●小夏、悪魔と契約を交わしてしまうこと――

そしてまたしても騒動はここ――NKHメイクルームを舞台に繰り広げられる。
「そうだ! 小夏っチャンに、プレゼントがあったの!」
ヘアメイクを終えた杉村星奈は、相原小夏に云った。
もちろん、彼女がふいにそのことを思い出したわけではない。初めから、こういう筋書きを描いていたのである。
「プレゼント?」
期待やよろこびやはなかった。心に警戒アラートが鳴っただけだ。バレンタインの義理チョコすら寄越した試しのない彼女が、まともにそんな真似をするはずはなかった。なにかあるに違いないのだ。それも悪いことが。

「ジャーン!」
星奈が浮かべた悪魔の笑みとともにバッグから取り出したのは、一冊の雑誌だった。折り目でもつけていたのか、即座にある頁を開いて、小夏の眼前につきつけた。

「18歳の初ビキニ! 素直が葉山で弾けた!――全六ページのカラーグラビア! 『GARO』の最新号、まだ書店には出回ってない発売前の見本誌よ。取材があったから無理云ってもらってきたの」
 

[作者コメント]
モデルになったリアルの雑誌は、いまはなき男性誌「GORO」。でもこの名前だと、つげ義春とかが載ってるアングラ系漫画誌みたいですね。


星奈がつきつけたその雑誌のページには、いま彼女が口にしたキャプションとともに、燦燦とした太陽に照らされた、笑顔の沢合素直の豊満な水着姿が写し出されていた。濡れぼそった全身からキラキラと陽光が反射し、文字どおり「眩しい」肢体そのものだった。

「うれしいでしょ? しっかり見なさいよ? なに後ろ向いてるのよ?」
「見ません! しまってください! ていうか、持って帰ってください!」
星奈に背を向けて小夏は云った。
「ホントは見たいくせに? 見て見て~小夏く~ん、素直の大胆過ぎるビキニよ~、小夏く~ん」
彼女にそう呼ばれることには、不愉快を覚えた。大切なものを穢されている気がした。
「見ません! 素直ちゃんの水着は、一切!」

「驚いた――」
星奈は目を丸くして云った。
「小夏っチャンって、そういうタイプ? 話には聞いてたけど、そういうファンって、本当に居たのね……」
「ていうか、『ファン』とか、そういうんじゃないですから! 素直ちゃんに、別にそういう感情は持ってませんよ、ぼくは」
「そういうの、いいから」
ハイハイ――とでも云うように、星奈は雑誌を閉じ、脇のテーブルに置いた。
「シラを切る事情はわかるけど、そういう面倒臭いのはイヤなの。腹を割って話したいのよ、あなたとは」

この時点で、小夏はまだ腹を決めかねていた。彼女は何を根拠に、どこまで確信を得ているのだろうか? 自分の素直への想いについて――。カマをかけられているだけだとしたら、たまったものではない。
「この間のことで、そう思ってるんですか? それは、あんなところを見てしまったら、その、男として、当然の反応というか……」
「バカね。それだけのわけないでしょ。あなたのあの子に対する口の利き方、接し方、あの子を見つめる眼差し……その全てでバレバレよ、私の目にはね」

そうではないかと、小夏も内心思ってはいた。彼女にそのことを勘付かれている節を彼自身うすうす感じ取ってはいたのだ。
「……あの子はまるで気付いてないけどね。そういうとこ、あの子、ホント鈍いから。まだ自分が誰かを好きなったことがないもんだから、自分に向けられるそういう目に、まるで無頓着なのよね……」
「………」
「どうしてもしらばっくれようっていうなら、どうしようかな? これからあなたのことは、私も『小夏くん』って呼ぶことにしようかしら?」
半目になった顔を近寄せた星奈が、からかうように口にする。
「小夏く~ん、前髪、カットしてもらえる? 小夏く~ん?」

「ああ、もう、わかりましたよ……」
小夏は観念した。星奈に「小夏くん」呼ばわりだけはしてもらいたくなかった。それ以前に、星奈にははっきりと自分の気持ちを悟られており、どんなに誤魔化しても無駄だとわかった。
「好きですよ、素直ちゃんのことは。でも、後生ですから、どうか他言無用でお願いします……」

