これまでのあらすじ

 

(1)『ふたりのウルトラマン』に想ったこと

『ふたりのウルトラマン』を観て想ったのは、ふたつのことでした。
ひとつは、映画『シン・ウルトラマン』公開に沸いていた当時、「ウルトラマン」で釣って、「沖縄海洋博」の挫折という鬱展開に引きずり込むかと。まるで(小説)『幻魔大戦』だなと、平井和正ファンであるワタシはそのような連想をしたのでした。
ふたつ目は、クリエーターは変わる、ということ。(人として)時代・年齢とともに変わり、(クリエーターとして)成功によっても変わる。成功によって立場が変われば、それまでできなかったこともできるようになる。が、それが既存のファンの望みに適うとは限りません。むしろそうでないことは、往々にしてあります。

 

ふたりのウルトラマン
初回放送 2022年4月28日/NHK総合(72分版)、2022年5月2日/NHKBSプレミアム(90分版)

脚本家・金城哲夫の栄光と挫折を上原正三の視点で描く。上京した上原は、同郷の金城がいる円谷プロに身を寄せる。文学志向で特撮には乗り気ではなかった上原だったが、渋々引き受けたデビュー作が尊敬する円谷英二に賞讃され、次第に特撮にのめり込んでいく。一方、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などで成功を収めた金城は、長年組んで仕事をした円谷一が監督からプロデューサーに転身することを機に、沖縄に帰郷。もともとの夢であった、沖縄をテーマにした作品に取り組み始めるのだが……。その後も次々と特撮作品でヒットを飛ばす上原とは、対照的な人生を歩むことになる。

奇しくも『シン・ウルトラマン』の公開延期によって、沖縄本土復帰50年と重なったのも、何かの巡り合わせでしょう。

 

(2)クリエーターの変化後に問われるファンの人となり

好きな作品を創るから(=評価)、そのクリエーターを好きになる(=感情)。当然の帰結です。
ですが、その「評価」と「感情」の一致、云い換えるならクリエーターの「志向」とファンの「嗜好」との幸福な一致は、得てして長続きしないものです。
まず、クリエーターが変わる、ということがあります。クリエーターが自身の創作活動の方向性を転換する。前述の金城哲夫がこのケースですね。
この作品が大好きで、だから作者のことが大好きだったのに、近頃はその作品を創ってくれない。――ガウディとかアカデミックなアートなんて興味ないねん、「スラムダンク」の続き描いてや、井上先生? そんなことって、よくありますよね。

逆もある。クリエーターが変わらなければ変わらないで、こちらが飽きてしまうこともある。いつまで小学生以下向けの、ゆるいコメディ描いとんねん? ことさらそんな三行半を声高に発することもなく、静かに「卒業」していきます。――こちらの具体名は出しません。

それはどこか、恋愛感情に似てはいないでしょうか。昔のようなアツアツの感情もいまは落ち着いて、伴侶のダメなところも受け容れて(諦めて)、穏やかな夫婦関係を築くひと。対極に、常にときめく恋と破局を繰り返すひと。
そんな「ファン」の生態をタイプ別に列挙してみました。


A.「ファン」~永遠の家族的味方
「評価」と「感情」が、一致し続けているひとは幸せです。ファンの鑑です。たとえその「評価」が「感情」に寄せたものだとしても。ファンとは、そういうもの。それがファンです。どうかいついつまでも、その愛情でクリエーターを応援し、支えてあげてください。

B.「オトナ」~冷静だけど温かい紳士
冷静な評価を下しつつも、無粋なことは口にせず、なおかつクリエーターとその作品を好きであり続けられるひと。立派です。大人です。見習いたいものだと思います。

C.「消費者」~クールな恋の旅人
評価の低下とともに、感情も醒めてしまうひと。平井和正は『死霊狩り』までだったね、とか云ってるひと。好きな作品追いかけて、花から花へ。こういうひとも幸せです。どうかこれからも、まっとうな人生を送ってください。

D.「アンチ」~始末に負えない粘着気質
最後に困ったもんだというか、反省しきりというか(笑)。好きだという気持ち、愛のポテンシャルそのままに、容赦ない酷評、憎悪の言葉を撒き散らす、ついでに自分の不幸まで撒き散らす。ワタシが云うのもアレですが、シバくか逃げるかしてください。勝てる相手ならシバきましょう。勝てない相手なら逃げましょう。実生活でリアルにストーカーとかならないようにね?

