もはや新宿も徒歩圏 意外な副産物 | 公園ぐるぐる+トレッドミル

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2017年からハノイ駐在
ランはただいま出直し中

伊勢丹写真館で撮った家族写真が出来上がったというじゃない
じゃあ取りに行きます!
ウォーキングでね!
雨も上がったことだし
帰りは渋谷経由で、ひと泳ぎして・・・と思ったけれど、写真が重くてそれは断念した

「今日はお車のご利用は・・・?」(駐車券のサービスに関するトークです)
「今日はないです」

これってエコ、でもある

でも私は新宿は嫌いだ
ごみごみしている・・・これ以上は言わないけど
ウオーキングではなるべく人通りの少ない裏道を進む
ニューハーフみたいなジョッガーとすれ違う・・・(うわっ これだよ新宿は・・・)

帰りに「おや?」
岸田劉生展・・・

チェックしておきましょう!
寄り道です

岸田劉生って、代々木に住んでいたんだね
そういえば、行きに、何とか坂といって、劉生が描いた場所はここです、
という案内がありました
(その絵=重要文化財は出展されていなかった (続きに補足あり) 麗子微笑<青果持テル>=重要文化財もない)

えーと、ゴッホが死去したころ劉生は生まれたんだね
うまいことに、ここにはそのゴッホのひまわりが常設展示してある
そのほか、セザンヌ、モネ、ルノアールの結構重要作品が1点ずつ常設展示してあるので、ついでに鑑賞
(バブルのとき買っちゃったという感じの物 メセナブームで死守して、いまだに所有している 鑑賞する側にとってはラッキーなことです)

岸田氏の郷里は、豊橋のようです
豊橋市美術博物館からも何点か出展あり


で、劉生は、毎年写真館で、麗子の誕生日に家族写真を撮っていたそうです
(わが家もなんだか似たようなことやっているような・・・)

図録を記念に購入
岸田夏子氏(桜の絵画が得意な画家です)が「母・麗子の肖像」を寄稿しています
今回、最初に描かれた麗子(5歳)と、最後に書かれた大人の麗子(16歳)を見て、そしてその麗子の産んだ娘の文章を読んで・・・
思いがけず、今日は岸田劉生デーになってしまいました
(没後80年らしいです)

これもまたマラソン効果ですよねー

そのうち絵画でもたしなんでみましょうかね?うふふーまさかそこまでは・・・

from the top sonpo museum






(美術館の入り口から見えた景色)

切通しの坂について:
http://www.taisei.co.jp/1168584073116.html
より転載

岸田劉生草土社『切通之写生』

 岸田劉生は、明治24年に東京の銀座2丁目で生まれた。父の岸田吟香はアメリカ人医師ヘボン博士の助手として日本初の和英辞典『和英・林集成』を編集し、ヘポン直伝の目薬「精騎水」を売る薬局を銀座に開店していた。

 幼時から画才に並々でない天分を見せたが、わずか14歳のときに父と母があいついで他界するという不幸に見舞われたため、ほとんど独学で画業を続けることになった。たまたま武者小路実篤ら「白樺」派の作家たちと知り合って意気投合、西欧印象派の新風を伝える作品を次々に発表して画壇にデビューした。
 岸田劉生といえば、長女をモデルにした『麗子像』が有名だが、このデビューの頃、家族だけでなく友人の武者小路、バーナード・リーチ(陶芸家)、木村荘八(画家)らを片っ端からモデルにして座らせ、1、2時間で仕上げている。いずれも貴重な肖像画として残っているが、当時は「岸田の首狩り」といって恐れられ、迷惑がられたという(富山秀男『岸田劉生』)。

 岸田は大正2年10月、東京府下代々木山谷117(現・渋谷区代々木2-45付近)に転居した。同4年4月には近くにやや広い家を見つけて引っ越しているが、岸田がこの新居周辺に発見した新しい画題が東京近郊の開発風景だった。『代々木付近』『赤土の畑』『赤土と草』、さらに代表作『切通の写生』(大正4年11月)が生まれた。生々しい赤土と逞しい緑草に岸田の情熱が込められ、グループの名も草土社と名づけられたほどである。

 いま、小田急線の参宮橋駅を降りて西参道を北へ新宿方向へ歩くと2、3分のところに「代々木3丁目交番前」交差点がある。ここを西へ折れる坂道があって、「切通しの坂」の木標(同区代々木4−23 注4-19です)がある。

(掲載号:05月20日号)