星奈はニッコリと機嫌の良い表情を見せた。
「それでいいのよ。安心して、私はこれでも、約束は守る女よ」


●小夏、己れに課したタブーを語ること――

「小夏っチャンって、ホントにあの子の水着は見ないの?」
星奈は小夏に、あらためて驚きの疑問をぶつけた。
「見ません! その手の仕事は、やめてほしいと思ってます。いまは18歳になりましたけど、ついこの間まで彼女は未成年の女の子だったんですよ? なのにあんな恰好をさせられて、可哀そうじゃないですか!」
 

[作者コメント]
沢合素直の生年月日は1963年7月24日。もちろん、リアル河合奈保子さんのそれに同じです。


「ファンはいい、赦せます。いやらしい気持ちがあっても、それは彼女を好きだという気持ちの一部だから。彼女もファンに向けて、あんな格好をしている。でも、こういうメディアに出るというのは――」
星奈がテーブルに置いた雑誌に、小夏は視線を向けた。
「そうじゃない、それより遥かに多くの、ただいやらしいだけの、好奇の目線に晒されるわけじゃないですか? 大勢の、万単位の男達の、眼で犯されるんですよ? そう思ったら、可哀そうで、不憫でならない……。こんなビジネスは、この業界から無くすべきだと思ってます」

「ふーん、あなたはそう考えるんだ……」
考え深げに星奈は云った。
「でも、それはエロオヤジ連中に見られるのがイヤなだけで、あなた自身は見たいわけでしょ? あの子の――沢合素直の水着を」
星奈の眼が細まる。どんな欺瞞も赦さないという彼女の目線だった。

「そりゃ見たいですよ! 正直、見たくってしょうがない!」
小夏の答えは率直だった。一度心を開いてしまえば、これまで誰にも云えずしまい込んでいた思いのたけは、奔流となって止めることができなかった。星奈に自分の気持ちを「白状」したのはやむを得ない成り行きだったが、それだけでは決してなかった。彼もまた彼自身意識しない心の深層では、自分の気持ちを誰かと分かち合いたくて、ウズウズしていたのである。

「ぼくのそばに悪魔がやってきて、囁くんです。こっそり見たってわかりゃしない。黙っておけばいい。愉しもうぜ――って」
両手で顔を覆って、小夏は続けた。
「でも、見てしまったら、ぜったい、それだけではおさまらない……。いやらしい、性欲の処理をせずにはいられない……」

「アイドルのファンは――というより、誰かを好きになったら、誰もがしていることよ? それにあなただって云ったじゃない? ファンのそれは赦せるって」
「ぼくは彼女の髪を触っているんですよ? 裏でこっそりいやらしいことをして、表で何食わぬすまし顔で彼女の髪に触れるなんて、ぜったいできません!」

「呆れるぐらいピュアね、小夏っチャンって」
憐れむように、星奈は苦笑した。
「この局に限っても、そういうことをしてる男は大勢いるわよ? ディレクターにAD、カメラマン、音声、照明、エトセトラ……。生のあの子に接する機会のある多くの男が、あの子をオナペットにしているでしょうね。彼女のグラビア、テレビの水泳大会の彼女を見ながら、生のあの子の記憶を重ねて、膨らんだペニスをいじって精を排泄している……。自分だけ、誠実に我慢をする必要はないんじゃない?」
「……そいつら、全員ぶん殴ってやりたい……」
絞り出すように小夏は口にした。その言葉には、真実本物の憎悪が籠っていた。
「万一、そいつが誰だかわかっても、絶対ぼくには教えないでください……。殴らずにいられる自信がない……」
ケラケラと星奈は笑った。
「おもしろーいッ、小夏っチャンって、おもしろい! サイコー!」
 