 


 

これらの4タイプは、チャート化することでよりわかりやすくなります。
図のように敵・味方の軸、ホット・クールの軸で分ける。
ホットな味方がAの「ファン」、クールな味方がBの「オトナ」、クールな敵がCの「消費者」、そしてホットな敵がDの「アンチ」となるわけです。

AとDは対極であり敵対関係にありますが、得てしてAからDへ転んでしまいがちなのも、こう捉えるとわかりやすい。熱が冷める(醒める)には、時間がかかります。熱い鉄板がそうであるように。ですが、味方が敵に変わるのは一瞬です。彼が発したたった一言で、「見損なった」「そんな人だとは思わなかった」――そのようにコロッとひっくり返るのはよくあることです。そうなればなにしろホットですから、主張も激しく目立つというわけです。


(3)「変数」は自分だけ

カレがしょっちゅう浮気をするので困っています。どうしたらいいですか? いわゆる「人生相談」などで、ありがちな質問です。
カノジョが求めているのはおそらく、「どうしたらカレが浮気をしなくなるか」という解決策でしょう。ですが、それは無理な相談というものです。カレはどうにもならない。カレの浮気性は矯正不可能。カノジョにできるのは、そんなカレとはとっとと別れるか、そんなカレとそれでもお付き合いを続けるか、その選択しかありません。
カレを含む自分以外の全ての他人は「定数」であって、そこは自分の意思ではコントロールできません、変えられません。「変数」は自分にしかなく、そこをどう変えるのが自分にとり最も望ましいのか。それを考え行動するしか、あらゆる「悩み」「問題」を解決する道はないのです。
カレに浮気をやめさせようと努力し、リソースを費やすのは徒労であり、不幸の元です。

この原則は、もちろんファンとクリエーターの間にも成立します。それどころか彼氏彼女のような対等の立場ですらなく、その関係性はよりシビアです。
クリエーターが望ましくない変化をしてしまった。だからといって、昔の望ましい姿を取り戻すべく、クリエーター当人にアプローチするのは、時間の無駄です。無駄であるばかりでなく、最大級の「悪手」でもあります。あなたは大好きなクリエーター当人から嫌われ、疎まれるでしょう。さらに不思議なことに、同じ想いでいるであろうファン同志からも、思ったほどの支持・共感は得られない可能性が高い。あなたの行動は「痛い」――「幼稚」かつ「無分別」だからです(苦笑)。

私はこんなにも先生に身もこころも時間もお金も捧げてきた。だから、先生は私の言葉に耳を傾けるべきだ! ――気持ちはわかりますが、それ、ストーカーの発想です。
あなたにとってそのクリエーターがどれほど大きな存在でも、そのクリエーターにとってあなたはただの他人、ワンオブゼムです。あなたはスポンサーでも、パトロンでもない。費やした金銭があなたの家計にどれほど重いウェートを占めようと、クリエーターの売上からすれば微々たるものでしかありません。
彼氏彼女の関係であれば、まだしも「これ以上浮気を続けるなら、あなたと別れるわよ」といった交渉の余地もありますが、ファンがクリエーターに対し「これ以上しょうもない作品創り続けるなら、ファンをやめるぞ」などと云ったところで、オドシにもなりません。「さっさとやめてくれ」と相手をしてくれるならまだマシで、無視されるのが関の山でしょう。しっかり悪い意味で認知され、嫌われた上で。

一介のファンが、クリエーター当人に働きかけるなど無駄なこと。ファンにできるのは、クリエーターの仕事を支持するか・しないか、受け容れるのか・拒否するか、その選択しかないのです。

(4)「苦言」と「アンチ」と「小姑根性」

心からの、忠節からの批判――苦言、諫言などと云われます。そういったことも、確かにあるのでしょう。ですが、それが真実真心から発したものであったとしても、あなたがそのクリエーターにとり赤の他人――一介のファンに過ぎないのなら、それはやめておくことをお勧めします。繰り返しますが、それは時間の無駄です。あなたの出る幕ではないのです。

