イエスキリストは父なる神の御心をおこなうためなら、道を変えてまでも行こうとされる方です、それは、サマリヤのまだあったことのない女性のためでした。その女性は、何か特別な方ではない、普通の人と、、、いや普通のとは違う人生を歩んでいました。イエスキリストご自身も、その女性を見抜いていました。彼女には今まで、夫が5人いましたが、今いる男は夫ではなかったのです。イエスキリストは永遠の命を得るたには、罪の問題を解決しなくてはなりませんでした。暗闇の部分に光を与えるために、主はあえてその問題に触れられたのです。女性はそのことを認めますが、イエスキリストは、そのことに関して、裁かれたのではなく、そこからイエスキリストにおける、乾くことのない永遠の命の水の話をされたのです。そして彼女は救われるのです。今日でもイエスキリストは変わることがありません。その人の必要を全て知っておられ、イエスキリストがそれを与えてくださるのです。ここでユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしておられず、交流もなかったのです。そこにイエスは行かれたのです。現代でも同じです。どんな罪の中にいようとも、どんなに苦しいところを通っていても、たとえ無関心でも、全ての人に分け隔てをなさらない方です。どんな人でもイエスキリストは変わらず、接してくださるのです。