今までたくさんの方々と時間をとって話してきました。その中で教えられたことがあります。その一つは、本当に多くの方が聞いてほしい問題を持っておられる、人は話したい、誰かに聞いてほしい、、、人とはそういう存在なのだということです。

そして、人生の真面目な話し、深刻な話を語る相手や、話す場所が決して多くはないらしい、ということです。雑談の場ならどこにでも見つかるでしょう。気楽なおしゃべりの相手にはお目にかかるかもしれません。でも、心の痛みや悲しみ、怒りや不安を分かち合う仲間は決して多くはいないのではないでしょうか。でもイエスキリストは違います。あなたが通られた道を知っておられ、真から話しを聞き、その問題の解決へとあなたを導かれる方なのです。聖書を通して何らかの益をもたらす助けを教えてくださるのです。本当の自分らしさを取り戻すために、イエスキリストのところに来てみませんか?全ては解決されていくのです。   アーメン

神様。この一年、たくさんの方々が、孤立感を覚えてきたことと思います。技術の進歩にもかかわらず、友達や家族との関係が変わってしまったり、途切れてしまったこともあると思います。そしてそこには、喪失感もあったと思います。

それでも、神様。あなたは失われたものを、取り戻すことができる方です。神様、あなたは、交わりを愛され、私たちにつながりを与えてくださいました。私たちが直面する問題をみて、私たちのために祈ってくださる聖霊も与えてくれました。孤独を感じるときには、どうか、神様、あなたが近くに居てくれることを。あなたにはご計画があることを、思い出させてください。

もう一度、関係を築き、最初は戸惑うことがあったとしても、どうしたらその関係を意味あるものにしていけるのか、神様どうか私たちに示してください。

寂しさを、神様との関係を深める機会として、そして人を助けたり、愛したりすることできる機会として用いることができますように。孤独、孤立、不安、恐れ……、それらすべてを良いものに変えられますように。この世が、神様や友人たちとの関係を近くに感じることができますように。

イエス様の御名によって。
アーメン

 

 

 

 

ありとあらゆるところから、教会に導かれているような、強い御手をその当時特に感じていました。教会に集う時は、何かの力に押し出されるようにして教会に行っていたのですが、教会に集い始めると、初めは説教を聞いていると、ある御言葉が浮かんでくるのです。それはちょうどメッセージの話されているところに関連する御言葉なのです。ここに書いてある御言葉は、そういう意味だったんだなと学ばされ、教会に集うと不思議と御言葉を思いおこす体験が数多くなっていったので、後に学んでいく聞き従う歩みの訓練がされているようでした。また、だんだんと思索が変わってきたのです。世の中的なことよりも、主のことを考え出したのです。聖書を読みながらイエスキリストならこのような時にはどうするんだろうと、聖書を中心に考えるようになり、毎日、内面が新しくされているみたいでした。教会に行かなくなると、何かが必ず起こるので、教会生活を結局は選ばざるおえなくなったのでしたが、それは、自分の人生にとってとても重要なものでしたし、色々な祝福も具体的に見ていきました。当時、教会に集う中で、36という数字が気になっていました。ある時友人のクリスチャンから、森田を見ていると頭に36という数字が見えるんだけどと言われました。36ってなんだろうと、当時気になりましたが、あまり深追いせずクリスチャン生活を続けていました。牧師になって、ちょうど36歳の時に、早天祈祷会を教会でやるために、4時45分に会堂で祈り始めたのですが、その時に、背筋が痙攣してきて、物凄い痛みを胸の真ん中に感じたのです。もうどんな格好をしても痛みは収まらず、もう死ぬかと思うほどの痛みにどんどんなっていくのです。救急車を呼べず、会堂でもがくしかありませんでした。癒しの祈りをすることができないほど、痛みは大変なものでした。結局、1時間葛藤し治りかけた時、病院にいきました。病名は心筋梗塞で5箇所も血管が詰まり、左心室の左側が筋肉が動いていないため、血液を外に押し出す力が出なくなっていたのです。このままだと心不全になりますということで、入院し、心臓の左側は壊死していました。病院のベットで祈りをしていると、36という数字が気になって、考えてみるとちょうど36歳だったのです。そして、もし教会に行ってなかったら、その生活から、36でなくなっていたんだなと思わされました。その後は療養し、よくなっていくのですが、教会に行っていなかったら、神の助けはあったのだろうかと考えさせられました。教会、ここは自分にとっては特別な場所だったのです。教会に集っていたからこそ、人生虚しくなく、諦めることなく、歩んでこれたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエスキリストは父なる神の御心をおこなうためなら、道を変えてまでも行こうとされる方です、それは、サマリヤのまだあったことのない女性のためでした。その女性は、何か特別な方ではない、普通の人と、、、いや普通のとは違う人生を歩んでいました。イエスキリストご自身も、その女性を見抜いていました。彼女には今まで、夫が5人いましたが、今いる男は夫ではなかったのです。イエスキリストは永遠の命を得るたには、罪の問題を解決しなくてはなりませんでした。暗闇の部分に光を与えるために、主はあえてその問題に触れられたのです。女性はそのことを認めますが、イエスキリストは、そのことに関して、裁かれたのではなく、そこからイエスキリストにおける、乾くことのない永遠の命の水の話をされたのです。そして彼女は救われるのです。今日でもイエスキリストは変わることがありません。その人の必要を全て知っておられ、イエスキリストがそれを与えてくださるのです。ここでユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしておられず、交流もなかったのです。そこにイエスは行かれたのです。現代でも同じです。どんな罪の中にいようとも、どんなに苦しいところを通っていても、たとえ無関心でも、全ての人に分け隔てをなさらない方です。どんな人でもイエスキリストは変わらず、接してくださるのです。