言葉がもつ説得力は、単に文字列だけで成立するものではありません。それには「顔」や「人格」が不可欠なのです。匿名・無記名が軽んじられるのはそのためですし、日頃評判の良くない人間がたまに正論を云っても「お前が云うな」「お前にそれを語る資格はない」などと認めてもらえないのはそのためです。言葉とは、それを口にする者の人格や、聞く側との関係性とがセットになって初めて効力を発揮するものだからです。なぜか? 口先だけなら、どんな立派なことでも云えるからです。よって社会的、ないし聞く側に対する積み上げがなく、信用のない人物の言葉には、説得力がないのです。

「私の批判から逃げるな! だからお前は成長しないんだ!」
何処の誰かもわからない、どういう人かもわからない。どんな見識をもち、実績があるのか、それらも一切不明。どんな動機や目的・底意があるか知れたものではない匿名希望さんから、そんなことを云われてもね……。親切ごかしの自己申告さえ疑わしい。心配を装う「小姑根性」でないどうしてわかる?
そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。

「腐される側」の身になれば想像はつくはずです。真心からの「苦言」も、「アンチ」の罵倒もいっしょくた、四方八方から一斉に襲いかかる十字砲火。グサグサと胸を突き刺す不愉快なリアクションの渦の中から、心ある「苦言」だけを選り分け、真剣に耳を傾ける。……そんなことができるのは、よほど強いメンタルをもった、できた人物だけでしょう。ワタシには無理です。
ですから見も知らぬ他人、一介のファンでしかないあなたの言葉が、それがたとえ真心から発したものであったとしても、クリエーター当人にまともに耳を傾けてもらえるかと云えば、望み薄だと云わざるを得ないのです。

そんな役割は、彼が信頼を置く身近な人物や、仕事の関係者にまかせておきましょう。
馴れ合いの仲良しこよしの関係者が、シビアなことなんて云うはずないじゃないか!? お前にだって、そんなことを云ってくれる友達なんていやしないだろ!?
そうかもしれません。だとしたら、それも含めてそれがその人の器量であり、限界なのではないでしょうか。

(5)「アンチ」に転んだワタシの過ち

ここまでは忠義ぶった、あるいは自分ではそう思い込んでいる自己欺瞞も含めた、「善意」の批判について述べてきました。しかしながら、世の「アンチ」的発言の多くは、「悪意」に基づくものです。愉快犯として、あるいは憎悪によってそれはなされます。これを考えないことには、この問題については話になりません。

ワタシはかつて信者的崇拝者として、作家・平井和正をカリスマとして仰ぎながら、彼のある「失言」をきっかけに、激しく酷評したことがあります。
それは何も忠義のファンを気取って、諫言申し上げたつもりなど、まったくありませんでした。若い憤懣の迸るまま、憎悪を込めて罵ったのです。そのことについていまは後悔も反省もしていますが、当時は少なくとも「あなたのために云っている」だの「好きだからこそ、厳しいことを云わせてもらいます」だの、そんな殊勝な気持ちは毛頭、さらさら持ち合わせてはいませんでした。
※後悔と反省
赦しを乞うべきひとはすでに故人であり、もしかしたら赦してくれたもしれないひとはもういない。
生きてさえいれば、取り返しのつかないことなんてない。――ワタシの好きな言葉ですが、これは取り返しのつかぬことのひとつです。


この問題について、元・加害者であるワタシが語っていいのか? その資格があるのかという迷い、自問はあります。それでも加害者だからこそわかること、語れることもあるでしょう。
そこでこのパートでは、信者的崇拝者であったワタシが、作家・平井和正を罵った事例、事情について、恥を忍んで取り上げたいと思います。

 

三下り半の辞
 

その昔、ワタシが発した三下り半の辞。冒頭の青いセンテンスが、公式掲示板での平井和正の発言の一部引用。以下、それを受けてのワタシの弁です。
これだから「信者」は怖いという実例。「信者」とは、カリスマの敵に回るかもしれぬ者。あなたが創作の方向性を転換する時など、彼らは厄介な障害になるかもしれません。自らのカリスマ性を自覚しているクリエーターの方は、くれぐれもご用心の程を。

