仮定の上に仮定を重ねた仮定の話をしますが、近頃こんなことを考えます。
もし奈保子さんの現役時代、ワタシにいまぐらいの熱意があったとして、いま世間を騒がせているようなスキャンダルが彼女の身に降りかかったとしたら、ワタシはファンをやめるだろうか?――と。

いまのワタシの心境そのままを想定すれば、ファンをやめることは、たぶんないと思います。
もちろん、それはショックだし、悲しく、苦しく、ガックリと落ち込むこと請け合いです。でも、やめない。――いえ、そんな「意志」によって能動的にそうするのではなく、たぶん、やめられない。どうしようもなく。それでも彼女を「好き」であることを。

たとえばあなたの父親が、もし痴漢の罪で捕まったとしたら? なにをやってるんだよ!? そう呆れながら、ブチ切れ激怒しながら、それでも親子の関係は続いていくのではないでしょうか。
いや、自分なら縁を切る。――そんなクールな方もいらっしゃるかもしれません。でも、そうはできない人も世の中にはいる。少なくともそのことは、わかってもらえると思います。

推し活者の「推し」への「愛」は、それほどのものなのです。あえて「ワタシ」ではなく、主語を大きくして云ってしまいますが。

奈保子さんの美質は、数々あります。
問答無用にかわいらしい、その容貌は云うまでもなく。
母性を感じさせる絶妙にふくよかな、抱き締めたいし抱き締められたい、音無響子さん体型。
 

『めぞん一刻』は実写映画になりましたが、『エスカレーション』以降の奈保子さんに、響子さんを演じてもらえたなら――。平井和正せんせいも、これなら納得? ワタシの理想のキャスティングです。


――高橋留美子『めぞん一刻』〔新装版〕6巻より 


抜群の歌唱力。さらに音声だけでうっとりさせてくれる、とろけるような甘い歌声。
ピアノ(鍵盤)、ギター(弦)を奏でる楽器プレーヤーにして、作曲までこなすミュージシャンとしてのアビリティ。
浮いた噂もほとんどなく――ついでに云えばその数少ないお相手がなんとあのジャッキー・チェン(!)――「スキャンダル処女」とあだ名されたほどの真面目さ、清楚さ。

ファンとしては当然、これらの美質を褒め讃えます。けれども、スキャンダル等によってこれらが否定され、覆されたとしても、「ハイ、サヨウナラ」とはならないのです。
なぜか。これらの要素は、だから好きになった、ますます好きになった、――そんな「きっかけ」であったことは確かです。けれども、好きだからこれらを褒め讃えてはいても、これらは好きであり続ける理由では、もはやないからです。

齢五十、六十になろうかという立派なオバサン、往年の元アイドルが水着になって、ファンが歓びありがたるのはそういうことです。オバサンになろうが、見た目が衰えようが、関係ありません。なぜなら、存在そのものが尊いから。
歌が音痴でもいい、芝居が大根でもいい。その究極が、オバサンになってもいい――。これが愛という名の箱根の山のロープウェイに乗り、峠まで辿り着いてしまった、推し活者の境地です。「末路」と云うべきなのかもしれませんが(笑)。

傍目で見ているわからない人には、本当にわからない。信じられず、理解を絶しているでしょう。
いい歳をして水着になるほうもなるほうだ、見せられるこっちがセクハラだ。それ以上にわからないのが、それでよろこんでる連中だ。確かにお歳の割には驚異的に美しいかもしれないが、しょせんババアじゃないか!? アタマおかしいんじゃないのか!?
おっしゃる通り。アタマおかしいです。狂気です。愛は、ひとの正気を奪うのです。
 