 

 

 

 

 

神様は生きて働いてるんだということを、いやというほど教えられてきたが、風邪のひきやすい人、風邪はひかない人と、その人、その人によって風邪に強い人、弱い人がいる。クリスチャンになってから色々な方向から、神様は色々なことを教え始められた。その中で、体質というのでしょうか、悪霊に対して強い人、弱い人もクリスチャンのなかにいる。神はすでに十字架によって勝利を取られたので、いわゆる悪霊に負けてしまうというクリスチャンは一人もいない、しかし、神の御心の中で、悪霊の影響をよく受けやすいという人がいる。私も、その中の一人で、よく御心の場所に行こうとしても、いけない状況を作ってしまうことがうがゆるされることがある。私は、よく祈祷会を休むことがあり、決まって、体の調子が悪い時が多いのである。特に、頭がとにかく痛くなるのである。特に祈祷会の前などは強烈な頭痛のために、今日は休もうとあまりの頭痛にそう思ってしまうのですが、神様に祈ると、休みなさいではなく、行きなさいなのである。ええ〜と思うのですが、とにかく行くだけは行こうとして祈祷会の場所に行くのですが、初めは割れそうに痛い頭痛があるのですが、祈りをしていると何とすぐにでも頭痛がなくなったのでありました。頭痛だけでなく熱を持ってしまう時や体の変調が起こる時などもあり、そのような時に、主の集会に導かれているなと、感じた時はとにかく行くべき集会は出るようにした。そうすると集会に出ている中で、体の変調はなくなり、風邪のような症状が出た時などは、それが瞬時になくなったのである。これを、霊的なアタックというのだろうか?まだよくわからなかったのだが、吟味は必要ですが、御心のところには、悪霊も逆に働くので私は個人的に、御心の時は悪霊が引き起こす症状に悩ませられることが多くありました。その時に、御心を行うとなくなるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教会生活もだんだんと慣れてきましたが、わからないことだらけで少し大変でした。祈りも朝早く起きて祈れるようになり、その頃になると、一日5時間は祈れるようになってきました。しかし性格というものも厄介なもので、なかなか自分で直そうとしても治るものではなく、後々わかるのですが、主に聞き従う姿勢がないと何を変えようと思っても変えられるものではありません。しかし、その頃は何かあると教会に遅く行ったり、祈祷会に出たり、出なかったり、礼拝に出たとしても午後の集会には出なかったりしていました。その頃、ちょうどパウロ牧師が韓国へ断食祈祷院で祈るということになり、一週間以上日本を離れることになりました。その週の金曜日、徹夜祈祷会があり、出ようか考えていましたが、仕事もあるのでやめようかと思いましたが、今考えると主の促しがあるように思ったのでした。二階屋の宣教師が使っていた場所で祈り会をしていたので、行くことにしたが、着いてから時間があったのでいた人たちと遊んでいたのんですが、とっても気に入らないことを言われ「俺帰るは」と言って、変えようとしたら、二階から兄弟が降りてきて、預言で下にいる3人の人上に上がりなさいと言っていますよというのです。え~と思い、怖くなり逃げるようにして帰ってしまったのです。何とも言えない不安を持ちましたが、いいやと思いながら帰宅したのです。そうするとその帰り普通の天候で雨も降るような感じではなかったのですが、狭山に近づくにつれ、黒い雲が覆い始めたのです。バスに乗って雨が降る前に家に帰ろうと急ぎ足で帰ったのです。テレビをつけて野球を見ると西武球場はライオンズ戦でたくさん観客が入り、そのテレビを見ているとき、外でざーという音がして襖を開けると、凄い雨が降っていたのでした。そうすると突然雷が近くで落ちたのでした。今まで聞いたことのないような凄まじい雷の音で、びっくりしていると、また近くで落ちたのです。テレビでは普通に野球中継をしていて、家から車で15分ぐらいのところでは、雨は降らず、よく見てみると、家の上に黒い雲が動かず、固まっているように見えたのです。その時、犬に餌を上げてきてと母親に言われ、犬の家にご飯を持って行こうとした瞬間目の前で雷が落ちたのです。それは凄まじいものでした。それからこれでもかこれでもかと言っているように雷が落ちるのです。二階に落ちると大変だと思い、一階でテレビを見ていましたが、少し立つと落ち着いてきて黒い雲がなくなっていたのでした。びっくりしたと思い、何とも言えない不安の中で床につきましたが、何と同じことが、三日も続いて起こったのでした。三日目に襖を開けて外を見ると天から地に稲光がしてまた近くに落ちたのです。何か悪いことでもしたのだろうかと、一生懸命悔い改めの祈りをしていましたが、ふっと心の中に「小さき者よ、私の手を拒むのかと言われたように思いました。後から徹夜祈祷会に出ていた兄弟にその話をすると、相手が真っ青な顔になったのです。どうしたと聞くと、帰ったあの後、預言者の一人があの人の頭に雷が落ちて頭がぱかっと割れてしまうのです。と半分笑いながら話していたというのです。その日、主が私にしたいことがあったのを後から知りました。このことで、主を恐れることを学んだのです。今でも忘れないで、神の御手はどんなことでも拒んではいけないということを思い出しては、従って行ったのでした。

