問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 私はここ十数年南房総と東京の間を行ったり来たりしているのだが、南房総の山中の家には毎年天井裏で子猫を産む多産猫がいる。人間の年齢に換算すればすでに六十歳くらいになるのだがいまだに産み続けているのである。さすがに一回に産む数は少なくなっているが、私の知る限りかれこれ総計四、五十匹は産んでいるのではなかろうか。猫の子というよりまるでメンタイコのようである。

2 そういった子猫たちは生まれてからどうなったかというと、このあたりの猫はまだ野生の掟や本能のようなものが残っていて、ある一定の時期が来ると、とつぜん親が子供が甘えるのを拒否しはじめる。それでもまだ猫なで声で体をすりよせてきたりすると、威嚇してときには手でひっぱたく。そのような過程を経て徐々に子は親のもとを離れなければならないのだという自覚が生まれる。

3 親から拒絶されて行き場のなくなった直後の子猫というものは不安な心許ない表情を浮かべ、痛々しさを禁じえないが、これがいざ自立を決心したとき、その表情が一変するのに驚かされる。徐々にではなくある日急変するのである。目つきも姿勢も急に大人っぽくなって、その視線が内にでなく外に向けられはじめる。それから何日かのちのこと、不意に姿を消している。帰ってくることはまずない。一体それが何処に行ったのか、私はしばし対面する山影を見ながらそのありかを想像してみるのだが、こころ寂しい半面アなにか悠久の安堵感のようなものに打たれる。見事な親離れだと思う。親も見事であれば子も見事である。子離れ、親離れのうまくいかない人間に見せてやりたいくらいだ。

4 かえりみるに、私はそういった健気な猫たちの姿をすでに何十と見てきているわけだが、それらの猫に餌をやったという経験は一度しかない。釣ってきた魚をつい与えてしまい、その猫が餌づいてしまったのである。しかしその猫も野生の血が居残っていると見え、ある年の春不意に姿を消した。それ以降私は野良猫には餌をやらないことにしている。それはこれらの猫は都会の猫と違って自然に一体化したかたちで彼らの世界で自立していると思っているからだ。自分の気まぐれと楽しみで猫の世界に介入することによってそのような猫の生き方のシステムが変形していくことがあるとすれば、それは避けなければならないということがよくわかったのである。

5 ところが私は再びへまをした。イ死ぬべき猫を生かしてしまったのだ

6 二年前の春のことである。すでに生まれて一年になる四匹の子猫のうちの一匹が死にそうになったときのことである。

7 遅咲きの水仙がずいぶん咲いたので、それを親戚に送ろうと思い、刈り取って玄関わきの金盥(かなだらい)に生かしていた。二、三百本もの束の大きなやつだ。

8 朝刈り取り、昼になにげなく窓から花の束に目をやったとき、一匹の野良猫の子が盥に手をかけて一心にその水を飲んでいる姿が見えた。その子猫は遺伝のせいか外見的にはあきらかに病気持ちである。体が痩せ細っていて背骨や肋骨が浮き出ている。汚い話だがいつもよだれを垂らし、口の回りの毛は固くこびりついたようになっている。右手に血豆のように腫れた湿瘡(しっそう)が出来ており、判コのようにまじりの血の手形をあちこちにつけながら歩き、これが一向に治る気配がない。口の中にも湿瘡ができており、食べ物がそれに触れると痛がる。近くに寄るとかなり強烈な腐ったような臭いがする。一年も生きているのが不思議なくらい、この子猫はあらゆる病気を抱え込んでいるように見えた。しかしそれも宿命であり、野生の掟にしたがってこの猫は短い寿命を与えられているわけだから、私がそれに手を貸すことはよくないことだと思い、そのまま生きるように生きさせておいた。この猫が盟の水を飲んでいたわけだが、飲んでから、四、五分もたったときのことである。七転八倒で悶えはじめた。そしてよだれまじりの大量の嘔吐物を吐き苦しそうに唸りはじめる。はじめ私は猫に一体なにが起こったのかさっぱりわからなかった。一瞬、死期がおとずれたのかなと思った。しかしそれにしては壮絶である。

