問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

1 「日本語を母語としているのに、なぜフランス文学を研究するんですか?」と尋ねられたことがある。十年以上前、ようやく文学を勉強しはじめた大学三年の夏。この質問をわたしにしたのは、才媛という表現がこの上なく似合う、理系畑の聡明な後輩だった。そのときどう答えたのか、今となっては思い出せない。しどろもどろに、当時感じていたフランス文学の魅力を伝えたような気がする。ただ、うまく答えられなかったなりに、それが重要な問いで、時間をかけて向き合うべき宿題だと直感的に感じたことだけはよく覚えている。
2 そう言われてみれば、たしかに外国文学を学ぶというのは奇妙なことだ。自国にもすぐれた作品は無数にあるのに、なぜか遠い国の言葉をわざわざ習得してものを読み、書こうとする。難解な構文をどう訳すか手を焼くたび、辞書を引きながら拙いフランス語でなんとか表現しようとして言葉に詰まるたび、じかに触れたいものにガラス越しにしか接近できないようなもどかしさが募る。少しずつ言葉を覚えるにつれてアガラスは薄くなっていくが、障壁がなくなる日は決して来ない
3 しかし、このガラスの壁は障害になっているだけではなく、わたしたちに世界を見る新しい方法を教えてくれもするのではないか。遅まきながらこのことを心底実感するに至ったのは、質問された時から何年も経ってからのことだった。外国語を学ぶことは、イ世界の見方が変容する経験を伴わずにはいない。たとえば、 clairière(クレリエール)という言葉がある。これは「明るい、澄んだ、透けた」を意味するclairという形容詞からくる言葉で、森の中の木のまばらな空き地の部分や布地の薄い部分をあらわす。それまでただの「ひらけた土地」でしかなかった場所は、この言葉を知ることで、木々の葉を透かして空き地を照らす陽光のまばゆさと結びつくようになった。
4 母語でないテクストを読むときの「遅さ」それ自体に、欠点だけではなく意義もあるのだ、ということを実感したのは、それよりもっとあとのことだった。たしかに、言葉の端々に宿る微細な意味の揺らぎやズレを感知する点にかけては母語話者のほうがずっと優れているかもしれない。けれども、ひとつずつ言葉を手繰りながら舐めるように繰り返し読む中でしか現れてこない文章の表情もある。「速く読みすぎても、遅く読みすぎても、何も分からない」というパスカルの箴言は、外国語で文学作品を読む人にとって大いなる示唆を与えてくれるものでもある。
5 ひるがえって、外国語のフィルターを通すことで母語で書かれた文学作品の輪郭がより鮮明に見えてくることもある。それを知ったのは、日本語を学ぶフランス人の友人と一緒にいくつかの日本語のテクストを読んだときだった。彼女がフランス語に翻訳した芥川龍之介の『羅生門』を原文と突き合わせながら、「この言葉はこんな意味で、この単語はここにつながっているの」と説明していく。そのやり取りの中で、今まで何度も読んできた短編小説が、不意にひとつのすばらしく精巧な構造として立ち上がってきたときの驚きは忘れがたい。もちろん、文章を的確に捉えられる人が丁寧に読めば、日本語だけでも作品の機序を完璧に捉えることはできるに違いない。だがわたしにとっては、作家がすべての単語を無駄なく有機的に絡みあわせ、クライマックスに向けて文章を盛り上げていくその手つきを知ることができたのは、彼女の部屋でお茶を飲みながら二つの言語を往還したあの時間あってこそだった。
6 文学の話からは逸れてしまうけれども、母語でない言語は、「もうひとりの自分」を発見させてくれることもある。フランスにいた頃、よく家事をしながらフランス語でひとりごとを言うことがあった。洗濯物をたたみながら、食器を拭きながら、あるいはくたびれて単にベッドの縁に腰掛けながら。そういう時に考えているのは大概、抱えていた様々な悩みごとだった。なぜそうなったのか、どうすればよいのか、何が悪かったのか。原因や解決法をぼんやり思案していると、ふとウ「本当の答え」が口から飛び出てくる。自分の愚かさ、認めたくない欠点、人から見えないように守ってきた心の柔らかな未熟な部分。とても直視に堪えないこうした自分の瑕疵が、外国語という「ガラスの壁」を通すことではじめて、検閲と抵抗をくぐり抜けて言葉になる。まるで檻に閉じ込められた小動物が外に出ようと身をよじっているうちに、狭い柵の間をするりと通り抜けてしまうように。母語は自分に近い「本当」の言葉で、外国語は後から学んだ「借り物」の言葉のように思えるが、実はその「借り物」の言葉こそが、まさにそのよそよそしさゆえに、心のもっとも奥ふかくに秘匿されている自己を―無惨なまでに―あらわにするのだった。
7 先に見たクレリエールという言葉は、森の空き地や布地の薄い部分の意から転じて比喩的な意味でも用いられる。ある辞書には「追憶の間隙」という用例が記されていた。ふと口をついて出た独言が剥き出しにする「もうひとりの自分」も、おそらくひとつのクレリエールだと言えるのだろう。意識と無意識の隙間に明滅し、母語という手綱が手放されたときだけ束の間浮かび上がる心の「空き地」。それは決して光降りそそぐ明るい場所ではないけれども、エそのようなほの暗い場所を自分のうちに見出し、認めるのは、不思議と静かな慰めを与えてくれる経験でもある
設問

(一)「ガラスは薄くなっていくが、障壁がなくなる日は決して来ない」(傍線部ア) とはどういうことか、説明せよ。

(二)「世界の見方が変容する経験」(傍線部イ)とはどういうことか、本文に即して具体的に説明せよ。

(三) 「『本当の答え』が口から飛び出てくる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「そのようなほの暗い場所を自分のうちに見出し、認めるのは、不思議と静かな慰めを与えてくれる経験でもある」(傍線部エ)とあるが、それはなぜだと考えられるか、説明せよ。

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