相性情報の膨大なデータベースに基づいて自動的に幾人かの候補者が選ばれる。

14 科学がその役目を終えた世界。病も事故も未知もない、そんな神様が作ったユートピアのような揺らぎのない世界に、むしろ「息苦しさ」を感じてしまうのは、私だけであろうか?

15 少なくとも現時点では、この世界は結局のところ、「分からないこと」に覆われた世界である。目をつぶって何かに、それは科学であれ、宗教であれ、すがりつく以外、心の拠りどころさえない。しかし、物理的な存在としての生命が、「カオスの縁」に立ち、混沌から分子を取り入れ「形」を作り生きているように、知的な存在としての人間はこの「分からない」世界から、少しずつ「分かること」を増やし「形」を作っていくことで、また別の意味で「生きて」いる。その営みが、何か世界に“新しい空間”を生み出し、その営みそのものに人の“喜び”が隠されている。そんなことを思うのだ。

16 だから、世界に新しい「形」が与えられることが福音なら、実は「分からないこと」が世界に存在することも、また福音ではないだろうか。目をつぶってしがみつける何かがあることではなく。

17 「分からない」世界こそが、人が知的に生きていける場所であり、世界が確定的でないからこそ、人間の知性や「決断」に意味が生まれ、そして「アホな選択」も、また許される。エいろんな「形」、多様性が花開く世界となるのだ。それは神の摂理のような“真実の世界”と、混沌が支配する“無明の世界”とのはざまにある場所であり、また「科学」と、まだ科学が把握できていない「非科学」のはざま、と言い換えることができる空間でもある。

設問

(一)「自然界ではある意味、例外的なものである」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「何か複雑で動的な現象」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「人類にもたらされる大きな福音」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「いろんな『形』、多様性が花開く世界」 (傍線部工)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ。

(五)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

 

1 有袋類は胎生であって胎盤がない。そのために胎児は不完全な発育状態で生まれてしまう。カンガルウは受胎してから約四十日後には生まれるが、そのままでは育たないので、育児嚢(のう)という袋があって、生まれた子供は多分自力でその袋の中にもぐり込んで発育を続ける。

2 これは動物学の復習である。どうして同じ哺乳類でありながら胎盤のない種類がいるのか。これは動物学では考えないことにしている問題である。それは専門を決めた学者にとっては、用心しなければならない穽(おとしあな)である。それに動物学の中でもこれに似た奇妙な例はいくらでも挙げられる。そして人間だけには、理解しにくいような奇妙な器官がないなどと思ってはならない。

3 鳥類は卵を産み、それを放っておけば孵化(ふか)しない。それを抱きあたためるために、鳥には抱卵斑(はいらんはん)というものがある。そこには綿毛や脂肪がなくて血管が集まり、卵をあたためるのに都合がいいように皮膚の温度が高くなっている。

4 その他、自分の子供を育てるために、また敵から子供を守るために、どれほどの配慮が行われているか、それらの書かれている動物の本は興味を持たれ、感動を与える。

5 親は自分の少年少女時代の感動を蘇(よみがえ)らせて、ある機会にそれらの話を子供に聞かせ、動物の生活を書いた本を読ませる。人間はこうして教育の材料を見付け出すのが巧みである。それに効果も期待できる。

6 しかしアお膳立てのでき過ぎた与え方は効果が薄れ、時には逆の効果の現われる虞(おそ)れもある

7 それよりも、子供はある機会に、動物の生活の一部分に出会うことが必ずあると信じよう。その時には余計な口出しをしてはならない。たとい、いきなり残酷に見える行動に出ても、それも黙って見ている忍耐を養っておかなければならない。自分が産み、自分が育てている子供のことは、自分以上に知っている者はいないという自信は必要だが、自信は思い上がりに変貌しやすい。

8 親の眼に残酷に映る子供の行動には必ず何か別の意味が含まれている。残酷な行為だと親に教えられるよりも、自分からそれを感得する方がどれほど値打ちがあるかをまず考えることである。それが親にとっては一番難しいところかもしれない。

9 動物と子供との間には、特殊な対話がある。だが、それを題材にして大人が創った物語にはかなり用心しなければならない。それらの大部分はイ人間性の匂い豊かな舞台で演じられた芝居のように書かれているからだ。シートンの『動物記』を子供に与えていいものかと躊躇している親は、この本をかなりよく読み、大事なところを読み落としていない。

10 ファーブルは子供のような人であった。昆虫の気持ちを知ろうとしてしばしば苛立ち、プロヴァンスの畑の中で、時々は残酷とも見えることをしていた。

11 動物をじっと見ている子供に、最初から何が何でも動物愛護の精神を期待したり、生命の尊重を悟らせようとしてもそれは無理である。蚤を飼育してみようと思い立ったある少年は、蚤の食事の時間を決めて、自分の腕にとまらせて血を与えた。その方法は自分の皮膚の最もやわらかい部分を毒虫に提供し、時計を見ながら何分後には虫が毒針を刺した部分がどんな変化を見せたかを記録しているファーブルの思いつきによく似ている。

12 ウこの少年を動物愛護の模範生のように扱う人がいたら、その思い違いを嘲う。それよりも蚤を飼育する子供を黙って見護っていた親を讃(ほ)めなければならない。

13 親はしばしば子供に玩具の一つとして小動物を与える。愛玩用として選ばれたさまざまの小動物の多くは、その親子の犠牲になる。犠牲のすべてを救い出そうとする憐憫の情は、直接何の関係もない第三者が抱いて、それによって批評をするものである。その批評に耳を傾けてみると、子供と動物との間での対話がどの程度大切なものかを忘れているか、さもなければ見誤っている。

14 対話という言葉もある雰囲気は持っているがそれだけにごまかしが含まれていてあまり使いたくない。玩具の一種として親は動物を与える。子供は掌(てのひら)に乗るほどの小型自動車と、一日中車を回転させている二十日鼠とはきちんと区別をしている。本来はどちらかを選ばせるということのできない別種のものである。小型自動車とは子供は対話をしない。そこまで言うと、エ子供がしている小動物との対話の意味がそろそろ理解されてくる。人形に向って子供はよく話しかけるが、それは大人の真似に過ぎない。動物との大切な対話は沈黙のうちに行われているのが普通である。名前をつけてその名をよび、餌を与えたり叱ったりしている時は人形への話しかけと同じである。それは大した問題にはならない。

15 その、沈黙の間に行われる対話の聞こえる耳を持っている者は、残念ながら一人もいない。

設問

(一)「お膳立てのでき過ぎた与え方は効果が薄れ、時には逆の効果の現われる虞れもある」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「人間性の匂い豊かな舞台で演じられた芝居のように書かれている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「この少年を動物愛護の模範生のように扱う人がいたら、その思い違いを嘲う」(傍線部ウ)とあるが、なぜ嘲うのか、説明せよ。

(四)「子供がしている小動物との対話」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるというのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。

