ありとあらゆるところから、教会に導かれているような、強い御手をその当時特に感じていました。教会に集う時は、何かの力に押し出されるようにして教会に行っていたのですが、教会に集い始めると、初めは説教を聞いていると、ある御言葉が浮かんでくるのです。それはちょうどメッセージの話されているところに関連する御言葉なのです。ここに書いてある御言葉は、そういう意味だったんだなと学ばされ、教会に集うと不思議と御言葉を思いおこす体験が数多くなっていったので、後に学んでいく聞き従う歩みの訓練がされているようでした。また、だんだんと思索が変わってきたのです。世の中的なことよりも、主のことを考え出したのです。聖書を読みながらイエスキリストならこのような時にはどうするんだろうと、聖書を中心に考えるようになり、毎日、内面が新しくされているみたいでした。教会に行かなくなると、何かが必ず起こるので、教会生活を結局は選ばざるおえなくなったのでしたが、それは、自分の人生にとってとても重要なものでしたし、色々な祝福も具体的に見ていきました。当時、教会に集う中で、36という数字が気になっていました。ある時友人のクリスチャンから、森田を見ていると頭に36という数字が見えるんだけどと言われました。36ってなんだろうと、当時気になりましたが、あまり深追いせずクリスチャン生活を続けていました。牧師になって、ちょうど36歳の時に、早天祈祷会を教会でやるために、4時45分に会堂で祈り始めたのですが、その時に、背筋が痙攣してきて、物凄い痛みを胸の真ん中に感じたのです。もうどんな格好をしても痛みは収まらず、もう死ぬかと思うほどの痛みにどんどんなっていくのです。救急車を呼べず、会堂でもがくしかありませんでした。癒しの祈りをすることができないほど、痛みは大変なものでした。結局、1時間葛藤し治りかけた時、病院にいきました。病名は心筋梗塞で5箇所も血管が詰まり、左心室の左側が筋肉が動いていないため、血液を外に押し出す力が出なくなっていたのです。このままだと心不全になりますということで、入院し、心臓の左側は壊死していました。病院のベットで祈りをしていると、36という数字が気になって、考えてみるとちょうど36歳だったのです。そして、もし教会に行ってなかったら、その生活から、36でなくなっていたんだなと思わされました。その後は療養し、よくなっていくのですが、教会に行っていなかったら、神の助けはあったのだろうかと考えさせられました。教会、ここは自分にとっては特別な場所だったのです。教会に集っていたからこそ、人生虚しくなく、諦めることなく、歩んでこれたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエスキリストは父なる神の御心をおこなうためなら、道を変えてまでも行こうとされる方です、それは、サマリヤのまだあったことのない女性のためでした。その女性は、何か特別な方ではない、普通の人と、、、いや普通のとは違う人生を歩んでいました。イエスキリストご自身も、その女性を見抜いていました。彼女には今まで、夫が5人いましたが、今いる男は夫ではなかったのです。イエスキリストは永遠の命を得るたには、罪の問題を解決しなくてはなりませんでした。暗闇の部分に光を与えるために、主はあえてその問題に触れられたのです。女性はそのことを認めますが、イエスキリストは、そのことに関して、裁かれたのではなく、そこからイエスキリストにおける、乾くことのない永遠の命の水の話をされたのです。そして彼女は救われるのです。今日でもイエスキリストは変わることがありません。その人の必要を全て知っておられ、イエスキリストがそれを与えてくださるのです。ここでユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしておられず、交流もなかったのです。そこにイエスは行かれたのです。現代でも同じです。どんな罪の中にいようとも、どんなに苦しいところを通っていても、たとえ無関心でも、全ての人に分け隔てをなさらない方です。どんな人でもイエスキリストは変わらず、接してくださるのです。

 

 

 

 

 