当時のログを掘り起こして久々に読み返してみましたが、意外とマイルドで少々拍子抜けしました。記憶に残る印象だけが強まっていたらしく、もっとえげつないボロクソのこき下ろしをしていたように思い込んでたもので。ある意味、ちょっとホッとしました。これなら、そんなに自責の念に苛まれることもないかな?
それよりも、全身鳥肌ものの恥ずかしさに身悶えします。なんですか最後の寒いカッコ笑いは? 余裕ぶってみせたところで、そうじゃないのはバレバレなんだよ。怒るときは怒れ。真っ向真剣に怒り抜け。前段はいま読んでも、ちょっといいことを云いかけているのに惜しい。過去の記録ですが手を入れたい、改竄したい。

こうした手合いが、時間をかけて己れの幼稚さ、無分別さを恥じ、心を入れ替えることはあるかもしれません。その可能性はないとは云えませんが、しかし、それには時間がかかります。
勝手に理想を押しつけ、勝手に失望して、勝手に怒り狂っている――ただいま現在、絶賛逆恨み中のこうした手合いに、即効性のあるつけるクスリはありません。これもまた「定数」であって、相手側に説得を試みるのは徒労です。いかにしてその被害から免れるか、自分側がその防御策を講じるしかありません。それについての愚見は、《腐される側の巻》で述べたいと思います。

(6)ネット芸者の情熱

賞讃であれ、酷評であれ、ネット芸者たるファンライターにとり、それは自身の作品なのです。
「感動」がそうであるように、「怒り」もまた、作品の素材なのです。怒りを表明し訴えることは、一義的な目的であり手段ではありますが、それ以上に「怒り」という激しい感情――その絶好の素材で作品づくりをするモチベーションが抑えられないのです。したがって、その情熱を止めることはできません。
パチンコでお金は稼げないよ? たまに儲かることはあっても、トータルでは損失のほうが大きいよ? そんなド正論を告げられても、パチンコが好きで好きでしょうがない人間は決してパチンコをやめられない。クリエーターへの働きかけなど実は二の次、自分の意思など通りはしないことは承知の上、それでも自分はそれを云いたい、云わずにはおれない、その衝動こそが第一なのです。


ここのところは、無から有を生むプロの創作者には、素人ネットライターの情熱に、いまいちピンと来ないのかもしれません。
オリジナル――無から有を生むクリエーターからすれば、ひとの作品をああだこうだ云う、有から有を作ることしかできない批評屋は、ただ疎ましいだけの存在なのかもしれません。不愉快な否定的言辞を弄する輩に対し、「偉そうなことを云うなら、お前が作ってみろ」と云いたくなる気持ちも、わからないではありません。(その類の発言は感心しませんが)
ですが、素人ネットライターのハシクレとして云わせていただければ、そういう人間にもそういう人間なりの、表現への情熱はあるのです。

前述の(3)(4)では、「善意」の批判について述べました。そこで、クリエーターへの働きかけは無駄であると申し上げました。ですが「善意」であれ「悪意」であれ、「そうしたい」という衝動は止められません。外に吐き出すのを堪えることはできても、裡から湧き上がる衝動そのものを湧き上がらないようにはできないということです。自分の「感情」が鎮まらない限り。
このテキストにしても、「そんなことしても無駄ですよ」と説いたからといって、その対象となる人達を説得できるか、彼らが「ならやめます」となるかと云えば、それはまずないとワタシ自身承知しています。ワタシも無駄なことをしています。ワタシはただ、これを云いたかったのです。なるべく面白さを追求した形で。

チョコレートを作ります。材料はまず板チョコを……(すでにチョコレートやんけ! カカオから作れや!)……すみません、そこまで本格派のチョコレート職人ではありません。市販のチョコを使って、二次チョコレートを作ることしかできないんです……。でも、それが好きなんです。
このテキストも、もともとの動機を辿れば『“ガチャ文”考』の二次エッセイです。すでに原典の原型は留めていない感がありますが……。


(7)平井和正と高橋留美子の危うい関係

ただし、心しておかねばならないことがあります。
ひとたび否定的言辞を公言するなら、クリエーター当人ならびに他のファンとの良好な関係は、壊れるかもしれないということです。