2 そこで、過去と同様に知覚できないにも拘らず、われわれがその「実在」を確信して疑わないものを取り上げましょう。それはミクロ物理学の対象、すなわち素粒子です。電子や陽子や中性子を見たり、触ったりすることはどんなに優秀な物理学者にもできません。素粒子には質量やエネルギーやスピンはありますが、色も形も味も匂いもないからです。われわれが見ることができるのは、霧箱や泡箱によって捉えられた素粒子の飛跡にすぎません。それらは荷電粒子が通過してできた水滴や泡、すなわちミクロな粒子の運動のマクロな「痕跡」です。アその痕跡が素粒子の「実在」を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません。その意味では、素粒子の「実在」の意味は直接的な観察によってではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられていると言うことができます。逆に、物理学理論の支えと実験的証拠の裏づけなしに物理学者が「雷子」なる新粒子の存在を主張したとしても、それが実在するとは誰も考えませんし、だいいち根拠が明示されなければ検証や反証のしようがありません。ですから、素粒子が「実在」することは背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのであり、それらから独立に存在主張を行うことは意味をなしません。

3 科学哲学では、このように直接的に観察できない対象のことを「理論的存在(theoretical entity)」ないしは「理論的構成体(theoretical construct)」と呼んでいます。むろん理論的存在と言ってもイ「理論的虚構」という意味はまったく含まれていないことに注意してください。それは知覚的に観察できないというだけで、れっきとした「存在」であり、少なくとも現在のところ素粒子のような理論的存在の実在性を疑う人はおりません。しかし、その「実在」を確かめるためには、サイクロトロンを始めとする巨大な実験装置と一連の理論的手続きが要求されます。ですから、見聞臭触によって知覚的に観察可能なものだけが実在するという狭隘な実証主義は捨て去らねばなりませんが、他方でその「実在」の意味は理論的「探究」の手続きと表裏一体のものであることにも留意せねばなりません。

4 以上の話から、物理学に見られるような理論的「探究」の手続きが、「物理的事実」のみならず「歴史的事実」を確定するためにも不可欠であることにお気づきになったと思います。そもそも「歴史(history)」の原義が「探究」であったことを思い出してください。歴史的事実は過去のものであり、もはや知覚的に見たり聞いたりすることはできませんので、その「実在」を主張するためには、直接間接の証拠が必要とされます。また、歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存じのとおりです。その意味で、歴史的事実を一種の「理論的存在」として特徴づけることは、抵抗感はあるでしょうが、それほど乱暴な議論ではありません。

5 実際ポパーは、『歴史主義の貧困』の中で「社会科学の大部分の対象は、すべてではないにせよ、抽象的対象であり、それらは理論的構成体なのである(ある人々には奇妙に聞こえようが、「戦争」や「軍隊」ですら抽象的概念である。具体的なものは、殺される多くの人々であり、あるいは制服を着た男女等々である)」と述べています。同じことは、当然ながら歴史学にも当てはまります。歴史記述の対象は「もの」ではなく「こと」、すなわち個々の「事物」ではなく、関係の糸で結ばれた「事件」や「出来事」だからです。「戦争」や「軍隊」と同様に、ウ「フランス革命」や「明治維新」が抽象的概念であり、それらが「知覚」ではなく、「思考」の対象であることは、さほど抵抗なく納得していただけるのではないかと思います。

6 「理論的存在」と言っても、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれは目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へと一歩足を踏み入れることになります。

7 具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道四号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前九年の役や後三年の役の戦場となった場所です。僕も行ったことがありますが、現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家の戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、言うまでもなく「陸奥話記』や『古今著聞集』をはじめとする文書史料の記述や『前九年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨などの発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークに支えられています。このネットワークから独立に「前九年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前九年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前九年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、エ歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます

設問

(一)「その痕跡が素粒子の『実在』を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「『理論的虚構』という意味はまったく含まれていない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「『フランス革命』や『明治維新』が抽象的概念であり、それらが『知覚』ではなく、『思考』の対象であること」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「歴史的出来事の存在は『理論内在的』あるいは『物語り内在的』なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを『物語り的存在』と呼ぶこともできます」(傍線部エ)とあるが、「歴史的出来事の存在」はなぜ「物語り的存在」といえるのか、本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。

(五)省略

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問題(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 住む所に多少の草木があったのは、郊外の農村だったからである。もちろん畑たんぼの作物があり、用水堀ぞいに雑木の藪もあり、植木屋の植溜もいくつかあったし、またどこの家にもたいがい、なにがしか青いものが植えてあった。子供たちはひとりでに、木や草に親しんでいた。

2 そういう土地柄のうえに、私のうちではもう少しよけいに自然と親しむように、ア親が世話をやいた。私は三人きょうだいだが、めいめいに木が与えられていた。不公平がないように、同じ種類の木を一本ずつ、これは誰のときめて植えてあった。だから蜜柑も三本、棚も三本、桜も椿も三本ずつあって、持主がきまっていた。持主は花も実も自由にしていいのだが、その代り害虫を注意すること、施肥をしてもらうとき、植木屋さんに礼をいっておじぎをすること等々を、いいつかっていた。敷地にゆとりがあったから、こんなこともできたのだろうが、花の木実の木と、子供の好くように配慮して、関心をもたせるようにしたのだとおもう。

3 父はまた、木の葉のあてっこをさせた。木の葉をとってきて、あてさせるのである。その葉がどの木のものか、はっきりおぼえさせるためだろう。姉はそれが得意だった。枯れ葉になって干からびていても、虫が巣にして筒のように巻きあげているのも、羽状複葉の一枚をとってきたのでも、難なく当ててしまう。まだ葉にひらいていない、かがまった芽でさえ、ぴたりとあてた。私もいくつかは当てることができるのだが、干からびたのなどだされると、つかえてしまう。そこを横から姉が、さっと答えて、父をよろこばす。 私はいい気持ではなかった。姉のその高慢ちきがにくらしく、口惜しかった。しかし、どうやっても私はかなわなかった。そんなにくやしがるなら、自分もしっかり覚えればいいものを、そこが性格だろうか、どこか締りがゆるいとみえて、不確かにずっこけた。ここが出来のいい子と出来のわるい子との、別れ道だった。

4 出来のいい姉を、父は文句なくよろこんで、次々にもっと教えようとした。姉にはそれが理解できるらしかったが、私はそうはいかなかった。姉はいつも父と連立ち、妹はいつも置去りにされ、でも仕方がないから、うしろから一人でついていく。イ嫉妬の淋しさがあった。一方はうまれつき聡いという恵まれた素質をもつ上に、教える人を喜ばせ、自分もたのしく和気あいあいのうちに進歩する。一方は鈍いという負目をもつ上に、教える人をなげかせ、自分も楽しまず、ねたましさを味う。まことに仕方のない成りゆきである。環境も親のコーチも、草木へ縁をもつ切掛けではあるが、姉への嫉妬がその切掛けをより強くしているのだから、すくなからず気がさす。