神様は生きて働いてるんだということを、いやというほど教えられてきたが、風邪のひきやすい人、風邪はひかない人と、その人、その人によって風邪に強い人、弱い人がいる。クリスチャンになってから色々な方向から、神様は色々なことを教え始められた。その中で、体質というのでしょうか、悪霊に対して強い人、弱い人もクリスチャンのなかにいる。神はすでに十字架によって勝利を取られたので、いわゆる悪霊に負けてしまうというクリスチャンは一人もいない、しかし、神の御心の中で、悪霊の影響をよく受けやすいという人がいる。私も、その中の一人で、よく御心の場所に行こうとしても、いけない状況を作ってしまうことがうがゆるされることがある。私は、よく祈祷会を休むことがあり、決まって、体の調子が悪い時が多いのである。特に、頭がとにかく痛くなるのである。特に祈祷会の前などは強烈な頭痛のために、今日は休もうとあまりの頭痛にそう思ってしまうのですが、神様に祈ると、休みなさいではなく、行きなさいなのである。ええ〜と思うのですが、とにかく行くだけは行こうとして祈祷会の場所に行くのですが、初めは割れそうに痛い頭痛があるのですが、祈りをしていると何とすぐにでも頭痛がなくなったのでありました。頭痛だけでなく熱を持ってしまう時や体の変調が起こる時などもあり、そのような時に、主の集会に導かれているなと、感じた時はとにかく行くべき集会は出るようにした。そうすると集会に出ている中で、体の変調はなくなり、風邪のような症状が出た時などは、それが瞬時になくなったのである。これを、霊的なアタックというのだろうか?まだよくわからなかったのだが、吟味は必要ですが、御心のところには、悪霊も逆に働くので私は個人的に、御心の時は悪霊が引き起こす症状に悩ませられることが多くありました。その時に、御心を行うとなくなるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教会生活もだんだんと慣れてきましたが、わからないことだらけで少し大変でした。祈りも朝早く起きて祈れるようになり、その頃になると、一日5時間は祈れるようになってきました。しかし性格というものも厄介なもので、なかなか自分で直そうとしても治るものではなく、後々わかるのですが、主に聞き従う姿勢がないと何を変えようと思っても変えられるものではありません。しかし、その頃は何かあると教会に遅く行ったり、祈祷会に出たり、出なかったり、礼拝に出たとしても午後の集会には出なかったりしていました。その頃、ちょうどパウロ牧師が韓国へ断食祈祷院で祈るということになり、一週間以上日本を離れることになりました。その週の金曜日、徹夜祈祷会があり、出ようか考えていましたが、仕事もあるのでやめようかと思いましたが、今考えると主の促しがあるように思ったのでした。二階屋の宣教師が使っていた場所で祈り会をしていたので、行くことにしたが、着いてから時間があったのでいた人たちと遊んでいたのんですが、とっても気に入らないことを言われ「俺帰るは」と言って、変えようとしたら、二階から兄弟が降りてきて、預言で下にいる3人の人上に上がりなさいと言っていますよというのです。え~と思い、怖くなり逃げるようにして帰ってしまったのです。何とも言えない不安を持ちましたが、いいやと思いながら帰宅したのです。そうするとその帰り普通の天候で雨も降るような感じではなかったのですが、狭山に近づくにつれ、黒い雲が覆い始めたのです。バスに乗って雨が降る前に家に帰ろうと急ぎ足で帰ったのです。テレビをつけて野球を見ると西武球場はライオンズ戦でたくさん観客が入り、そのテレビを見ているとき、外でざーという音がして襖を開けると、凄い雨が降っていたのでした。そうすると突然雷が近くで落ちたのでした。今まで聞いたことのないような凄まじい雷の音で、びっくりしていると、また近くで落ちたのです。テレビでは普通に野球中継をしていて、家から車で15分ぐらいのところでは、雨は降らず、よく見てみると、家の上に黒い雲が動かず、固まっているように見えたのです。その時、犬に餌を上げてきてと母親に言われ、犬の家にご飯を持って行こうとした瞬間目の前で雷が落ちたのです。それは凄まじいものでした。それからこれでもかこれでもかと言っているように雷が落ちるのです。二階に落ちると大変だと思い、一階でテレビを見ていましたが、少し立つと落ち着いてきて黒い雲がなくなっていたのでした。びっくりしたと思い、何とも言えない不安の中で床につきましたが、何と同じことが、三日も続いて起こったのでした。三日目に襖を開けて外を見ると天から地に稲光がしてまた近くに落ちたのです。何か悪いことでもしたのだろうかと、一生懸命悔い改めの祈りをしていましたが、ふっと心の中に「小さき者よ、私の手を拒むのかと言われたように思いました。後から徹夜祈祷会に出ていた兄弟にその話をすると、相手が真っ青な顔になったのです。どうしたと聞くと、帰ったあの後、預言者の一人があの人の頭に雷が落ちて頭がぱかっと割れてしまうのです。と半分笑いながら話していたというのです。その日、主が私にしたいことがあったのを後から知りました。このことで、主を恐れることを学んだのです。今でも忘れないで、神の御手はどんなことでも拒んではいけないということを思い出しては、従って行ったのでした。

 