ひとつの例をあげます。平井和正と高橋留美子の関係です。
ふとしたきっかけで『めぞん一刻』にハマり、評論まで書いた平井和正と、デビュー以前から『ウルフガイ』の大ファンであった高橋留美子とは、互いにリスペクトし合う作家同士として、対談を重ねるだけでなく、平井和正の著作のカバー(のみならず小説の挿し絵まで)を高橋留美子が飾るなど、良好な関係にありました。
※(左)評論/『「めぞん一刻」考』(『高橋留美子の優しい世界』(徳間出版・1986年刊)収載)
※(中)対談集/『語り尽くせ熱愛時代』(徳間出版・1984年刊)
※(右)小説/『女神變生』(徳間出版・1988年刊)

高橋留美子の優しい世界 語り尽くせ熱愛時代 女神變生

ところがその両者の交流が、いつしかバッタリと絶えて見られなくなりました。
そのことについて公表された情報をワタシは知りません。ですが、思い当たるところはあります。平井和正がエッセイ集に批判的論評を載せたことです。収録の書き下ろし「人魚の森の謎」、あれがマズかったのでは? そのことで高橋留美子せんせいのご勘気をこうむってしまったのでは? そのように憶測することは容易です。
本を出版して発表すれば、それはパブリックな発言です。それが当人の耳に入らないはずはありません。ご注進におよぶ忠義のファンは、必ずいるものだからです。
※『夜にかかる虹(下)』(リム出版・1990年刊)
夜にかかる虹(◆下)
 
teabreak ~ 「公言」に「ナイショ話(陰口)」なし ~
前述のワタシの発言も、自分のサイトに書いたもので、早い話が独り言です。お膝元である当時の公式掲示板やSNS(それはやっていませんでしたが)で、当人に向けてダイレクトにぶつけたものではありません。当人が読むはずもないプライベートページの内容を当人に知られるところとなったのは、やはりご注進があったようです。
ワタシは少なくとも傷つけるつもりは無かった。キミは知らぬが仏の情報をわざわざ伝え、大好きな平井せんせいを傷つけて平気なのか? そこに愛はあるのか? 情報伝達罪だ。――なんて云い訳は通りません。ネットでオープンな発信をする以上、それは「公言」であって、当人も含め人々に広く知れ渡ることか有り得るのは大前提です。
※情報伝達罪
平井和正『星新一の内的宇宙(インナー・スペース)』(「悪徳学園」収載)の登場人物である星新一が口にした名言。

これはあくまでもワタシの憶測です。妄想です。
いかに神様のようなウルフガイの作者といえど、愛児に等しい自分の作品を批評されては、自らも創作者である高橋せんせいには聞き捨てならなかったのではないでしょうか。そうなると、それまで決して口にはしなかった自分の読者としての不満も、頭をもたげてこようというものです。
だったら云わせてもらうけど、あの犬神明が出てこないウルフガイの続編はなに?
もちろんこれはワタシの下種の勘繰りです。この物語はフィクションであり、登場人物のセリフは筆者の妄想です。

平井和正は表現者としての欲求に抗し切れず、高橋留美子作品の批評を「発表」しました。ですがその結果には、臍を噛んでおられたのではないでしょうか。嫌われてもなお、それでも云わねばならないほどのことであったようには思われません。もっとも前述の憶測が正しいことが前提の、二重の憶測になってしまいますが……。
「親しい作家を批判する愚」を、この一件で平井和正は骨身に沁みて思い知ったのではないでしょうか。

ですが、この本が出た当時の若き日のワタシは、平井和正信者として、まったく異なる感想を抱いていました。
さすがは平井和正、すげーぜ。あんなに大好きだった高橋留美子の作品を、かくも冷徹に批評してみせるとは!!! ワタシもかくありたい。こんな愛情と冷徹さを兼ね備えた、こんな読者でありたい、なりたい!!!
ワタシは平井和正の決して尊敬すべきでない部分を尊敬し、見習うべきない部分を見習ってしまったのでした。そしてのちに、見事にやらかしてしまうことになるのです……。

(8)「批評家」の道、「ファン」の道

大人のファンの精神は、アラベスクの紋様の如しです。
一方で愛情を、もう一方で憎しみを――そこまでいかなくとも軽い苛立ちや腹立ちを覚えることはままあるでしょう。いい歳をしたファンが、クリエーターに対してそうした矛盾も孕んだ複雑な精神的陰影を抱えているのは、当たり前の話です。中学生でもあるまいし、彼の精神・脳内がシンプルな「好き」だけで埋め尽くされているはずはないのです。