[作者コメント]
「昭和」のアイドルシーンの特色のひとつに、「芸能人水泳大会」があります。テレビのブラウン管(>昭和的表現)に映る水着姿のアイドル達の放つ色香は、カメラの前でポージングしているグラビアのそれとは、まるで異なっていました。なんというか「なまめかしい」のです。その点で格別でした。グラビアが調理された料理だとすれば、水泳大会は生の食材……。まな板の上でピチピチ跳ねる活魚のような……。グラビアが非・現実なら、それよりずっと現実に近い、生々しさを感じるのだと思います。
水着で騎馬戦をしたり、水着で歌を歌うのです。思えば、無茶苦茶な時代でした。出場するアイドルには、未成年の女の子もいました。奈保子さんもそのひとりでした。ビキニで人前で歌っていました。そんな時代の芸能界を彼女も生き抜いてきたのです。

 


●星奈、芸能界の人権問題を語ること――

「事ここに及んで、小夏っチャンの選択肢は二つね」
杉村星奈は相原小夏に向かって云った。
「ひとつはこのまま一ファン、一ヘアメイクとしてストイックに、プラトニックにあの子との関係を維持し続けていくか。もうひとつは――云わなくてもわかるわよね?」
「わかりませんよ。どうしろって云うんです?」
小夏にはわからなかった。彼には、その一択しかなかったのである。
「バカなの――? 沢合素直をものにして、正式な『男』になるってことよ。それしかないじゃない」

「……それこそバカですよ」
小夏は反論した。それが間違いであったことを彼はすぐに思い知ることになる。
「ぼくはこの局出入りの業者の、しがない下っ端ヘアメイクに過ぎないんですよ? 彼女がどう思うかなんていう、それ以前の問題です。アイドルにちょっかいを出そうものなら最後、即路頭に迷うだけですよ」
「もちろん、あなたは独立するのよ。あなたは世界的ヘアメイクアップアーティストして、沢合素直を妻に娶る――」

「……そこまで誇大妄想狂じゃありませんよ。身の程はわきまえています」
「つまんない男ね? それぐらいの夢が見れないの? いますぐにとは云ってないわ。五年後、十年後を見据えた大望、野望の話よ」
「………」
この種の「カリスマ」はいる。彼・彼女らは自らの成功体験を基準にして、ものを云う。曰く「人生は勝負だ」、「リスクを犯さねば、成功は得られない」などと――。だが、彼・彼女ら「成功者」の言葉を真に受けた凡夫たちが、どれだけ勝ち目のないリスクに身を投じて、そのまま「身投げ」になったか知れない。彼・彼女らが、そうした犠牲に一切責任を負うことはない。彼・彼女らは確かに魅力的だが、同時に無責任でもあるのだ……。

「あなたの考えてること、わかるわよ?」
小夏の内心を見透かしたように星奈は云った。
「顔に出るのよ、そういうとこ、小夏っチャンは。それはあなたが『いいひと』であることの証だけど、この世界では『欠点』よ? 覚えておいて」
「………」
年上――人生の先輩であり、業界の先輩でもある小夏に、星奈は超のつく上から目線でものを云った。もとより小夏は他人からナメられがちな人間ではあったが、それ以上に彼女はこういう性格なのだった。

「どうせつまらない、『カタギの正論』でも考えてたんでしょ? いい? これだけは覚えておくのね。あなたはカタギじゃないし、カタギの世界にいるのでもない。あなたが生きているのは、仕事をして報酬を得ているのは、《この世界》なのよ……!? 勝つか負けるか、生きるか死ぬか、弱肉強食の、人権も労働基準法もへったくれもない、狂ったヤクザな《この世界》に。
あの子を欲しいなら、まっしぐらに突き進みなさいよ!? いまの自分には無理でも、いつかそうなってやる――せめて、そのぐらいの気概は見せたらどう? 云うでしょ? 『横綱を目指さない力士は、十両にもなれない』――って。あなたがチマチマした小物として世渡りをする覚悟しかないなら、十年後、あなたは《この世界》に生き残ってはいなわよ?」
星奈はまさに、小夏の「図星」を突いたのだった。
「わきまえるべきは、身の程じゃない。自分がいま、《まっとうな社会の枠外》にいるのだという事実よ」