5 しかし、姉は早世した。のちに父は追憶して、あれには植物学をさせてやるつもりだったのに、としばしば残念がってこぼしていたところをみると、やはり相当の期待をもっていたことがわかるし、その子に死なれてしまって気の毒である。

6 出来が悪くても子は子である。姉がいなくなったあとも、父は私にも弟にも、花の話木の話をしてくれた。教材は目の前にたくさんある。大根の花は白く咲くが、何日かたつうちに花びらの先はうす紫だの、うす紅だのに色がさす。みかんの花は匂いがいいばかりではない、花を裂いて、花底をなめてみれば、どんなにかぐわしい蜜を貯えていることか。あんずの花と桃の花はどこがちがうか。いぬえんじゅ、猫やなぎ、ねずみもち、なぜそんなこというのか知ってるか。蓮の花は咲くとき音がするといわれているが、嘘かほんとか、試してみる気はないか――そんなことをいわれると、私は夢中になって早起きをした。 私のきいた限りでは、花はポンなんていわなかった。だが、音はした。こすれるような、ずれるような、かすかな音をきいた。あの花びらには、ややこわい縦の筋が立っていて、ごそっぽい触感がある。開くときそれがきしんで、ざらつくのだろうか。

7 ウこういう指示は私には大へんおもしろかった。うす紫に色をさした大根の花には、畑の隅のしいんとしたうら淋しさがあり、虻のむらがる蜜柑の花には、元気にいきいきした気分があり、蓮の花や月見草の咲くのには、息さえひそめてうっとりした。ぴたっと身に貼りつく感動である。興奮である。子供ながら、それが鬼ごっこや縄とびのおもしろさとは、全くちがうたちのものだということがわかっていた。

8 ふじの花も印象ふかかった。いったいに蝶形の花ははなやかである。ましてそれが房になって咲けば、また格別の魅力がある。子供たちが見逃すわけがない。ただこの花は取ることができにくかった。川べりの藪に這いかかっているのは危くてだめだし、野生のせいか花房も短い。庭のものは長い房で美しいが、勝手にとるわけにはいかない。そこで空家の軒とか、廃園の池とかの花の下を遊び場にする。私もそこへ行きたかった。けれども父親からきびしく禁止されていた。そんな場所の藤棚は、一見なんでもなく見えて、実はもう腐れがきていることが多く、ひょっとした弾みに一度につぶれるから危険だ、という。ことに水の上へさし出して作った棚は、植木屋でさえ用心するくらいで、子供は絶対に一人で行ってはいけない、といい渡されていた。

9 荒れてはいるが留守番も置いて、門をしめている園があった。藤を藤をと私がせがむので父はそこへ連れていってくれた。俗にひょうたん池と呼ばれる中くびれの池があって、くびれの所に土橋がかかっていた。だがかなり大きい池だし、植込みが茂っていて、瓢箪というより二つの池というような趣きになっていた。藤棚は大きい池に大小二つ、小さい池に一つあってその小さい池の花がひときわ勝れていた。紫が濃く、花が大きく、房も長かった。棚はもう前のほうは崩れて、そこの部分の花は水にふれんばかりに、低く落ちこんで咲いていた。いまが盛りなのだが、すでに下り坂になっている盛りだったろうか。しきりに花が落ちた。ぽとぽとと音をたてて落ちるのである。落ちたところから丸い水の輪が、ゆらゆらとひろがったり、重なって消えたりする。明るい陽がさし入っていて、そんな軽い水紋のゆらぎさえ照り返して、棚の花は絶えず水あかりをうけて、その美しさはない。沢山な虻が酔って夢中なように飛び交う。羽根の音が高低なく一つになっていた。しばらく立っていると、花の匂いがむうっと流れてきた。誰もいなくて、陽と花と虻と水だけだった。虻の羽音と落花の音がきこえて、ほかに何の音もしなかった。ぼんやりというか、うっとりというか、父と並んで無言で佇んでいた。エ飽和というのがあの状態のことか、と後に思ったのだが、別にどうということがあったわけでもなく、ただ藤の花を見ていただけなのに、どうしてああも魅入られたようになったのか、ふしぎな気がする。

設問

(一)「親が世話をやいた」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「嫉妬の淋しさ」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「こういう指示は私には大へんおもしろかった」(傍線部ウ)とあるが、なぜおもしろかったのか、説明せよ。

(四)「飽和というのがあの状態のことか、と後に思った」(傍線部エ)とあるが、どう思ったのか、説明せよ。

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 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 私はここ十数年南房総と東京の間を行ったり来たりしているのだが、南房総の山中の家には毎年天井裏で子猫を産む多産猫がいる。人間の年齢に換算すればすでに六十歳くらいになるのだがいまだに産み続けているのである。さすがに一回に産む数は少なくなっているが、私の知る限りかれこれ総計四、五十匹は産んでいるのではなかろうか。猫の子というよりまるでメンタイコのようである。

2 そういった子猫たちは生まれてからどうなったかというと、このあたりの猫はまだ野生の掟や本能のようなものが残っていて、ある一定の時期が来ると、とつぜん親が子供が甘えるのを拒否しはじめる。それでもまだ猫なで声で体をすりよせてきたりすると、威嚇してときには手でひっぱたく。そのような過程を経て徐々に子は親のもとを離れなければならないのだという自覚が生まれる。

3 親から拒絶されて行き場のなくなった直後の子猫というものは不安な心許ない表情を浮かべ、痛々しさを禁じえないが、これがいざ自立を決心したとき、その表情が一変するのに驚かされる。徐々にではなくある日急変するのである。目つきも姿勢も急に大人っぽくなって、その視線が内にでなく外に向けられはじめる。それから何日かのちのこと、不意に姿を消している。帰ってくることはまずない。一体それが何処に行ったのか、私はしばし対面する山影を見ながらそのありかを想像してみるのだが、こころ寂しい半面アなにか悠久の安堵感のようなものに打たれる。見事な親離れだと思う。親も見事であれば子も見事である。子離れ、親離れのうまくいかない人間に見せてやりたいくらいだ。

4 かえりみるに、私はそういった健気な猫たちの姿をすでに何十と見てきているわけだが、それらの猫に餌をやったという経験は一度しかない。釣ってきた魚をつい与えてしまい、その猫が餌づいてしまったのである。しかしその猫も野生の血が居残っていると見え、ある年の春不意に姿を消した。それ以降私は野良猫には餌をやらないことにしている。それはこれらの猫は都会の猫と違って自然に一体化したかたちで彼らの世界で自立していると思っているからだ。自分の気まぐれと楽しみで猫の世界に介入することによってそのような猫の生き方のシステムが変形していくことがあるとすれば、それは避けなければならないということがよくわかったのである。

