問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 「あなたが何を考えているのか知りたい」小田久郎さんはそうおっしゃった。電話口を通してぼそぼそと響いてきたその肉声だけが、私にとってこんな文章を綴ろうとする唯一の理由だと、そんなふうに私は感じている。

2 編集者である小田さんの背後に、無限定な読者を想定することは、今の私にはむずかしい。私の考えることが、その人たちにとってどれだけ意味のあることか、私には確信がない。私の書くことはみな、まったく私的なことで、それを公表する理由がどこにあるのか見当がつかない、それが私の正直な気持ちだ。が、それでも私は電話口で小田さんの肉声に自分の肉声でためらいながらも答えたのである。

3 原稿を注文され、それをひきうけるという一種の商取引に私たち物書きは慣れ、その行為の意味を深く問いつめる余裕も持てないでいるけれど、その源にそんな肉声の変換があるとするならば、それを信じてみるのもいいだろう。作品をつくること、たとえば詩であると自分でやみくもに仮定してかかっているある多くない分量のことばをつなぎあわせること、また歌や、子どもの絵本のためのことばを書くことと、このような文章を書くことの間には、私にとっては相当な距離がある。

4 ア作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする。自分についての反省は、作品をつくっている段階では、いわば下層に沈澱していて、よかれあしかれ私は自分を濾過して生成してきたある公的なものにかかわっている。私はそこでは自分を私的と感ずることはなくて、むしろ自分を無名とすら考えていることができるのであって、そこに私にとって第一義的な言語世界が立ち現れてくると言ってもいいであろう。

5 見えがかり上、どんなにこのような文章と似ていることばを綴っているとしても、私には作品と文章(適当なことばがないから仮にそう区別しておく)のちがいは、少なくとも私自身の書く意識の上では判然と分かれている。そこからただちにたとえば詩とは何かということの答えにとぶことは私には不可能だが、その意識のうえでの差異が、私に詩のおぼろげな輪郭を他のものを包みこんだ形で少しでもあきらかにしてくれていることは否めない。

6 もちろん私が仮に作品(創作と呼んでもいい)と呼ぶ一群の書きものから、詩と呼ぶ書きものを分離するということはまた、別の問題なので、作品中には当然散文も含まれてくるから、作品と文章の対比を詩と散文の対比に置きかえることはできない。強いていえば、虚構と非虚構という切断面で切ることはできるかもしれぬが、そういう切りかたでは余ってしまうものもあるにちがいない。作品においては無名であることが許されると感じる私の感じかたの奥には、詩人とは自己を超えた何ものかに声をかす存在であるという、いわば媒介者としての詩人の姿が影を落としているかもしれないが、そういう考えかたが先行したのではなく、言語を扱う過程で自然にそういう状態になってきたのだということが、私の場合には言える。

7 真の媒介者となるためには、その言語を話す民族の経験の総体を自己のうちにとりこみ、なおかつその自己の一端がある超越者(それは神に限らないと思う。もしかすると人類の未来そのものかもしれない)に向かって予見的に開かれていることが必要で、私はそういう存在からはほど遠いが作品をつくっているときの自分の発語の根が、こういう文章ではとらえきれないアモルフな自己の根源性(オリジナリティ)に根ざしているということは言えて、イそこで私が最も深く他者と結ばれていると私は信じざるを得ないのだ。

8 そこには無論のこと多量のひとりよがりがあるわけだが、そういう根源性から書いていると信ずることが、私にある安心感を与える。これは私がこういう文章を書いているときの不安感と対照的なものなのだ。自分の書きものに対する責任のとりかたというものが、作品の場合と、文章の場合とでははっきりちがう。

9 これは一般的な話ではなくて、あくまで私個人の話だが、作品に関しては、そこに書かれている言語の正邪真偽に直接責任をとる必要はないと私は感じている。正邪真偽でないのなら、では美醜かとそう性急に問いつめる人もいるだろうが、美醜にさえ責任のとりようはなく、私が責任をとり得るのはせいぜい上手下手に関してくらいのものなのだ。創作における言語とは本来そのようなものだと、個人的に私はそう思っている。もしそういうものとして読まぬならば、その責任は読者にあるので、私もまた創作者であって同時に読者であるという立場においてのみ、自分の作品に責任を負うことができる。

10 逆に言えばそのような形で言語世界を成立させ得たとき、それは作品の名に値するので、現実には作家も詩人も、創作者としての一面のみでなく、ある時代、ある社会の一員である俗人としての面を持つものだから、彼の発言と作品とを区別することは、とくに同時代者の場合、困難だろうし、それを切り離して評価するのが正しいかどうか確言する自信もないけれど、離れた時代の優れた作品を見るとき、あらゆる社会的条件にもかかわらずその作品に時代を超えてある力を与えているひとつの契機として、ウそのような作品の成り立ちかたを発見することができよう。

11 <作品>と<文章>の対比を、言語論的に記述する能力は私にはない。私はただ一種の貧しい体験談のような形で、たどたどしく書いてゆくしかないので、初めに述べた私のこういう文章を書くことへのためらいもそこにある。エ作品を書くときには、ほとんど盲目的に信じている自己の発語の根を、文章を書くとき私は見失う。作品を書くとき、私は他者にむしろ非論理的な深みで賭けざるを得ないが、文章を書くときには自分と他者を結ぶ論理を計算ずくでつかまなければならない、そういうふうに言うこともできる。

12 どんなに冷静にことばを綴っていても、作品をつくっている私の中には、何かしら呪術的な力が働いているように思う。インスピレーションというようなことばで呼ぶと、何か上のほうからひどく気まぐれに、しかも瞬間的に働く力のように受けとられるかもしれないが、この力は何と呼ぼうと、むしろ下のほうから持続的に私をとらえる。それは日本語という言語共同体の中に内在している力であり、私の根源性はそこに含まれていて、それが私の発語の根の土壌となっているのだ。

設問

(一)「作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「そこで私が最も深く他者と結ばれている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「そのような作品の成り立ちかた」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「作品を書くときには、ほとんど盲目的に信じている自己の発語の根を、文章を書くとき私は見失う」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

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