なので、こうした贔屓の引き倒し、学芸会を見る親目線――そんな信者的、好意的なファンだけを見て、「これでいいんだ」と思ってしまうクリーター、パフォーマーは堕落します。愛のある厳しい目を向け、忠告し、苦言を呈してしてくれる「関係者」がいるか? そういう「関係者」を大事にできるか? それがそのクリーター、パフォーマーの「器量」です。
強調しますが、あくまで「関係者」です。(ファンも含めて)赤の他人では、どうにもなりません。赤の他人が、いかに礼儀正しく、理路整然と、「あなたのため」に、「愛ある苦言」を、ゆた○んに、もち○の飼い主に云ったところで徒労です。
「お前さあ、最近おかしいよ?」――そんな言葉を重く受け止めてもらおうと思ったら、そもそもの前提、関係性としての「信頼」が不可欠だからです。文句なしの正論をぶとうが同じこと。「アンチ」のレッテルを貼られ、片付けられて終わりです。
赤の他人にできるのは、赤の他人に向けた、「批評」までです。クリーター、パフォーマー当人への働きかけとして、できることはありません。そういうのは「関係者」にまかせておきましょう。
自分の批評が、そうした心ある「関係者」に届くかもしれない。そこにかすかな期待を寄せるしかありません。

 


カムバック――そこまでぜいたくは申しません。ですが、スポット的に歌のステージに立つ、あるいはメディアに登場する。――そういったことなら望みはあると思いますし、それを願ってもいます。

それでも、大場久美子さんや宮崎美子さんのように、奈保子さんが再び水着になることは、万に一つもないでしょう。
『再開の夏』※1が発売されたのは2016年。オリコンチャート週間写真集部門で3位という快挙を果たすも、奈保子さんは一言のコメントも寄せることはありませんでした。
出版社としては、欲しかったでしょう。恥ずかしいけど、うれしいです――そんなコメントを帯にでもできれば、ファンはもう一冊買いますよ。でも、ノーコメント。ここに、奈保子さんの「水着」への本心が垣間見える気がするのは、穿ち過ぎでしょうか。

グラビアからは、そんなことなどおくびにも感じさせない、満面の笑顔! それは彼女の真面目さに他なりません。それによって、ますます事務所の利益になって、ますますその仕事から逃れられなくなるのに。
事実そうなって、大怪我をしてからも、二十歳を過ぎても、長年にわたって水着を続けてくれました。堂々たる、昭和のグラビアレジェンドですよ。ファンとして、感謝に堪えません。感謝しかありません。けれども――

やれと云われれば、拒みはしない。でも、望んでそうするわけじゃない。――それが、現役時代からの彼女の「水着」に対する本心ではなかったでしょうか。

それでも万万万が一(前前前世みたいに云うな)、奈保子さんが御年六十過ぎの水着を披露してくださったなら、ワタシは狂喜乱舞し、歓喜の涙にむせぶに違いありません。

かわいいから好き――。
清純だから好き――。
そんなふうに愛に「理由」があるうちは、「愛」という名の箱根の山のまだまだ麓ですよ。ケーブルカーにも乗ってません。

スキャンダルで幻滅したら、さっさとお帰りなさい。小田急箱根湯本駅の改札は、まだ遠くありません。
その段階でそうなったのは、むしろ幸運というものです。

ワタシはそういう人を「憐れ」と見下げ、上からモノを云うつもりはありません。
そういう人達にせよ、多くは「愛」の何たるかを実体験し、理解しているはずだからです。
ただ、その対象が肉親や、伴侶としての恋人、配偶者に限られるだけの話です。

肉親でもない他人に、肉親以上の愛情を抱く――などというのは、「不幸」の爆弾を抱えるようなもの。それ以外の何者でもありません。
「アイドル推し」なんて、特に最悪です。まず、苦い結末しかない。まるで――いや、まさに実るはずのない「恋」そのものです。

大部分は芸能界という勝負の世界で敗れ、散っていく運命。
百人に一人の割で生き残れたとしても、その最大限マシな部類が、おしゃべりが達者なおもしろいオバサン、もしくはたまにテレビに出てきたかと思えばアイドル時代の暴露話で青春時代の思い出をブチ壊す、そんなひとになっているのが、大方の成れの果てであるだからです。
不幸のリスクしかありません。