5 ところが私は再びへまをした。イ死ぬべき猫を生かしてしまったのだ

6 二年前の春のことである。すでに生まれて一年になる四匹の子猫のうちの一匹が死にそうになったときのことである。

7 遅咲きの水仙がずいぶん咲いたので、それを親戚に送ろうと思い、刈り取って玄関わきの金盥(かなだらい)に生かしていた。二、三百本もの束の大きなやつだ。

8 朝刈り取り、昼になにげなく窓から花の束に目をやったとき、一匹の野良猫の子が盥に手をかけて一心にその水を飲んでいる姿が見えた。その子猫は遺伝のせいか外見的にはあきらかに病気持ちである。体が痩せ細っていて背骨や肋骨が浮き出ている。汚い話だがいつもよだれを垂らし、口の回りの毛は固くこびりついたようになっている。右手に血豆のように腫れた湿瘡(しっそう)が出来ており、判コのようにまじりの血の手形をあちこちにつけながら歩き、これが一向に治る気配がない。口の中にも湿瘡ができており、食べ物がそれに触れると痛がる。近くに寄るとかなり強烈な腐ったような臭いがする。一年も生きているのが不思議なくらい、この子猫はあらゆる病気を抱え込んでいるように見えた。しかしそれも宿命であり、野生の掟にしたがってこの猫は短い寿命を与えられているわけだから、私がそれに手を貸すことはよくないことだと思い、そのまま生きるように生きさせておいた。この猫が盟の水を飲んでいたわけだが、飲んでから、四、五分もたったときのことである。七転八倒で悶えはじめた。そしてよだれまじりの大量の嘔吐物を吐き苦しそうに唸りはじめる。はじめ私は猫に一体なにが起こったのかさっぱりわからなかった。一瞬、死期がおとずれたのかなと思った。しかしそれにしては壮絶である。

9 そのとき私の脳裏にさきほどこの猫が盥の水をずいぶん飲んでいた、あの情景が過ったのである。ひょっとしたら、と思う。あの水は有毒なものに変化していたのかも知れないと。球根植物にはよくアルカロイド系の毒素が含まれていることがあるものだ。以前保険金殺人の疑惑のかかったある事件もトリカブトという植物が使用されたという推測がなされたし、また秋の彼岸花などにもこの毒がある。水仙に毒があるということは聞いたことがないが、ひょっとしたらこの植物もアルカロイド系の毒を含んでいるのではないか。私は猫の苦しむ様子をみながら、そのようなことを思いめぐらし、間接的にその苦しみを私が与えたような気持ちに陥った。

10 そのような経緯で私はつい猫を家に入れてしまったのである。猫がぐったりしたとき、私は洗面器の中に布を敷き、それを抱いて寝かせた。せめて虫の息の間だけでも快適にさせてやりたかったのである。

11 ところがこの病猫、元来病気持ちであるがゆえにしぶといというか、再び息を吹き返したのである。二日三日はふらふらしていたが、四、五日目にはもとの姿に戻った。そしてそのまま家に居着いてしまった。立ち直ったときにまた外に出せばよかったのだが、このそんなに寿命の長そうではない病猫につい同情してしまったのが運のつきである。可愛い動物も人の気持ちを虜にするものだが、こういった欠陥のある動物もべつの意味で人の気持ちを拘束してしまうもののようだ。ときに人がやってきたとき、家の中にあまり芳しくない臭気を漂わせながら、あたりかまわずよだれを垂らし、手からは血膿の判コを押してまわるこの痩せ猫を見てよくこんなものの面倒をみているなぁとだいたい感心する。その感心の中にはときに私のボランティア精神に対する共感の意味も含まれているわけだが、ウ私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた

12 人間に限らず、その他の動物から、そしてあるいは植物にいたるまで、およそ生き物というものはエゴイズムに支えられて生きながらえていると言っても過言ではない。無償の愛、という美しい言葉があるが、それは言葉のみの抽象的な概念であって、そこに生き物の関係性が存在するかぎり完璧な無償というものはなかなか存在しがたい。

13 以前アメリカのポトマック川で航空機が墜落したとき、ヘリコプターから降ろされた命綱をつぎつぎと他の人に渡して自分は溺死してしまったという人がいた。この人が素晴らしい心の持ち主であることは疑いようがない。本音優先の東洋人の中ではなかなか起こらない出来事である。彼はほとんど無償で自分の命を他者に捧げたわけだが、敬虔なクリスティアンである彼が、彼が習ってきた教義の中に濃厚にある他者のために犠牲心を払うということによる冥利、にまったく触れなかったとは考えにくい。

14 そういうものと比較するのは少しレベルが違うが、私が病気の猫を飼いつづけたのは他人が思うような自分に慈悲心があるからではなく、その猫の存在によって人間であるなら誰の中にも眠っている慈悲の気持ちが引き出されたからである。つまり逆に考えればその猫は自らが病むという犠牲を払って、他者に慈悲の心を与えてくれたということだ。誰が見ても汚く臭いという生き物が、他のどの生き物よりも可愛いと思いはじめるのは、その二者の関係の中にそういった輻輳(ふくそう)した契約が結ばれるからである。

15 この猫は、それから二年間を生き、つい最近、眠るように息をひきとった。あの体では長く生きた方であると思う。

16 死ぬと同時に、あの肉の腐りかけたような臭気が消えたのだが、誰もが不快だと思うその臭気がなくなったとき、エ不意にその臭いのことが愛しく思い出されるから不思議なものである

