●素直、小夏に関西弁を披露すること――(&小夏の名前の秘密)

ここで割り込んで、エピソードをひとつ挿入する。
さらに小夏と素直の関係には、ある特殊な事情が加わっていた。
素直の妹の名前が、同じ「小夏」であったことだ。

場面は約一年前(1980年)、彼が素直の担当になったばかりの頃に遡る。
素直は彼のファーストネームが、自分の妹と同じであることに驚き、よろこび、彼を「小夏くん」と呼ぶようになった。他のみながそう呼ぶように「小夏っチャン」(=「こなつちゃん」)では、妹と混乱が生じ、区別する必要があったからである。素直にそう呼ばれることには、秘かな喜びが小夏にはあった。彼女から「特別扱い」をされている気がしたからだ。

「ひとつ、訊いていい?」
いつものように髪をセットしてもらいながら、鏡に映る小夏に向かって素直は云った。
「うん?」
「小夏くんって、どうしてその名前になったの……?」
「………」
「ごめんなさい……。もしかして、気に障った?」
「いや……やっぱり、気になるよね? どう見ても、女性の名前だもんね。……つまらない話なんだけどさ――」

仔細はこうだ。小夏の父親は、娘が欲しかった。実際、妻からは「女の子」だと聞かされており、名前は初めから「小夏」と決めていた。ところが生まれてきたのは、男の子だった。腹を立てた父親は、そのまま「小夏」で役所に届けを出したのである。
のちに判明するのだが、妻(小夏の母親)は身ごもった子の性別を偽って夫に告げていた。それは夫に対する妻の「復讐」であった。
父親は不倫をしていた。「小夏」とは、その不倫相手の小料理屋の女将の名前だったのである。その小料理屋の女将は、小夏の父親から金を貢がせるだけ貢がせておいて、小料理屋の店舗とともに彼の前から姿を消したのだったが。

「それで、お母さまは、反対しなかったの……?」
「離婚したんだ。ぼくを産んですぐにね。知ったこっちゃないってことだよね。写真は見たけど、会ったことはないよ。いまどこでどうしてるのかも。生きているのか死んでいるのかもね……」

中性的でおとなし気な彼の外見からは想像もつかない、小夏の波乱の生い立ちだった。素直は驚き、そして踏み込んではならない他人の領域に、興味本位で立ち入ってしまったことを痛く後悔した。

「ごめんなさい……」
素直は涙ぐんでいた。
「辛いこと、訊いてしまって……」
「全然! 気にしないで」
つとめて明るく、小夏は云った。それに、むしろ嬉しかったのだ。彼女が自分のために、涙まで浮かべてくれたことが。
「平気だよ。だから、話したんだ。この名前のせいで、ずいぶん馬鹿にされたし、からかわれたし、親父を怨んだりもしたけど、もう昔の話だよ……」

「いまは……?」
「気に入ってるよ。この仕事にも都合がいいんだ、男臭くないのは。さすがに『相原権蔵(ゴンゾウ)』じゃ、女性タレントさんも髪をまかせたくないだろうしね」
(それに――)
(素直ちゃんが、「小夏くん」って呼んでくれるから……)
その言葉をどうしても、彼は口にすることができなかった。

「妹さんは元気? 名前が同じだと、なんか親近感わいちゃって。会ったこともないのに……」
代わりに口をついて出たのは、まったく関係のないことだった。
「うん、元気。つい長電話しちゃって、電話代が大変なの。この間も、お母さんに『破産させる気!?』って怒られちゃった」

念のために解説しておく。この時代、電話は「固定電話」しかなかった。当然、スカイプもLINE電話もない。遠距離のコミュニケーションには、時間のかかる手紙か、お金のかかる固定電話による通話しかなかったのである。