「推し」になんて、なるものじゃない。
でも、なってしまったら、どうしようもない。云わば、運命。
手の届かない相手に恋をしたってしょうがない。それはド正論ですが、それでも恋しちゃったらしょうがないじゃないですか。
それが「推し」という存在。「推し」という活動。
それは血の繋がらない、肉親ができるようなもの。

でも、それが人間、それが人生ではないでしょうか。
人生の全てを理性的に、合理的に御するなんてできるでしょうか。
非理性的な不合理に突っ走ってしまう。そんな衝動にあらがえない人生の局面が、誰しもあるのではないでしょうか。

そして、こうも云えます。
不幸のリスクを負わない、幸せなんてありはしないと。
非理性的不合理の極みであるところの「推し活」に、ワタシは確かに無上の幸せを感じてきたし、いまも感じています。

97年、奈保子さんが第一子出産を機に芸能界をしりぞいて(「引退」とは本人は云っていないし、ワタシも云いません)、早三十年に差し掛かろうとしています。


それ以降、わずかな例外を除いて、彼女がメディアに登場したことはありません。よって云うまでもなく、アイドル時代の昔話をぶっちゃけトークで暴露して、ファンをガッカリさせたこともありません。

 

ネット配信すらしないところに、生半可な気持ちで「表舞台」には立たない――そんな彼女の強い「意志」をワタシは感じ取ってしまいます。そんな姿勢を好もしく思い、称讃しつつも、ワタシの気持ちは引き裂かれています。本音を云えば、Xのつぶやきでいいから見たい、見せてほしい。欲を云えば、配信をしてほしい。(リアル)奈保子お婆ちゃんの縁側日記」とか(笑)。研さんもきっと笑って許可してくれると思います。


私生活(公のメディアに登場しない以上、それしかないのですが)では離婚もせず、ふたりのお子さんを立派に成人させ、いまは遠くオーストラリアの空の下、幸せな(存じませんが、そう確信しています)主婦であることを全うしている。
素晴らしいひとだと思います。崇拝に値する女性です。

けれども、だから「推し」になったわけではありません。きっかけは、たまたまY○uTubeで見た、『大きな森の小さなお家』の過去映像がそれはそれは、あまりにも、悶絶もので「かわいかった」から。それだけ。それを起点に深みにハマった結果、それらを知ったに過ぎません。素晴らしいから好きになったのではなく、好きになった女性がたまたま素晴らしいひとだったのです。ワタシは幸運で、そして幸せ者です。

だから万万万が一(前前前世みたいに云うな)、オーストラリアの一介の主婦の情報を一体どこで聞きつけるのか、泥沼の熟年離婚――みたいな報道があったからといって、動揺はしても、気持ちが覆ることはないでしょう。

遠くオーストラリアの空の下、きっとあなたはいまも歌が好きで、音楽が好きで、家族や身の回りの人々に、それを披露しているに違いありません。
 

伝え聞くところによるとオーストリアのご自宅には、立派なスタジオが設けられているのだとか。大きな大陸の大きなお家――とワタシは呼んでいるのですが(笑)。


でももう、それを「仕事」にする気はないのだと――そう告げられてしまったら、目にいっぱいの涙をためて、受け容れるしかないではありませんか。

どうか、お幸せに。健やかに、穏やかにお過ごしください。そんな日々がいつまでも、あなたに続きますように――。
十七年――決して長くはない現役期間、芸能界という病んで狂った世界に、河合奈保子という奇跡が存在したこと。それを知り、今になって心を奪われたことを、ワタシはこう思っています。

それを単純に、「幸せ」という言葉で括ることはできません。
それは同時に、このひとはもう芸能界にはいないのだという失意。彼女の貴重な現役時代をワタシは若さゆえの移り気によって、愚かにも棒に振ってしまったのだという後悔。そんないくばくかの「不幸」を現に味わってもいるからです。
だから、こう云わせていただきます。奈保子さんによってワタシの人生は、ひとつ「豊か」になりました――と。