設問

(一)「なにか悠久の安堵感のようなものに打たれる」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「死ぬべき猫を生かしてしまったのだ」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「不意にその臭いのことが愛しく思い出されるから不思議なものである」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 仕事の打ち合わせでだれかとはじめて顔を合わせるとき、そんなときには、互いに見えない触角を伸ばして話題を探すことになる。もともとにがてだったそういう事柄が、いつからか嫌でなくなり、いまでは愉しいひとときにすらなってきた。どのみち避けられないから、嫌ではないはずと自己暗示を掛けているだけかもしれない。いずれにしても、初対面の人と向かい合う時間は、ア日常のなかに、ずぶりと差しこまれる
2 先日は、理系の人だった。媒体が児童向けで、科学関係の内容を含むためだった。もちろん、それは対話を進めているうちにわかってくることだ。互いに、過不足のない自己紹介をしてから本題に入る、などということは起こらない。相手の話を聞いているうちに、ずいぶん動植物に詳しい人だなという印象が像を結びはじめる。もしかして、理系ですか、と訊いてみる。
3 「ええ、そうです。いまの会社に来る前は、環境関係の仕事をしていました。それもあって、いまの仕事でも植物や動物を取材することが多いんです。この前は蓮田に行ってきました。蓮根を育てている蓮田です。蓮って、水の中の根がけっこう長いんですよ。思ったよりずっと長くて、びっくり。動物園に行くこともありますよ。撮影にゾウの糞が必要で、ゾウがするまで、じっと待っていたりして」。嬉々として説明してくれる。だれと会うときでも、相手がどんなことにどんなふうに関心をもっているのか、知ることは面白い。自分には思いもよらない事柄を、気に掛けて生きている人がいると知ることは、知らない本のページをめくる瞬間と似ている。
4 私たちの前にはカフェ・ラテのカップがあった。その飲み物の表面には、模様が描かれていた。その人は、自分のカップの上へ、首を伸ばしたようにした。そして、のぞき見ると「あ、柄が崩れている」といった。「残念、崩れている」と繰り返す。私の方は崩れていない。崩れていても一向に構わないので、それならこちらのカップと交換しようと思った瞬間、その人は自分の分を持ち上げて、口をつけた。申し出るタイミングを失う。相手への親近感が湧いてくる。以前から知っている人のような気がしてくる。
5 「台風の後は、植物園に直行するんです」。相手は、秘密を打ち明けるように声をひそめる。「その植物園には、いろんな種類の松が備わっていて、台風の後には、こんな大きな松ぼっくりが拾えるんです」。両手で大きさを示しながら説明してくれる。「それを、リュックに入れて、もらってくるんです」。いっしょに行ったわけではないのに、いつか、そんなことがあった気がする。いっしょに松ぼっくりを拾った気がする。植物園もまた本に似ている。イ風が荒々しい手つきでめくれば、新たなページが開かれて、見知らぬ言葉が落ちている。植物園への道を幾度も通うその人のなかにも、未知の本がある。耳を傾ける。生きている本は開かれない時もある。こちらの言葉が多くなれば、きっと開かれない。
6 その人の話を、もっと聞いていたいと思った。どんぐりに卵を産みつける虫の名前を、いくつも挙げられるような人なのだ。打ち合わせだから当然、雑談とは別に本題がある。本題が済めば、店を出る。都心の駅。地下街に入ると、神奈川県の海岸の話になった。相手は、また特別な箱から秘密を取り出すように、声をひそめた。「あのあたりでは、馬の歯が拾えるんです。海岸に埋められた中世の人骨といっしょに、馬の骨も出てくるんです。中世に、馬をたくさん飼っていたでしょう。だからです。私、拾いましたよ。馬の歯」。
7 「それ本当に馬の歯ですか」。思わず問い返す。瞬間、相手は、ううんと唸る。それから「あれは馬です、馬の歯ですよ。本当に出るんです」。きっぱり答えた。記憶と体験を一点に集める真剣さで、断言した。その口からこぼれる言葉が、一音、一音、遠い浜へ駆けていく。たてがみが流れる。大陸から輸送した陶器のかけらが出るという話題なら珍しくない。事実なのだ。けれど、馬の歯のことは、はじめて聞いた。それから、とくに拾いたいわけではないなと気づく。拾えなくてもいい。ただ、その内容そのものが、はじめて教えられたことだけが帯びるぼんやりとした明るさの中にあって、心ひかれた。
8 拾えなくていいと思いながら、馬かどうか、時間が経っても気になる。その人とは、本題についてのやりとりで手いっぱいで、馬の歯のことを改めて訊く機会はない。脇へ置いたまま、いつまでも、幻の馬は脇に繋いだままで、別の対話が積み重なっていく。馬なのか、馬だったのか、確かめることはできない。
9 ある日、吉原幸子の詩集『オンディーヌ』(思潮社、一九七二年)を読んでいた。これまで、吉原幸子のよい読者であったことはないけれど、必要があって手に取った。愛、罪、傷など、この詩人の作品について語られるときには必ず出てくる単語が、結局はすべてを表しているように思いながら読み進めるうち、あるページで手がとまった。「虹」という詩。その詩は、次のようにはじまる。

 どうしたことか、雨のあとの
 立てかけたやうな原っぱの斜面に
 ぶたが一匹 草をたべてゐる
 電車の速さですぐに遠ざかった
 (うしでもやぎでもうさぎでもなく)
 あれは たしかにぶただったらうか

10 なんとなく笑いを誘う。続きを読んでいくと「こころのない人間/抱擁のない愛――」という言葉が出てきて、作者らしさを感じさせる。周囲に配置された言葉も、その重さのなかでびっしりと凍るのだけれど、それでも、第一連には紛れもなく可笑しみがあって、この六行だけでも繰り返し読みたい気持ちになる。あれは、なんだったのだろう。そんなふうに首を傾げて脳裡の残像をなぞる瞬間は、日常のなかにいくつも生まれる。多くのことは曖昧なまま消えていく。足元を照らす明確さは、いつまでも仮のものなのだ。そして、だからこそ、輪郭の曖昧な物事に輪郭を与えようと一歩踏み出すことからは、光がこぼれる。ウその一歩は消えていく光だ。「虹」という詩の終わりの部分を引用しよう。
 
 いま わたしの前に
 一枚のまぶしい絵があって
 どこかに 大きな間違ひがあることは
 わかっているのに
 それがどこなのか どうしてもわからない

 消えろ 虹
 
11 言葉の上に、苛立ちが流れる。わかることとわからないことのあいだで、途方に暮れるすがたを刻む。鮮度の高い苛立ちがこの詩にはあり、それに触れれば、どきりとさせられる。わからないこと、確かめられないことで埋もれている日々に掛かる虹はどんなだろう。それさえも作者にとっては希望ではない。消えろ、と宣告するのだから。
12 拾われる馬の歯。それが本当に馬の歯なら、いつ、だれに飼われていたものだろう。どんな毛の色だったか。人を乗せていただろうか。あるいは荷物を運んだのだろうか。わかることはなにもない。その暗がりのなかで、ただひとつ明らかなことは、これはなんだろうという疑問形がそこにはあるということだ。問いだけは確かにあるのだ。
13 問いによって、あらゆるものに近づくことができる。だから、問いとは弱さかもしれないけれど、同時に、もっとも遠くへ届く光なのだろう。「馬の歯を拾えるんです」。この言葉を思い出すと、蹄の音の化石が軽快に宙を駆けまわる。遠くへ行かれそうな気がしてくる。松ぼっくり。馬の歯、エ掌にのせて、文字のないそんな詩を読む人もいる。見えない文字がゆっくりと流れていく。

設問

(一)「日常のなかに、ずぶりと差しこまれる」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「風が荒々しい手つきでめくれば、新たなページが開かれて、見知らぬ言葉が落ちている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「その一歩は消えていく光だ」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「掌にのせて、文字のないそんな詩を読む人もいる」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章は、ある精神分析家が自身の仕事と落語とを比較して述べたものである。

 