「感心しませんね」
年下の彼女に圧倒され、魅了され、感化されかけている自分がいた。
「《まっとうな社会の枠外》だなんていう、自らアウトローであることを是認する発言は」
しかしその一方で、どうしても肯んじることのできないことがあった。

「確かにこの業界が、世間とはかけ離れた、常識外れの、異常な世界であることは事実です。だからって、それをこの世界の当たり前にすべきじゃない。この世界も社会の一部であって、だからこそ、おかしなところは、正さなければならない。いますぐには無理でも、時間がかかっても。ぼくたちは、そのために努力すべきではないんですか?」
「それで、年端もいかない女の子を水着にさせるようなビジネスはやめろというわけね」
「その通りです!」
「しゃら臭いワイドショーのコメンテーターが云いそうな『正論』ね。あなたのこと嫌いになりそう」
「構いませんよ。お好きにどうぞ」
「禁止にする必要があるの? 別にイヤならやんなきゃいいだけの話よ。現に私はそうしてる。水着にはならない。真っ平よ。私は歌を歌いにこの世界に来たのであって、みんなのオナペットになるためじゃない」
「そりゃ、あなたはいいですよ! あなたは『スター』で、そうやって自分の意志を通すことができるんだ。でも、他の大勢のアイドルたちはそうじゃない。事務所の命令には逆らえない。あなたの云ってることは、いじめられっ子に『強くなれ』と云ってる喧嘩自慢と変わりませんよ!」

「事務所とタレントの力関係って、何で決まると思う?」
星奈は質問で返し、その返答を待たず続けて云った。
「『お前の代わりなんていくらでもいる』と云われるか、『君に辞めてもらっては困る』と懇願されるか。そこで、両者の力関係は逆転する――」
小夏に二の句を継がせず、星奈は続ける。
「『水着になれ』と事務所が云う。『イヤなら辞めろ』と向こうに云われて逆らえないか、『なら辞める』とこちらが云えて向こうが折れるか、その差よね。要は――」
星奈は自分の胸を握った拳で軽く叩いてみせた。
「自分という存在が、どれだけ『お金』になるか。それが自分の『力』――。より『力』のある者が『強い』ということ。強くなればいいし、強くなるしかない。そうすることでしか、自分の道は切り開けないのよ」

「話しにならない! 文字通り話しになってない! あなたのことは聞いてないし、問題にもしていない。問題は、そうはなれない人をどうやって救えるかということじゃないですか!?」
「――で、元のしゃら臭いワイドショー的正論に戻るわけね」
星奈は大仰にシュラッグしてみせた。
「じゃあ訊くけど、仮に水着を禁止して、仮にそれができたとして、それでどうなるの? ちょっと可愛いだけで、歌はヘタクソ、芝居は大根。そんな女が、いったい何を『売り』にお金を稼ぐっていうの? そんな女が曲りなりにも『アイドルです』ってプロ面をして、ヘタクソな歌や大根芝居を披露してられるのは何故? 水着にでもなって、人気とお金を稼いでいられるからでしょ? そこの部分で、商品価値を認めてもらえるからでしょ? それを封じてしまえば、彼女たちの商品価値は無くなり、廃業に追い込まれるのが関の山……。あなたは彼女たちの味方をしているつもりなんでしょうけど、その実彼女たちの活躍の場を奪い、首を絞め、彼女たちの夢や野心をぶち壊している……。そういうの、なんて云うか知ってる? 『偽善』って云うのよ」

「………」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。小夏は星奈の論客ぶりに圧倒され、押し黙るしかできなかった。
「水着がイヤなら、それに替わる『売り』が自分になきゃしょうがないじゃない。……才能ありません。実力ありません。それでもアイドルやりたいです。でも、水着にはなりたくありません。……甘ったれんなって話よ。人並みに人権保証してほしかったら、こんな世界からはとっとと足を洗って、おとなしくカタギの世界でクッキーでも焼いてりゃいいのよ。
この世界はね、社会の中にある『異世界』なの。異形のモンスターが跋扈するジャングル、それが芸能界……。そんなイカれて異常な弱肉強食のこの世界で、いったい誰が自分の尊厳を守ってくれるの? どうやって守るの? 誰も守ってなんかくれない。自分を守れるのは自分だけ。それは自分の『力』によってしかないのよ」