「ご実家は大阪だよね? 大阪弁で話すの? そりゃそうだよね。……でも、なんか信じらんないな。素直ちゃんが大阪弁って、そんなイメージがまるで湧かなくて……」

「そう? そんなことあれへんよ?」
素直は悪戯っぽく、そう話してみせた。
「うち、向こうに帰ったら、むっちゃ大阪弁で話すで? 決まってるやんか。向こうで生まれて育ったんやし」

素直はネイティブの関西人だが、それでも地元でも自分のことを「うち」などという一人称で呼ぶことはない。サービス精神で「コテコテ」な訛りを演じてみせているのである。

(かわいい……)
危うく、実際にそう口に出すところだった。
「いいよ、それ。すごく、新鮮で……。ずっと、それでいけばいいのに?」
「ええーっ!? そそのかさないで、その気になっちゃいそう。薫さんに怒られちゃう」

この時代、地方出身者はみな、訛りを「標準語」に矯正させられた。関西のお笑い芸人などの一部例外を除いて、訛りをそのままに全国区で活躍することは許されなかった。そういう時代だったのである。

「小夏くんの名前、わたしは好きよ――」
彼の辛い過去に無神経に触れてしまったことに詫びたい気持ちもあって、素直はそう口にした。
小夏の心臓はそのパワーワードにドキリと跳ね上がったが、あくまで「名前」に対してなのだと思い直した。

「大阪(むこう)に妹がいて、東京(こっち)に同じ名前のお兄ちゃんがいるみたいで嬉しいのもあるけど、それだけじゃなくて、小夏くんにはその名前がピッタリだと思う。ほかの名前は考えられない。『権蔵』さんは、やっぱりないと思う」
クスリと笑って素直が云った。
「小夏くんって、とっても、その、かわいいから……。ごめんなさい。年上の男の人に、『かわいい』だなんて……」

「いや、全然……」
一瞬間が空いたのは、とっさに彼は返せなかったからだ。
「素直ちゃんにそう云われて、悪い気なんてしないよ……」

鏡に映る素直の笑顔がさらに相まって、小夏の胸は、温かいもので満ちた。
名前では苦労してきた。傷つき、嫌な思いもした。そんなコンプレックスに塗れた自分の過去が、この瞬間、素直のたったひと言で報われ、洗い流された想いがした。
小夏はこの時、人生の至福を味わったのである……。


●小夏、腹痛にのたうつこと――

そして時間と場面は元の1981年、物語上の「現在」に戻る。星奈が退場したNKHメイクルームへと。

「小夏くん、わたし、変な顔してた?」
「え――?」
「わたし、さっきは眼を開けられなかったから……。星奈さんが云ってたみたいに、わたし、そんなに変な顔してたのかな……? 小夏くん、見なかった?」

「いや、どうだったかな……素直ちゃんの顔までは、よく見てなかったから……」
「……そう? なら、よかった。恥ずかしいとこ、見られなくて」

(ごめん……)
罪悪感で胸が疼いた。ウソをついたからである。
本当は、見た。それも、ハッキリと。
メイクルームの壁一面の鏡に映った素直の表情。豊かな胸を星奈に悪戯されている、その時の彼女の悩ましい表情(かお)を。

苦しそうな、泣いているような、しかし本当は悦んでいる顔。それはまさに、ベッドの上で愛され、乱れ、狂っている女の表情(かお)そのものだったのである。
それは一糸まとわぬ裸体でもつれ合い、両の掌で彼女の柔肌の感触を思うさま味わい、その指で、唇で、舌で、彼女を愛撫し、それによって切ない、可愛らしい声をあげて反応している素直の生々しいイメージを小夏に想起させずにはおかなかった。

星奈に指摘されて、小夏はシャツをズボンの外に出して、その部分を隠していた。そうしなければ、彼の下半身の変調は、星奈ならずとも誰の目にも明らかだったろう。いまや彼の男性器官は、はち切れんばかりに膨張を遂げていたのだ。

神に誓って、小夏は素直のことを自慰行為の種にしたことはない。だが、そうしようと思えば、彼の脳裏に焼き付いた彼女のその表情(かお)を思い浮かべるだけで、何のビデオも写真の助けも借りず、何度でも果てることができただろう。