1 いざ仕事をしているときの落語家と分析家の共通するものは、まず圧倒的な孤独である。落語家は金を払って「楽しませもらおう」とわざわざやってきた客に対して、たった一人で対峙する。多くの出演者の出る寄席の場合はまだいいが、独演会になるとそれはきわだつ。他のパフォーミングアート、たとえば演劇であれば、うまくいかなくても、共演者や演出家や劇作家や舞台監督や装置や音響のせいにできるかもしれない。落語家には共演者もいないし、みんな同じ古典の根多を話しているので作家のせいにもできず、演出家もいない。すべて自分で引き受けるしかない。しかも落語の場合、反応はほとんどその場の笑いでキャッチできる。残酷までに結果が演者自身にはねかえってくる。受ける落語家と受けない落語ははっきりしている。その結果に孤独に向かい続けて、ともかくも根多を話し切るしかない。
2 分析家も毎日自分を訪れる患者の期待にひとりで対するしかない。そこには誰もおらず、患者と分析家だけである。私のオフィスもそうだが、たいてい受付も秘書もおらず、まったく二人きりである。そこで自分の人生の本質的な改善を目指して週何回も金を払って訪れる患者と向き合うのである。分析料金はあまり安くない。普通の医者が一日数十人相手にできるのに対して、七、八人しか会えないので、一人の患者からある程度いただかないわけにはいかないからだが、たいてい高いと思われる。真っ当な鮨屋が最初は高いと思えることと似ている。そういう料金を払っているわけであるから、患者たちは普通もしくは普通以上に稼いでいる。社会では一人前かそれ以上に機能しているのだが、パーソナルな人生に深い苦悩や不毛や空虚を抱えている人たちである。こういう人たちに子どもだましは通用しない。単なる慰めや励ましはかえって事態をこじらす。そうしたなかで、分析家はひとりきりで患者と向き合うのである。何の成果ももたらさないセッションもすくなくない。それでもそこに五十分座り続けるしかない。
3 多くの観衆の前でたくさんの期待の視線にさらされる落語家の孤独。たったひとりの患者の前でその人生を賭けた期待にさらされる分析家の孤独。どちらがたいへんかはわからない。いずれにせよ、彼らは自分をゆさぶるほど大きなものの前でたったひとりで事態に向き合い、そこを生き残り、なお何らかの成果を生み出すことが要求されている。それに失敗することは、自分の人生が微妙に、しかし確実に脅かされることを意味する。客が来なくなる。患者が来なくなる。
4 おそらくアこのこころを凍らせるような孤独のなかで満足な仕事ができるためには、ある文化を内在化して、それに内側からしっかりと抱えられる必要がある。濃密な長期間の修業、パーソナルで情緒的なものを巻き込んでの修業の過程は、それに役立っているだろう。落語家の分析家も文化と伝統に抱かれて仕事をする。しかし、そうした内側の文化がそのままで適用することは、落語でも精神分析でもありえない。ただ根多を覚えたとおりにやっても落語にはならないし、理論の教えるとおりに解釈をしても精神分析にはならない。観客と患者という他者を相手にしているからだ。
5 演劇などのパフォーミングアートにはすべて、何かを演じようとする自分と見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する。それは「演じている自分」とそれを「見る自分」の分裂であり、世阿弥が「離見の見」として概念化したものである。落語、特に古典落語においては、習い覚えた根多の様式を踏まえて演りながら、たとえばこれから自分が発するくすぐりをいま目の前にいる観客の視点からみる作業を不断に繰り返す必要がある。昨日大いに観客を笑わせたくすぐりが今日受けるとは限らない。彼はいったん今日の観客になって、演じる自分を見る必要がある。完全に異質な自分と自分との対話が必要なのである。
6 しかも落語という話芸には、他のパフォーミングアートにはない、さらに異なった次元の分裂の契機がはらまれている。それは落語が直接話法の話芸であることによる。落語というものは講談のように話者の視点から語る語り物ではない。言ってみれば地の文がなく、基本的に会話だけで構成されている。端的に言って、落語はひとり芝居である。演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する。根多に登場する人物たちは、おたがいにぼけたり、つっこんだり、だましたり、ひっかけたりし合っている。そうしたことが成立するには、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない。落語が生き生きと観客に体験されるためには、この他者性を演者が徹底的に維持することが必要である。イ落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する。私の見るところ、優れた落語家のパフォーマンスには、この他者性の維持による生きた対話の運動の心地よさが不可欠である。それはある種のリアリティを私たちに供給し、そのリアリティの手ごたえの背景でくすぐりやギャグがきまるのである。
7 おそらく落語という話芸のユニークさは、こうした分裂のあり方にある。もっと言えば、そうした分裂を楽しんで演じている落語家を見る楽しみが、落語というものを観る喜びの中核にあるのだと思う。そして、人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である。意識と無意識でもいい、自我と超自我とエスでもいい、精神病部分と非精神病部分でもいい、本当の自己と偽りの自己でもいい、自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかにウひとまとまりの「私」というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである。落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている人間を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。
8 エ精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている。分析家が患者の一部分になることを通じて患者を理解することを前に述べた。たとえば、こころのなかに激しく自分を迫害する誰かとそれにおびえてなすすべもない無力な自分という世界をもっている患者は、分析家に期待しながらも、迫害されることにおびえて、分析家を遠ざけ絶えず疑惑の目を向け拒絶的になる。分析家はやがてそのような患者を疎ましく感じ、苛立ち、ついに患者に微妙につらく当たるようになる。こうした過程を通して分析家はまさに患者のこころのなかの迫害者になってしまう。さらに別のことも起きる。分析家は何を言っても患者にはねかえされ、どうしようもないと感じ、なすすべもない無力感を味わう。それは患者のこころのなかの無力な自己になってしまったということである。こうして患者のこころの世界が精神分析状況のなかに具体的に姿を現し、分析家は患者の自己の複数の部分に同時になってしまい、その自己は分裂する。
9 もちろん、そうして自分でないものになってしまうだけでは、精神分析の仕事はできない。分析家はいつかは、分析家自身の視点から事態を眺め、そうした患者の世界を理解することができなければならない。そうした理解の結果、分析家は何かを伝える。そうして伝えられる患者理解の言葉、物語、すなわち解釈というものに患者は癒される部分があるが、おそらくそれだけではない。分裂から一瞬立ち直って自分を別の視点からみることができるオ生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいるのだろう。自分はこころのなかの誰かにただ無自覚にふりまわされ、突き動かされていなくてもいいのかもしれない。ひとりのパーソナルな欲望と思考をもつひとりの人間、自律的な存在でありうるかもしれないのだ。

設問

(一)「このこころを凍らせるような孤独」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「ひとまとまりの「私」というある種の錯覚」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

(五)「生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいる」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、落語家との共通性にふれながら100字以上120字以内で説明せよ。