それでも多くのファンは、そうした「負」の感情や意見を表立って表明することはしません。
それが大人の「気遣い」であり「分別」だからです。
若い頃のワタシには、そこのところがまったくわかっていませんでした。

あんたはファンとして、平井和正のあの情けない発言をどう思ってるんだ? まさか積極的に支持しているわけじゃないよな? だったらなぜ云わない? なぜ黙ってる?
おれは云うよ。云えるよ。そいつを云ってみせるのが、おれがあの人から学んだ、平井和正魂ってやつだ。

ア痛タタタタタタ……。自分で書いてて寒イボ(関西弁で云う「鳥肌」)出るわ。これをお読みの方で、タイムリープ能力者様はいらっしゃいませんか? ワタシを2003年に送ってください。コイツに小一時間説教カマしたります。
平井和正せんせいも草葉の陰で、
「そんなことを教えた覚えはない」
「勝手に学んだ気になるな」
「そしてこちらに押しけるな」
そう仰っているに違いありません。
 
(私の小説を熱心に読みふけったあげく、ある種の使命感の虜になり、伝道の道へ踏み出す人々が存在する。面倒くさがりの私にはよく理解できないが、熱烈な使命感の推力によって、他人の誤った考えを変えてやらねばならぬ、と努力を繰り返す伝道者タイプの方々が、確かに実在するのである。私はこうした人々を嘲笑もしないが励ますこともしない。願わくば、ごの種の強力な動機に駆動される伝道者の皆さんが、私を見逃してくれるようにと密かに祈るのみである。)
――『夜にかかる虹(下)』収載「ある真面目すぎる読者への手紙」より
この「真面目すぎる読者」とワタシとは、表面的には対極だと思います。しかし、根本の部分では――変にクソ真面目なところなんかは、わりと似た者同士だったんでしょうね。

他人の気遣い、分別を「臆病」「保身」と曲解し、自らの無神経、無分別さを「反骨」「率直」だと勘違いしている。その勘違いぶりも幼稚なら、さらにそれを誇示したがるところがもっと幼稚。それを「イケてる」「カッコイイ」って思ってやがったんですよ、ワタシってやつは。公衆の面前である店内で店員を怒鳴っている客と変わらない。彼もおそらく自分ではそう思っているのでしょう。それは酷く「みっともない」行為なのですが……。

華大(はなだい=博多華丸・大吉)さん、鈴木奈穂子アナが「今期の朝ドラ、イマイチだな」と仮に思ったとして、それを「あさイチ」の朝ドラ受けトークで口にできますか? あさイチの「今期の朝ドラ、イマイチトーク」……。できるわけがないし、またしてもいけません。それが「立場」というものです。
視聴者がこの人達の本音を知りたいと思うなら、言葉の端々や表情などから、それを読み取り、推察するしかないのです。

「ファン」には「ファン」の「立場」があります。好きなクリエーターを応援する者としての立場、同好の士であるファン仲間への気持ちを慮る立場が。
それを「馴れ合い」と云うなら、確かに否定はできません。けれども、彼らをバカみたいに肯定的な気持ちしか持ち合わせていないと思うとしたら、あまりにも想像力を欠いています。大の大人が、純粋に「好き」という気持ちだけでいられるはずはない。思っても云わないだけ、黙っているだけです。

完璧な人間はいない。こころ乱れたとき、醜態を演じてしまうことはある。24時間365日、フル操業で自己を律してはいられない。ときに無様な、カッコ悪い部分を晒してしまうこともある。そして、それを責める資格のある、完璧な人間もまたいないでしょう。
信者的にアクロバティックな理屈をこねくり回してまで、なにもかも肯定することはない。
あらあらせんせい、どうしちゃったの? さすがにそれは失言ですよ?――ぐらいに思っておけばいい。ハイここ重要、試験に出るよ。そんなことは心の中で、こっそり思っておけばいい。せいぜいオフ会でしゃべるぐらいでいい。ネットでヒステリックに騒ぎ立てるのは、わたくしはこの通り器の小さな人間でございますと大声で宣伝するようなものです。
滅多に見れない、人間臭い部分を見せてもらえた――。そんな、落語の高座で居眠りをする老師匠に野次など飛ばさず、黙って見守り続ける寄席の客のような、粋な余裕をワタシも身につけたいものだと思います。