「すっかり遅くなっちゃったね。急がないと。始めようか……」
気まずさを紛らわすように、彼はヘアメイクの開始を促した。
「はい……」
(――!)
そう云って椅子に腰かけた彼女を背後の上から覗き見る格好で、見てはいけないものを見てしまった。
いつもなら、目線と意識を他に逸らすのだが、いまの彼には刺激が強すぎた。
彼は彼女の上着の裾からのぞく、素直の「胸の谷間」を直視してしまったのである。

フラフラと小夏は後ずさりし、眉間を指で押さえた。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
椅子から立ち上がって、彼のそばに寄る。
「顔、赤いよ? 熱でもあるんじゃ――?」
小夏の額に、素直は指で触れる。

(――!)
小夏をさらなる戦慄が追い打ちをかけた。素直のひんやりと冷たい、ぽってりとした指の感触の、そのあまりのやわらかさにである。

指でこんなにやわらかいのなら、彼女の身体はいったい、どれほどやわらかいのだろう――?
そのとき小夏が覚えたのは、言葉にすればそんな感覚であった。
それは荒波が岩にぶつかる波濤のしぶきに似た、欲情の昂りそのものだった。
抱き締めたい――。
一糸まとわぬ裸体同士で――。
そして、彼女の一番やわらかい部分を、自分の一番硬くなった部分で貫きたい――。

「うーん、熱はないかな……?」
そんな小夏のひそかな懊悩も知らず、素直は自分の額の体温と比べ、能天気にそんなことを云っている。
「働き過ぎなんじゃない? 無理しないで、休んだほうがいいよ?」

「働き過ぎは素直ちゃんのほうだよ。休みもないんでしょ?」
「そうなの! お休みほしいなぁ、一日でいいから。ショッピングに行きたい! 薫さんは、欲しいものがあれば買ってあげるって云ってくれるけど、そうじゃないの。いろんなお店に行って、いろんなものを見て歩いて、そういうのをしたいんだけどな……」
小夏の言葉につられて、素直は日頃の鬱積を吐露した。小夏への心配を一瞬押しのけてしまうほど、それは彼女の中で溜まりに溜まっていたのである。

素直らアイドルの実情を知ってはいた。だが、こうして当事者の口から直接聞くと、あらためて胸が締めつけられる想いがした。この年頃の女の子が、当たり前に享受している「青春」の全てを犠牲にして、彼女たちは「アイドル」であることにつとめているのだと。
それでも、股間の膨張はいっかな収まる気配をみせなかったのだが……。

 

[作者コメント]
アイドル時代の河合奈保子の仕事の過酷さは、エッセイ『わたぼうし翔んだ』からも伺えます。実際、休みらしい休みもなかったようです。このくだりを読んだときは、泣きそうになりました。

神様ってイジワルですね。
私は、たった一日のお休みが欲しかっただけなのに……

 


(最低だ……)
ヘアメイクを終えた素直が退室した部屋でひとり、小夏は自己嫌悪に苛まれていた。
彼はあれから、にこやかに素直と会話を交わし、彼女の髪をセットしたのだ。
シャツで隠したズボンの下で、股間を膨張させながら……。
(ケダモノだ、おれは……)
こんな自分の本当の姿を知ったら、彼女は深く自分を軽蔑し、嫌悪し、汚いものでも見るように、自分の前から去ってゆくだろう。
(薫さん、ヘアメイクの担当替えて! あの人、いやらしい目でわたしのこと見てるの!)