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まだ教会に行くだけなので、行かない日もあった。そんな時は決まって何か気に入らないことがあっていじけているのである。そんな日はYAMAHA のYHRに乗って峠道を走るのである。何とも言えない気分、いいな〜と思いました。しかし、今までそのパターンで行くと何かが起こるのです。ちょうど信号機が赤になりそうなので、思いっきりスピードを上げ十字路を曲がったとき、後ろからサイレンの音が聞こえたのです。まずいと思って、左にバイクをつけてエンジンを切りました。白バイの警察官が降りてきて、免許見せてというのです。すぐには、はーと言って免許を見せました。そうすると、ちょっと手を動かすなと言われ、ヘルメットの横から出ているイヤホンを触ったのです。何か聴きながら走っていたなと言われ、返す言葉もなくすみませんとだけいいました。でも不思議なことに、切符切られるだろうと思っていたら、免許を返してくれて、気を付けろよと言われ、カッコよく走って行ってしまったのです。

そういう思いで、教会に行かなくなると、何かあるのです。そして教会に行くようにとあらゆる方向から神がアプローチをされてくるのです。その日の帰り道、自宅に戻ろうと、街道を直進から曲がろうとして、チラッと横を見ると、大きな字で秋元商店と書かれた看板を見たのです!、、、秋元、いやパウロ秋元牧師恐ろしく神が働いている。

 

 

 

 

 

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祈祷会からの帰り道、心の奥底から喜びが溢れてきて、満たされたのです。異言で祈ると違った世界に入っていったようでした。家についた私はすぐ床につきましたが、何か神に祈って感謝しないといけないと思わされて、主に今までのことを悔い改め、感謝の祈りをした時でした。ここに誰かがいるような感じがして仕方ないのです。それでも感謝の祈りをしていくと、不思議と筒の中に入ってしまったような感覚でがあり、そのうちに上から臨在が降りてきて凄い喜びに満たされたのです。異言で祈りながら、感謝をしていると、ますます喜びに満ち溢れてくるのです。もう寝ることなど考えられないような状態で、ただ神をほめたたえ、礼拝していました。気がついているともう朝になっていました。もう寝ないで会社に行こうと、自宅を出て会社に向かったのです。その間、異言で祈りながら歩いていたのですが、神の手が確かに置かれているようでした。会社についた私は、早速仕事についたのですが、その日は営業日でした。いかにお客様にカタログ(日本画のクリスマスカードを海外に送る仕事)を多く渡して、注文をもらってくるかが重要です、1日のノルマを超えなければなりませ

ん。いつもは9時〜10時まで働いて会社に帰ってくるのが、11時頃、疲れて仕方がなく、帰れば、ばたんきゅう〜です。なんとかならないものかと考えていましたが、祈ることを忘れていたのでその日の感謝と悔い改めをしていると、そういえばどこかの本で祈っていたらこの場所にいきなさいといい、そん道を教えてくれたという証があったなと思い起こさせてくださり、自分も明日祈ってやってみようと思ったのです。

次の日は車にたくさんのクリスマスカードのカタログを持って、会社を出て車の中で今日は道が教えられるようにしてくださいと祈りました。5時〜6時は無理だろうと思ったのですが、チャレンジしました。都内が近づくと、今日の1番目の会社はどのように行ったらいいでしょうかと?不思議なことに、心の中から、その道を行ってそこの道を左、その先の3軒目と言われ、車を向かわせると、不思議とその会社についたのです。カーナビなどない時代でした。地図だけを頼りにいくのですが、凄い時間がかかるのが、午前中には54件周り、夕方の6時には、120件を周り無事に会社についたのです。全ての道案内を主がしてくださったのです。心から感謝しました。それ以降、あのようなリアルな体験はできなくなりましたが、主が働けばこんなことにも助けが来るんだよと学びをさせていただきました。

 

 

 

 

 