それが愛という名の箱根の峠で、温泉卵の真っ黒な殻を剥いている――いまのワタシの偽らざる心境です。

 

河合奈保子『甘いささやき』
YouTube

エンディングは、恒例の多摩市・カナメさんからのリクエスト。
アルバム『LOVE』より、河合奈保子『甘いささやき』をお送りしました。

この曲を取り上げるのは二度目。前に取り上げたのは「河合奈保子の世界」の第一回でした。※2
三十を過ぎて目覚めた遅咲きのアイドル好きが、アイドル遍歴の旅から帰ってみれば、青い鳥は枕元にいた!

そんな感じで始まった、ワタシの人生の第二次河合奈保子ブーム。(なにかと第一次より第二次のほうがドえらいことになりがち) そんなワタシの耳に、Y○uTubeから飛び込んできたのがこの歌でした。衝撃でした。この歌でワタシは、アルバムの歌もちゃんと聴こうと、「四〇年遅れの推し活」をやろうと決意しました。ワタシとっては思い出の、シングル曲を含めて十本の指に入る好きな歌です。

『エスカレーション』、『UNバランス』、『唇のプライバシー』など、のちの売野雅勇作詞のチョイエロ路線(笑)でなく、まだまだ幼い、あどけない、十七歳の奈保子ちゃんが1stアルバム※3でこれを歌っていたのが面白い。
シングルカットされていたら、なお面白かったのにと思います。『けんかをやめて』に並ぶ、彼女の代表曲になってもおかしくなかった。『けんかをやめて』がまさにそうであるように、世間をザワつかせる歌って、歴史にも記憶にも残るんですよ。

さすがにシングルで出すには、イメージ的に早過ぎたのかもしれません。じゃあ、二十歳を過ぎればよかったのかというと、やっぱりこの頃の声質ならでは歌のような気もします。

昨今の風潮であるコンプライアンスの嵐の前には、この歌さえも否定されてしまうのでしょうか……?
罪を赦し、寛容であることも、ワタシは「やさしさ」だと思うのですが……。

芸人はお笑いで、女優は芝居で、いい仕事をしてくれればそれでいい。
赤ちゃんが「泣くのが仕事」なのと同じぐらい、芸能人は「やんちゃなセックス狩人であることが仕事」みたいなものですよ。偏見ですか? 暴論ですか? 昭和の価値観ですか?

昭和という時代、芸能界は未成年の女の子に人前で水着で歌わせていました。ムチャクチャな時代です。いまよりも、もっともっと酷い。でも、そんな芸能界という澱の中から、河合奈保子という奇跡は生まれました。
芸能人がみんな河合奈保子だったら、そりゃいいですよ。でも、そうはならない。

もちろん勝手に生まれたのであって、昭和の芸能界の在り方が、河合奈保子を生んだわけではありません。誤解なきよう云っておきますが。
だからといって、コンプライアンスの過ぎた強化が、河合奈保子を生むことも、芸能人を河合奈保子にすることも、またありません。
それどころか、芸能人が軒並み矮小化した小市民になって、われわれは愉しみを失うでしょう。
なんという痛烈な皮肉でしょうか。

芸能という愉しみを護りたかったら、われわれが支払うべきコストは、多少のことは才能に免じて大目に見る、不道徳に対する忍耐ではないでしょうか。
メイちゃんも、寂しかったのじゃないのかなあ? 華やかな世界の人気者であっても、孤独感は癒せない。むしろそうであるほどに、それはいやますもの。
不倫報道に色めき立つのは当事者と、ガチ恋のファンぐらいで充分でしょう。そんな立ち振る舞いに「気持ちはわかるよ」と同情できるのは、ワタシはそこまでですね。

 

BONUS TRACK
ごめんなさいね あなたゆるして
たこやきに ハチミツ まぶしちゃったのォォォォォ♪
甘いたこやき


※1

※2

※3