(六)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である。この努力は、まったく生活上のものとして為されている。実際、私は今自分が見ているこの壺が、ただ網膜に映っているだけのものだとは決して考えない。私からは見えない側にある、この壺の張りも丸みも色さえも、私は見ようとしているし、実際見ていると言ってよい。見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ。なるほどアその努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれるから、人は一体どこで見ることが終わり、どこから予測や思考が始まるのか、はっきりとは言うことができなくなっている。けれども、見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義である。
2 主知主義の哲学者たちは、精神による知覚の解釈こそ重要なのだと主張した。知覚の誤謬を救うものは悟性しかないと。日本で一頃はやりの映画批評は、視えるものの表層に踏みとどまることこそが重要だ、映画を視る眼に必要な態度だと主張していた。これはある点までもっともな言い分だが、これも行き過ぎれば、主知主義のシニカルな裏返しでしかなくなるだろう。視えるとは何なのか。たとえば、モネのような画家はこの問題を突き詰めて、恐ろしく遠くにまで行った。光がなければ物が視えないと人は言うが、視えているものは物ではない、刻々に変化する光の分散そのものである。あとは頭脳の操作に過ぎないではないか。むろん、こういうモネの懐疑主義と、彼の手が描いた積み藁の美しさとはまた別ものだろう。彼は視ただけではない、視えていると信じたものを描いたのだ。当然ながら、描くことは視ることを大きく超えていく、あるいは超えていこうとする大きな努力となるほかない。
3 メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを巧みに語っていた。W・ジェームズやJ・ギブソンの心理学にあるものも結局は同じ考え方だと言ってよい。私は自分が登っている丘の向こうに見える一軒家が、一枚の板のように立っているとは思いはしない。家の正面はわずかに見えてくる側面と見えないあちら側との連続的な係わりによってこそ正面でありうる。歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない、丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくるのである。イ家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである。流体とは、私の身体がこの家に対して、持つ止めどない行動可能性にほかならない。
4 十九世紀後半から人類史に登場してきた写真、そして映画は、見ることについての長い人類の経験に極めて深い動揺を与えた。むろん、この事実に敏感に応じた者も、そうではなかった者もいる。けれども、動揺は計り知れず深かったと言えるのだ。機械が物を見る、それは一体どういうことなのか。肉も神経系もなく、行動も努力もしない機械が物を見る時、何が起こってくるのか。これは単なるレトリックではない。実際、リュミエール兄弟たちが開発した感光版「エチケット・ブルー」によって驚くべきスナップ写真が生まれてきた時、人はそれまで決して見たことのなかった世界の切断面、たとえばバケツから飛び出して無数の形に光る水をみたのである。それは身体が知覚するあの液体だとか固体だとかではない、何かもっと別なもの、しかもこの世界の内に確実に在るものだった。
5 いや、スナップ写真でなくともよい。写真機が一秒の何千分の一というようなシャッタースピードを持つに至れば、肖像写真は静止した人の顔を決して私たちが見るようには顕わさない。写真機で撮ったあらゆる顔は、どこかしら妙なものである。職業的な写真家やモデルは、そこのところをよく心得ていて、その妙なところを消す技術を持っている。けれども、それはうわべのごまかしに過ぎない。顔は刻々に動き、変化している。変化は無数のニュアンスを持ち、ニュアンスのニュアンスを持ち、静止の瞬間など一切ない。私たちの日常の視覚は、相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。従って、私たちのしかじかの身体が、その顔に向かって働きかけるのに必要な分だけの静止がそこにはある。写真という知覚機械が示す切断はそんなものではない。この切断は何のためでもなく為され、しかもそれはウ私たちの視覚が世界に挿し込む静止と較べれば桁外れの速さで為される。
6 写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか。持続し、限りなく変化しているこの世界の、言わば変化のニュアンスそれ自体を引きずり出し、一点に凝結させ、見させる。おそらく、そう言ってよい。私たちの肉眼は、こんな一点を見たことはない、しかし、持続におけるそのニュアンスは経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを、ただ一点に凝結させ、実に単純な視覚の事実にしてしまう。エこれは、恐ろしい事実である

設問

(一)「その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれる」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。

(二)「家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである」(傍線部イ)とあるが、家を見上げるときに私の意識の中でどのようなことが起きているというのか、説明せよ。

(三)「私たちの視覚が世界に挿し込む静止」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「これは、恐ろしい事実である」(傍線部エ)とあるが、なぜこの前の文にいう「視覚の事実」が「恐ろしい事実」だと感じられるのか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 詩人―作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人―作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある。筆者も、ときに(長くならないよう、短縮し、簡潔に省略するためにせよ)それに近い言い方をしてしまう場合がある。しかし、実のところ、ある詩人―作家の書いた文学作品が告げようとしているなにか、とりあえず内容・概念的なものとみなされるなにか、言いかえると、その思想、考え、意見、感情などと思われているなにかは、それだけで切り離され、独立して自存していることはないのである。〈意味され、志向されている内容〉は、それを〈意味する仕方、志向する仕方〉の側面、表現形態の面、意味するかたちの側面と一体化して作用することによってしか存在しないし、コミュニケートされない。だから、〈意味されている内容・概念・イデー〉のみを抜き出して「これこそ詩人―作家の思想であり、告げられたメッセージである」ということはできないのだ。
2 それゆえまた、詩人―作家のテクストを翻訳する者は、次のような姿勢を避けるべきだろう。つまり翻訳者が、むろん原文テクストの読解のために、いったんそのテクストの語り方の側面、意味するかたちの側面を経由して読み取れるのは当然なのであるが、しかしフォルム的側面はすぐに読み終えられ、通過されて、もうこの〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではない。アもっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度をとってはならない。そうやって自分が読み取った意味内容、つまり〈私〉へと伝達され、〈私〉によって了解された概念的中身・内容が、それだけで独立して、まさにこのテクストの〈言おう、語ろう〉としていることをなす(このテクストの志向であり、意味である)とみなしてはならないのである。
3 翻訳者は、このようにして自分が読み取り、了解した概念的中身・内容が、それだけで独立して(もうそのフォルム的側面とは無関係に)、このテクストの告げる意味であり、志向であるとみなしてはならず、また、そういう意味や志向を自分の母語によって読みやすく言い換えればよいと考えてはならないだろう。
4 自分が抜き出し、読み取った中身・内容を、自らの母語によって適切に言い換えれば首尾よく翻訳できると考え、そう実践することは、しばしば読みやすく、理解しやすい翻訳作品を生み出すかもしれない。ただし、そこには、大きな危うさも内包されているのだ。原文のテクストがその独特な語り口、言い方、表現の仕方によって、きわめて微妙なやり方で告げようとしているなにかを十分に気づかうことから眼をそらせてしまうおそれがあるだろう。
5 少し極端に言えば、たとえばある翻訳者が「これがランボーの詩の日本語訳である」として読者に提示する詩が、ランボーのテクストの翻訳作品であるというよりも、イはるかに翻訳者による日本語作品であるということもありえるのだ。
6 それを避けるためには、やはり翻訳者はできる限り原文テクストを逐語的にたどること、〈字句どおりに〉翻訳する可能性を追求するべきだろう。原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面に注意を凝らし、それにあたうかぎり忠実であろうとするのである。
7 その点を踏まえて、もう一度考えてみよう。ランボーが《Tu voles selon……》(……のままに飛んでいく)と書いたことのうちには、つまりこういう語順、構文、語法として〈意味する作用や働き〉を行なおうとし、なにかを言い表そうと志向したこと、それをコミュニケートしようとしたことのうちには、なにかしら特有な、独特のもの、密かなものが含まれている。翻訳者は、この特有な独特さ、なにか密かなものを絶えず気づかうべきであろう。なぜならそこにはランボーという書き手の(というよりも、そうやって書かれた、このテクストの)独特さ、特異な単独性が込められているからだ。すなわち、通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの、芸術家や文学者の〈天分〉とみなすものが宿っているからである。
8 こうして翻訳者は、相容れない、両立不可能な、とも思える、二つの要請に同時に応えなければならないだろう。その一つは、原文が意味しようとするもの、言おうとし、志向し、コミュニケートしようとするものをよく読み取り、それをできるだけこなれた、達意の日本語にするという課題・任務であり、もう一つは、そのためにも、原文の〈かたち〉の面、すなわち言葉づかい(その語法、シンタックス、用語法、比喩法など)をあたう限り尊重するという課題・任務である。そういう課題・任務に応えるために、翻訳者は、見たとおり、原文=原語と母語との関わり方を徹底的に考えていく。翻訳者は、原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面を注意深く読み解き、それを自国語の文脈のなかに取り込もうとする。しかし、フランス語における志向する仕方は、日本語における志向する仕方と一致することはほとんどなく、むしろしばしば食い違い、齟齬をきたし、摩擦を起こす。それゆえ翻訳者は諸々の食い違う志向する仕方を必死になって和合させ、調和させようと努めるのだ。あるやり方で自国語(自らの母語)の枠組みや規範を破り、変えるところまで進みながら、ハーモニーを生み出そうとするのである。
9 こうして翻訳者は、絶えずウ原語と母語とを対話させることになる。この対話は、おそらく無限に続く対話、終わりなき対話であろう。というのも諸々の食い違う志向の仕方が和合し、調和するということは、来るべきものとして約束されることはあっても、けっして到達されることや実現されることはないからだ。こうした無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存しているだろう。
10 もしかしたら、エ翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれているかもしれない。だからある意味で原文=原作に新たな生命を吹き込み、成長を促し、生き延びさせるかもしれない。翻訳という試み、原文と(翻訳者の)母語との果てしのない対話は、ことによると新しい言葉の在りようへとつながっているかもしれない。そう約束されているかもしれない。こういう約束の地平こそ、ベンヤミンが示唆した翻訳者の使命を継承するものであろう。
11 そしてこのことは、もっと大きなパースペクティブにおいて見ると、諸々の言葉の複数性を引き受けるということ、他者(他なる言語・文化、異なる宗教・社会・慣習・習俗など)を受け止め、よく理解し、相互に認め合っていかなければならないということ、そのためには必然的になんらかの「翻訳」の必然性を受け入れ、その可能性を探り、拡げ、掘り下げていくべきであるということに結ばれているだろう。翻訳は諸々の言語・文化・宗教・慣習の複数性、その違いや差異に細心の注意を払いながら、自らの母語(いわゆる自国の文化・慣習)と他なる言語(異邦の文化・慣習)とを関係させること、対話させ、競い合わせることである。そうだとすれば、オ翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みであると言えるのではないだろうか。