 

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まだ教会に行くだけなので、行かない日もあった。そんな時は決まって何か気に入らないことがあっていじけているのである。そんな日はYAMAHA のYHRに乗って峠道を走るのである。何とも言えない気分、いいな〜と思いました。しかし、今までそのパターンで行くと何かが起こるのです。ちょうど信号機が赤になりそうなので、思いっきりスピードを上げ十字路を曲がったとき、後ろからサイレンの音が聞こえたのです。まずいと思って、左にバイクをつけてエンジンを切りました。白バイの警察官が降りてきて、免許見せてというのです。すぐには、はーと言って免許を見せました。そうすると、ちょっと手を動かすなと言われ、ヘルメットの横から出ているイヤホンを触ったのです。何か聴きながら走っていたなと言われ、返す言葉もなくすみませんとだけいいました。でも不思議なことに、切符切られるだろうと思っていたら、免許を返してくれて、気を付けろよと言われ、カッコよく走って行ってしまったのです。

そういう思いで、教会に行かなくなると、何かあるのです。そして教会に行くようにとあらゆる方向から神がアプローチをされてくるのです。その日の帰り道、自宅に戻ろうと、街道を直進から曲がろうとして、チラッと横を見ると、大きな字で秋元商店と書かれた看板を見たのです!、、、秋元、いやパウロ秋元牧師恐ろしく神が働いている。

 

 

 

 

 

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祈祷会からの帰り道、心の奥底から喜びが溢れてきて、満たされたのです。異言で祈ると違った世界に入っていったようでした。家についた私はすぐ床につきましたが、何か神に祈って感謝しないといけないと思わされて、主に今までのことを悔い改め、感謝の祈りをした時でした。ここに誰かがいるような感じがして仕方ないのです。それでも感謝の祈りをしていくと、不思議と筒の中に入ってしまったような感覚でがあり、そのうちに上から臨在が降りてきて凄い喜びに満たされたのです。異言で祈りながら、感謝をしていると、ますます喜びに満ち溢れてくるのです。もう寝ることなど考えられないような状態で、ただ神をほめたたえ、礼拝していました。気がついているともう朝になっていました。もう寝ないで会社に行こうと、自宅を出て会社に向かったのです。その間、異言で祈りながら歩いていたのですが、神の手が確かに置かれているようでした。会社についた私は、早速仕事についたのですが、その日は営業日でした。いかにお客様にカタログ(日本画のクリスマスカードを海外に送る仕事)を多く渡して、注文をもらってくるかが重要です、1日のノルマを超えなければなりませ

ん。いつもは9時〜10時まで働いて会社に帰ってくるのが、11時頃、疲れて仕方がなく、帰れば、ばたんきゅう〜です。なんとかならないものかと考えていましたが、祈ることを忘れていたのでその日の感謝と悔い改めをしていると、そういえばどこかの本で祈っていたらこの場所にいきなさいといい、そん道を教えてくれたという証があったなと思い起こさせてくださり、自分も明日祈ってやってみようと思ったのです。

次の日は車にたくさんのクリスマスカードのカタログを持って、会社を出て車の中で今日は道が教えられるようにしてくださいと祈りました。5時〜6時は無理だろうと思ったのですが、チャレンジしました。都内が近づくと、今日の1番目の会社はどのように行ったらいいでしょうかと?不思議なことに、心の中から、その道を行ってそこの道を左、その先の3軒目と言われ、車を向かわせると、不思議とその会社についたのです。カーナビなどない時代でした。地図だけを頼りにいくのですが、凄い時間がかかるのが、午前中には54件周り、夕方の6時には、120件を周り無事に会社についたのです。全ての道案内を主がしてくださったのです。心から感謝しました。それ以降、あのようなリアルな体験はできなくなりましたが、主が働けばこんなことにも助けが来るんだよと学びをさせていただきました。