(お前もおれの「一部」なら、少しはおれの云うことを聞けよ!)
小夏は一向に膨張したままの自分の股間を拳で殴りつけるのだった――。

   ◆

「あら、小夏っチャン? どうしたの? なにか悪いものでも食べた?」

しばらくして、某大物女優がメイクルームの扉を開けたとき、そこに青い顔でお腹を抱えて床にうずくまる小夏の姿があったことは云うまでもない。


時は1981年8月某日。
――運命の「事故」まで、あと約2か月。

(つづく)
 

次回予報&あとがき

殴り返すのはいいから、そのかわり私の云うことを聞いて。これは私の、心からの忠告――。
歌でスターになりたかったら、水着はやめなさい。


星奈は素直に向かって豪語する。嫌われたっていい。私のことは嫌いだという人が、私の「歌」は好きだという。それでいい。それが100万(ミリオン)のヒットを生むのだと――。
当代のスターが語る、圧倒的な正論。素直は静かに、しかし決然と「否」を唱える。
星奈と素直、アイドルとして、人として、互いの意志と信念を懸け、ふたりの「魂」がぶつかり合う!
これは創作の名を借りた、作者の≪河合奈保子論≫なのか? 「事故」前の日常パートは、ここに佳境を迎える。

執筆はこれからです。ゆえに予告ではなく「予報」です。自分でハードル上げてます。つくづく、えらいもんに手を出したと思います。公開まで、しばらくお時間をください。

多摩市・カナメさんからのリクエストは、河合奈保子『夏のヒロイン』。
この歌の衣装は基本ミニスカートなのですが、そこから伸びるおみ足の眩しいこと……。奈保子ちゃんの太ももが、ほんとうに「太いもも」でね。ごめんなさいね、ほめてますよ? 魅惑のむっちむち……。これでステップなんか踏まれた日にはもう……。この破壊力!? この殺傷力!? これぞ「悩殺」ですよ。
ワタシも奈保子ファンのハシクレとして、彼女のバストには、水着には、そこそこ耐性を身に付けているつもりでいました。しかし、ワタシは思い上がっていました。まさか、こんな部位による攻撃があるだなんて!? 頭部のガードを固めていたら、重いローキックを入れられてKO(ノックアウト)された気分です。
彼女の必殺の武器は、上半身だけではありませんよ。

極めつけが、82年の紅白のステージです。DVDで見ました。最初はドレスっぽい出で立ちだったのに、あっと驚く早業で、上はノースリーブ、下はホットパンツという、ほとんどNHKの限界ギリギリではないかという高露出の衣装にチェンジするんですよ。
 

 

これを見たとき、恥ずかしい話ですが、小夏くんと同じ状態になってしまいました。……情けないです。お前、幾つよ? という話です。五十も過ぎて、まだ、そんな眼で奈保子ちゃんを見ているのか!? ……しかし、その一方で、「おれはまだ、奈保子でこうなれる」という、ちょっぴり嬉しい気持ちもあり。五十過ぎの男心は複雑です。

でも、これは奈保子ちゃんもいけないと思いますよ? 年末に、なんて恰好してるんですか!?
「お父さん、年越しそばできたから運んで」
「……ああ、うん。ちょっと、待って……」
82年の大晦日、全国のどれだけの家庭で、こんなふうにお父さん、お兄さんを気まずい前かがみにさせたことでしょうか? こうした事態が、きっとあちこちであったと思いますよ。確かにワタシはいやらしいド助平ですが、それでも奈保子ちゃんの太ももでコーフンしてる、日本でただ一人の男だなどという、そこまで思い上がってはおりません。ワタシの反応、感じ方には、ある程度の普遍性があると思っています。

何が云いたいかというと、こんなワタシをどうか赦してくださいということです。こんなワタシですが、それでも真剣に、本当に大好きなんです。奈保子さんのことが。そのことに免じて、どうか。
ピュアな愛情と、ヨコシマな情欲は、一対で一体のペアなのです。真実愛する女性に対して、男ってやつは、そういう目を向けてしまうものなのです。
小夏くんもしかり。彼をケダモノと云うのなら、全ての男はケダモノでしょう。
世の一般男性の平均値よりも、ワタシはほんのちょっとだけ、いやらしさにおいて秀でているかもしれませんが……。
 

 

2023.11.13 全面にわたる微細な変更
2023.11.28 一部変更