設問

(一)「もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度を取ってはならない」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「はるかに翻訳者による日本語作品である」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「原語と母語とを対話させる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれている」(傍線部エ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。

(五)「翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みである」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、本文全体の趣旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で述べよ。

(六)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようとするというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。科学技術によって産み落とされた環境破壊が、それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染防止のためのワクチンに対してウィルスが耐性を備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のように耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜22メートルの防波堤を築くことによって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開にはたして終わりがあるのだろうかという気がした。技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。次のステージになにが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれどもア科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんであり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。
2 医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工受精という技術を開発してきた。その一つ体外授精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といったことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。
3 いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外授精に比してより身近に起こっている延命措置の問題。たとえば胃瘻(いろう)などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、かなり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはずの人間の生命を救済し、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。
4 しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一般である。テクネー(τέχνη) である技術は、ドイツ語 Kunstの語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと(sollen)」とは区別されねばならない。
5 テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましいかどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところでは、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、それがイ単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。
6 テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲された人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。
7 妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」が2013年4月に導入されて以来一年の間に、追加の羊水検査で異常が認められた妊婦の97%が中絶を選んだという。
8 療養型医療施設における胃瘻や経管栄養が前提としている生命の可能な限りの延長は、否定しがたいものだし、それを入所条件として掲げる施設があることも、私自身経験して知っている。だが、飢えて死んでいく子供たちが世界に数えきれないほど存在している現実を前にするならば、自ら食事をとることができなくなった老人の生命を、公的資金の投入まで行なって維持していくことが、社会的正義にかなうかどうか、少なくとも私自身は躊躇なく判断することができない。
9 ここで判断の是非を問題にしようというのでは、もちろんないし、選択的妊娠中絶の問題一つをとってみても、最終的な決定基準があるなどとは思えない。むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること、そういう意味でウ実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだと、私は考えている。
10 たとえば現世代の化石燃料の消費を将来世代への責任によって制限しようとする論理は、物語としては理解できるが、現在存在しないものに対する責任など、応答の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。同じ想像力を別方向に向ければ、そもそも人類の存続などといったことが、この生物種に宿る尊大な欲望でしかなく、人類が、他の生物種から天然痘や梅毒のように根絶を祈願されたとしても、かかる人類殲滅の野望は、人間がこれら己れの敵に対してもっている憎悪と、本質的には寸分の違いもないといいうるだろう。その他倫理的基準なるものを支えているとされる概念、たとえば「個人の意思」や「社会的コンセンサス」などが、その美名にもかかわらず、虚構性をもっていることは、少しく考えてみれば明らかである。主体となる「個人」など、確固としたものであるはずがなく、その判断が、時と場合によって、いかに動揺し変化するかは、誰しもが経験することであり、そもそも「個人の意思」を書面で残して「意思表明」とするということ自体、かかる「意思」なるものの可変性をまざまざと表わしている。また「コンセンサス」づくりの「公聴会」なるものが権力関係の追認でしかないことは、私たち自身、いやというほど繰り返し経験していることではなかろうか。
11 だが、行為を導くものの虚構性の指摘が、それに従っている人間の愚かさの摘発に留まるならば、それはほとんど意味もないことだろう。虚構とは、むしろ人間の行為、いや生全体に不可避的に関わるものである。人間は、虚構とともに生きる、あるいは虚構を紡ぎ出すことによって己れを支えているといってもよい。問題は、テクノロジーの発展において、虚構のあり方が大きく変わったところにある。テクノロジーは、それまでできなかったことを可能にすることによって、人間が従来それに即して自らを律してきた虚構、しかもその虚構性が気づかれなかった虚構、すなわち神話を無効にさせ、もしくは変質を余儀なくさせた。それは、不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことができた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼応する新たな虚構の産出を強いるようになったのである。そういう意味でエテクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう

設問

(一)「科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだ」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。

(四)「テクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう」(傍線部エ)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。

(五)省略

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