「なぜですか? あなたは無力なアイドルじゃない。あなたはスターで、『力』がある。その『力』を芸能界の正常化に、虐げられたアイドルを救うために、使おうとは思わないんですか……?」
「悪いけど、そういうのは、他を当たってくれる?」
星奈の答えはにべもなかった。
彼女は掌を眼の高さまで持ち上げ、ぎゅっと握り締めた。
「私はこのイカれた世界の女王になる」
見えない何かを掴むように。
「そのことにしか興味はない!」

「だから、素直ちゃんには――」
小夏の眼が、真剣な光で光った。
「沢合素直には、水着になってろって云うんですか――?」

「本気で云ってるの?」
星奈の眼からも、冗談とからかいの光が失せた。それに替わって宿ったのは、真剣な怒りだった。
「それでもファン? あの子が事務所に強要されてるとでも? あんまりナメないでもらえる? 沢合素直を!」


●素直、星奈の頬をぶつこと――

「あんたの目は何を見ているの? あんたの耳は何を聴いてるの? あんたの顔についてるそれは何? ただの穴? ファンなんでしょ? 好きなんでしょ? 好きならあの子の実力ぐらい、しっかり見極めなさいよ!」
(――!)
(あなたはそこまで、素直ちゃんのことを――)
認めていたんですか――!?
その言葉を小夏は口に出せなかった。唖然とし、驚きのあまり、ただ押し黙ることしかできずにいた。

「あの子は、歌一本でやっていける――」
その見解は、はからずも素直のマネージャー・三枝薫のそれにピタリ一致していた。
『「スマイル・フォー・ミー」創作ノート(2)』参照
「水着になんて、なる必要はない……。お金に困ってるわけでも、まさか見せたがりでもあるまいし……。それがわからないし、歯痒くてしょうがない……。しかも、それを大のファンがわかってない!」
星奈はキッと小夏を睨みつけた。

「『水着は見ない』なんて純真ぶったことを云ってるくせに、結局中身はそこいらのファンと変らないのね……。あの子の外見的な可愛いさにやに下がって、大っきな胸に股間を膨らませているだけの」
「………」
小夏は否定できなかった。
それは、一面の事実だった。
不埒な妄想で股間を膨張させたまま、彼はそれを隠して彼女の髪に触れたのだ。
そのことをおくびにも出さず、紳士面をして。にこやかに会話すら交わしながら――。
(それは元はと云えば、星奈の素直に対する不埒な悪戯が原因だったのだが……)

「あの子のファンって、みんなそんな感じ――?」
いま、星奈は荒れている。やや、常軌を逸していた。まさに「どうかして」いたのだ。
理性の抑制が外れ、昂る感情がオーバーランを起こしている。そんな時には、思ってもいないことまで口走ってしまうものだ。
小夏が黙ってしまったことも一因ではある。
星奈の素直を認める真剣な想いに、心底驚いてしまったことが一つ。もちろん小夏も、素直の歌唱力が星奈に引けを取らないことはよく知っている。だからこれは、単なる「言葉の行き違い」に過ぎないとも云えた。
二つ目は、星奈の指摘に云い返せない引け目が、自責の念があったことだ。

結果として、その不幸な重なりが、星奈を突っ走らせた。
「かわいいかわいい、水着ボインの素直ちゃん! そんなに彼女にみんなが夢中! 上の口からも下の口からもヨダレをたらして! あの子のファンなんて、どいつもこいつもそんなエロ餓鬼! そんな性欲猿連中相手にせいぜいお色気振りまいて、人気のオナペットとして人気者になって、24時間365日、今朝も今夜も昨日も今日もまた明日も、みんなのオカズにされてりゃいいのよ――」
言葉の重複にも気がつかない。それほどに、彼女はキレていた。