9 そのとき私の脳裏にさきほどこの猫が盥の水をずいぶん飲んでいた、あの情景が過ったのである。ひょっとしたら、と思う。あの水は有毒なものに変化していたのかも知れないと。球根植物にはよくアルカロイド系の毒素が含まれていることがあるものだ。以前保険金殺人の疑惑のかかったある事件もトリカブトという植物が使用されたという推測がなされたし、また秋の彼岸花などにもこの毒がある。水仙に毒があるということは聞いたことがないが、ひょっとしたらこの植物もアルカロイド系の毒を含んでいるのではないか。私は猫の苦しむ様子をみながら、そのようなことを思いめぐらし、間接的にその苦しみを私が与えたような気持ちに陥った。

10 そのような経緯で私はつい猫を家に入れてしまったのである。猫がぐったりしたとき、私は洗面器の中に布を敷き、それを抱いて寝かせた。せめて虫の息の間だけでも快適にさせてやりたかったのである。

11 ところがこの病猫、元来病気持ちであるがゆえにしぶといというか、再び息を吹き返したのである。二日三日はふらふらしていたが、四、五日目にはもとの姿に戻った。そしてそのまま家に居着いてしまった。立ち直ったときにまた外に出せばよかったのだが、このそんなに寿命の長そうではない病猫につい同情してしまったのが運のつきである。可愛い動物も人の気持ちを虜にするものだが、こういった欠陥のある動物もべつの意味で人の気持ちを拘束してしまうもののようだ。ときに人がやってきたとき、家の中にあまり芳しくない臭気を漂わせながら、あたりかまわずよだれを垂らし、手からは血膿の判コを押してまわるこの痩せ猫を見てよくこんなものの面倒をみているなぁとだいたい感心する。その感心の中にはときに私のボランティア精神に対する共感の意味も含まれているわけだが、ウ私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた

12 人間に限らず、その他の動物から、そしてあるいは植物にいたるまで、およそ生き物というものはエゴイズムに支えられて生きながらえていると言っても過言ではない。無償の愛、という美しい言葉があるが、それは言葉のみの抽象的な概念であって、そこに生き物の関係性が存在するかぎり完璧な無償というものはなかなか存在しがたい。

13 以前アメリカのポトマック川で航空機が墜落したとき、ヘリコプターから降ろされた命綱をつぎつぎと他の人に渡して自分は溺死してしまったという人がいた。この人が素晴らしい心の持ち主であることは疑いようがない。本音優先の東洋人の中ではなかなか起こらない出来事である。彼はほとんど無償で自分の命を他者に捧げたわけだが、敬虔なクリスティアンである彼が、彼が習ってきた教義の中に濃厚にある他者のために犠牲心を払うということによる冥利、にまったく触れなかったとは考えにくい。

14 そういうものと比較するのは少しレベルが違うが、私が病気の猫を飼いつづけたのは他人が思うような自分に慈悲心があるからではなく、その猫の存在によって人間であるなら誰の中にも眠っている慈悲の気持ちが引き出されたからである。つまり逆に考えればその猫は自らが病むという犠牲を払って、他者に慈悲の心を与えてくれたということだ。誰が見ても汚く臭いという生き物が、他のどの生き物よりも可愛いと思いはじめるのは、その二者の関係の中にそういった輻輳(ふくそう)した契約が結ばれるからである。

15 この猫は、それから二年間を生き、つい最近、眠るように息をひきとった。あの体では長く生きた方であると思う。

16 死ぬと同時に、あの肉の腐りかけたような臭気が消えたのだが、誰もが不快だと思うその臭気がなくなったとき、エ不意にその臭いのことが愛しく思い出されるから不思議なものである

設問

(一)「なにか悠久の安堵感のようなものに打たれる」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「死ぬべき猫を生かしてしまったのだ」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「不意にその臭いのことが愛しく思い出されるから不思議なものである」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

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