――否。そんなぬるま湯みたいな、馴れ合いは御免だ。
私はシビアに批評をする。讃えるべきは讃えるが、腐すべきはハッキリ腐す。結果、誰にどう思われようと構わない。
それも、結構。あなたが歩むべきは、「ファン」のそれとは違う、「批評家」の道です。
あなたはクリエーターから憎まれ、他のファンからも嫌われるでしょう。情と思いやりの世間からハブられるのは、批評家の宿命です。それでも批評としての質が評価されれば、あなたにはあなたのファンがつくでしょう。

――だけど、別に嫌いってわけじゃないんだ、憎くて云ってるわけじゃない。気持ちとして、あの人のことは本当に「好き」なんだよ。それをわかってくれよ?
わかりますとも。よくわかります。というか、そんなのは「当たり前」の話であって。「愛情」と「批判精神」の両方を持ち合わせているなんていうのは。それは「ファンあるある」とさえ云ってよく、自分だけ特別だと思っているとしたら、思い上がりが過ぎるというものです。
後者の「批判精神」を(少なくともパブリックな場所で)口に出さずにいられるか、黙って腹に収めていられるか? そこに、あなたの人間としての「性質」が問われるのです。真実「愛情」があったとしても、それは免罪符にはなりません。ましてや「正しいことを云ってるんだから、受け容れるべきだ」なんていうのは甘ったれの戯言です。それを赦すか赦さないか、決めるのは相手であって、あなたではありません。
嫌われて悔いなし――であるなら何も云うことはありません。しかし、クリエーターも含め、嫌われたくない相手がいるのなら、口にしてはならない言葉、堪えなければならない振る舞いはあるということです。

クリエーターならびにファン仲間からの好感度か、表現者としての己れのエゴか。それはいずれかを選ばなければならず、両方を獲ることはできません。

だからこそ、クリエーターに対する自分の「負」の部分、「黒い」部分を「匿名」で、別名義・別人格を設けて発言する行為は後を絶たないのでしょう。
それは少なくとも、昔のワタシに比べれば「バカ」ではない。「分別」があります。本人名義、自分名義で発言するのはマズいってことをよくわかっているわけだから。ただ、露見したときにもっとマズいことになるので、そこのところはくれぐれも気を付けてねとは申し上げておきます。
※ここで云う「匿名」は「無記名」を意味し、「ハンドル」はそれに含めておりません。「カナメ」は本人名義、自分名義です。

 

ワタシは「ファン」――応援に徹することはできないタイプの人間です。表現者としての己れのエゴを発露せずにはいられません。「愛情」も「批判精神」も渾然一体、自分の正直な気持ちとして語りたい。結果、クリエーターご本人とそのファンに嫌われてしまうとも。それでもただ毒を吐き、鬱憤を晴らすためだけの手段にはしないつもりです。
これからも、結果的にひとを傷つけてしまうことを、ゼロにはできないでしょう。けれども、最初からそれを「目的」にした、そのための「道具」としてのテキストは書くまい。こころの渋柿も、甘い干し柿に調理して、わざわざお越しくださるお客様には「美味しい」と云ってもらえる料理をお出ししたい。そういうものを目指したいと思っています。そう誓いを立て、このパートの筆を置きたいと思います。

以上、「腐す側」に関して、云いたいことは云い尽くしたと思います。
ワタシは教条主義的なお説教は嫌いです。批判をするにも品位がどう、節度がどう、そんなことは云いたくありません。許される批判とそうでない批判に線引きをして、前者を奨励するとか。ましてや自分がしているのは「許される批判」であって、責められる筋合いではないなどというのは噴飯ものです。それをする者はいくばくかの「罪」と「不道徳」を背負い、いくばくかの人を傷つけ嫌われる、そのことを覚悟の上でそれをするほかはないのだと思う。ネットの「定数」としての「腐す側」の現実と、「腐す側」の当事者にできる選択を述べたに過ぎません。「善意」の批判と「悪意」の批判。クリエーターに及ぼす効果の程、それはほとんど無駄であること。それでもそれを云いたがる者の事情。それを云いたがる者の身の施し方について。
続く最終節は立場を真逆にチェンジして、《腐される側の巻》です。こういった輩のもたらす不愉快から、いかにしてわが身を守ればいいのか、愚見を述べたいと思います。