(――!)
小夏の眼が、見開いていた――。何かに驚愕しているように。
その視線が、正面の自分自身にではなく、背後の鏡の一点に注がれていることに、星奈も気付いた。

正面の小夏がちょうど壁となって、隠れていたこともある。だが、それよりも感情が昂るあまり普通なら気付いたはずのドアの開閉にも、彼女は気が付かなかったのである。

小夏をはさんで星奈と正面向き合う恰好で、ドアの前に立つ、沢合素直がいた。

「役者が揃ったじゃない?」
にこやかに星奈が口にした。
「ようこそ! 我らが国民的オナペットアイドル、沢合素直さんのご登場よ?」

素直の顔には、何の表情も浮かんでいない。笑みはもちろん、怒りも、悲しみさえも。星奈の言葉を聞いても、そのデスマスクのような無表情に変化はなかった。
急がず、ゆっくりでもなく、ごく普通に素直は星奈に歩み寄る。

素直は星奈の正面に立った。ふたりの背丈は、ほぼ同じである。
次の瞬間、振り上げた素直の掌が、星奈の頬を鳴らした。

破裂するような、肉が肉を撃つ音が、メイクルームにこだました。

(つづく)

 

あとがき

ようやく、ここまで漕ぎ着けました。
硬い硬い岩盤を掘り抜き、トンネル工事の先が見通せるところまで来た、そんな心境です。
星奈と小夏の議論は白熱する。でも、それがあらぬ方向に進む。
ワタシは映画監督のように、それに「NG」を出す。ふたりは議論をやり直す。その繰り返しでした。
ここにこうして発表した、その何倍の文字数を費やしたことか。

そんな苦労話など、自慢げにすることではありませんね。
一冊の本の背後には、クシャクシャに丸めて棄てられた原稿用紙の山がある。(>昭和的表現) 創作とは、もとよりそうした営みなのですから。

自画自賛するようでまことにみっともない限りですが、苦労した甲斐あって、ワタシにしては上々の仕上がりです。一方を悪者にするのでない、共感も好感ももてる者同士が真っ向ぶつかり合う好勝負は、もろワタシの好みです。ワタシ自身が最初の読者として愉しんでしまいました。


書き進めるうちに相原小夏というキャラが、どんどん「浄化」されていくのを感じていました。
当初の構想では、作品世界に投影させた作者自身――という位置付けのキャラが彼でした。(お読みの皆さんにはとうにお見通し、バレバレだと思いますが、彼の女性のような名前はそのためです) ですが、どんどんそこから離脱していきました。ワタシは彼ほど純真ではありません。

逆に自己投影度の高さで台頭してきたのが、星奈です。ワタシは彼女を依り代にして、素直ちゃんにあんなことをしていたんですね……。職権乱用ですね。また作者の良心として云っておかねばなりませんが、彼女のいささか「ブラック」な芸能界観がカッコ良く、シビレてしまうのは、彼女が当事者でありプレーヤーであるからです。彼女のような人が実力者功労者としてその世界に君臨するようになると、過剰に「ブラック」な世界になる……。企業でも、スポーツ界でも、よくある話です。なので小夏のような視線、介入は不可欠です。これは余談です。

そして自己投影度がほとんどゼロなのが、ヒロインの素直ちゃんです。自己投影度を不等号で示すとこうなります。
星奈>>小夏>>>>>>素直

こんな子を主役に、よく物語が書けたなと思います。何かの“力”、何かの“助け”が自分の身に降りたのだろうと思います。これもまた、ありふれた「創作あるある」です。

恒例の多摩市・カナメさんからのリクエストは、河合奈保子『けんかをやめて』。
今回はなんといってもこれでしょう。自分がけんかしてるのに!? いえ、これは読者の気持ちです。
ここまでの星奈と小夏の衝突は、あくまで前座。次回はいよいよメインイベント。「事故」前パートのクライマックス、星奈VS素直のゴングが鳴らされます。なるべく早いうちにお届けしたいと思っております。うちの素直をよろしくお願いします。

 


2024.03.05 一部変更