導かれてといっても、何も特別なことはなかったのですが、礼拝に出席するのは午後からとまだあまり熱心とは言えませんでした。ちょうど国分寺ランド(午後はボーリングをしたりして遊んでいた)から国分寺道場(祈りと種から言われたことをする)になる変わりめの時だったので、午後の使い方がいきなり変わり始めたのです。ある日曜日の午後教会にいくと、皆んな会堂の横の小さな部屋も借りていたのですが、そこからお経なような声がし初めてきてそこにいた兄弟に何やってるのと聞いたら、異言で祈ってるんですよ言われたのです。異言、、、、?何それ?聖書に書いてある異言の祈りですよというのです。聞いたことがあるが、、、これが異言で祈ること、、、初めて聞いて恐ろしくなって教会から家に帰ってしまったのです。でも家に帰って冷静になると異言で祈れるなら自分も祈ってみたいと思うようになったのです。その週に会社の帰りにクリスチャンのブックセンターにより、獄中からの賛美と朝の9時というカリスマの本を買ったのです。それを読むと自然と心に平安がきて、自分も祈ってみたいという気持ちになったのです。その後、異言で祈るためにどうしたらいいかと牧師に尋ねると、ああ祈ってあげるよと言われ、手を頭に置いて異言で祈り始めたのです。最初に聞いた印象とは全く違う、なんとも言えない感動がこみ上げてくるのです。そしてその場で自分も異言で祈り始めたのです。なんとも言えない満たしを感じ、世界が全く変わってしまったようでした。しかし、その感動ともう一つなんとも言えない、心の中にいつも闇のようなものを持っているのです。そして大切な時に、その暗闇が表に出てくると人が変わったようになるのです。国分寺にきて初めて、水曜日祈祷会に行ってみようと思い、初めて教会の祈祷会に参加しました。そして牧師宅にいくと、預言者の二人がきていて導かれてきたと言われるのです。そして、今日は特別な日で神様が何かをされると思いますと牧師が言って、自分をさして森田兄弟に御心がありますというのです。そして祈り初めていくうちに預言が与えられ、心で思ったことを預言者が当てるのです。そして、祈りの時間が長くなり、こっちを向いてと言われ目を開けて、牧師の方をみたのです。すると目に向かって臆する霊よされと強い口調でいうのです。預言者の方は霊が出ていったと言われ、確かに今まであった暗闇が全くその日を境になくなっていったのです。

 

 

 

 

性格的には、まだまだ問題があったが、救われたという喜びは、心の中にあった。そのような時、高円寺の北口から坂を歩いている時に、ふっと今まで体験したことのない触れ方をされ、その後、あなたはこれから人間をとるようになると言われたのである。後から、聖書に書かれている箇所をみつけるが、その時は、聖書など持っていないし、そのような御言葉が存在していることさえも知らなかったのである。でも確かに触れられたのである。そして、そんなに行ってなかった教会に行き始めるが、たまたま、礼拝にいくと、ちょうどパウロ牧師が開拓伝道に出られるため按手式をおこなっているところに偶然出くわしたのである。よく分からなかったがただ特別な何かを見せてもらったような感じがした。その後で、こういう大きな教会は自分には合わないので、違う教会に行こうと決めて、祈り始めたのですが、なぜか国分寺の教会に行こうと思ったのです。そこには、パウロ牧師が開拓をやり始めた教会があり、まだ数人の信徒しかいなかった。友達に相談すると祈って決めた方がいいよと言われ、まだその当時は分からなかったが、導きを求めて祈っていたのである。そして、馬橋キリスト教会の新井牧師と話をして、自分が体験したこと、国分寺に行きたいことを告げると、水曜日の祈祷会で証しをしてくれたら、移ってもいいですよと言われたのである。水曜日に祈祷会で証しをし、みなが喜んでくれた、なんとも言えず嬉しかった。そして、日曜日から国分寺の教会にいくのである。

 

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高校の同級生に誘われて教会に足を運ぶことになるが、昔の自分なら誘われても行かなかったと思うが、教会はいいところだという感じがあったし、悪い生活から離れるのにはまたっく違うところに自分をおかないと周りに影響されてすぐ元の生活に戻ってしまうだろうと思っていたのである。礼拝は後ろの方に座り、なるべく当たり障りのない人の近くに座った。牧師の説教はよく分からなかったが、神様に祈ると、神様は聞いてくれて、答えてくださるんですと話し始めたのである。普通なら、何を言っているんだということになるのだが、不思議とそんなことが本当なら自分も神様の声を聞いてみたいと思ったのである。それは祈りのようであったと今は思う。その答えは、その後やってくるのであるが、礼拝では罪と十字架の話をしていたが、どう聞いても、罪と十字架が分からなかった。勉強もしてこなかった人間だから、皆んなとは違うからだと思っていた。それが分からないと真からの解放が受けられないことは知らなかった。その後、教会生活の中に入っていくのであるが、自分にはちょっと気に入らないことや、問題があるとすぐにその場からいなくなるという癖があった、せっかく午後コーヒーでも飲みに行きませんか?と誘われたのであるが、「コーヒーを飲みながら、仕事の話をし始め、進路のことを言い出したのだ、一流企業に目標を持っている者たちの話しは、自分をいじけさせるいい材料だった。用事があるのでとあいつらとは違うと心の中でいいながら、自分はいくつだって道はあるさと思って、また飲みにいくのである。心が硬くなだったのだ。