(1)過去の反省と近頃の話題
ワタシはかつて、平井和正という作家を作品だけでなく人格込みでカリスマ的に心酔した挙句、自分勝手に押しつけた理想像が崩れたというので、強い言葉で彼を非難した過去をもちます。早い話、イタくてヤバい、ビリーバー(信者)でした。
若く、愚かで、そして罪深い行為であったと思います。
作家であれ、芸能人であれ、表現者の「表の活動」は、その人のごく一部の「上澄み」の部分でしかありません。そこがいかに素晴らしいからといって、その人のさらにその「奥」を知ってしまうと、ガッカリするどころか、怒りや悲しみ、さらには憎しみにまで発展してしまうことになりかねません。
恋人でいるときはラブラブだったのに、結婚すると罵り合うようになる。そんなカップルに似ています。ダメなところも、みっともないところも、諦め、赦し、受け容れるぐらいでなければ、「伴侶」にはなれません。
そうなることが理想で、最高なのではなく、それぞれの関係には、それぞれの関係に応じた最適の距離感があるということです。
適度な距離感を保ち、「上澄み」の部分だけ見ていれば、いつまでも幸せでいられたのに……。もっと知りたい。もっと近づきたい。そうすれば、もっと幸せになれる。――そう思い、そうしてしまい、そして苦い失意を味わう。それが若さというものです。
ネットという環境は、脊髄反射的な感情をつい口走ってしまいやすく、「失言」の温床になりがちです。
ネットといえど公共の場所には違いなく、そこでの言動もまたパブリックなものであり、ギャラのあるなしを問わず、甘えた、弛緩した態度は赦されない。――それは確かにその通りなのですが、それは当事者自らが己れに課す戒めであって、他人が要求し押し付けるものではありません。
ネットは他のマスメディアに比べ、ずっとプライベートなノリになりやすく、「上澄み」のさらに奥の領域を晒してしまいがちです。だから、そんな部分は見たくない、見てはいけない人間は、踏み込んではならないのです。
Xのフォローを外しましょう。なんならミュートしましょう。これは発進者側ではなく、受信者であるこちら側が心掛けるべき問題です。
完璧な人間はいない。表舞台では格好良くとも、それを24時間365日続けていられるわけもない。それを責める資格があるのは、完璧な人間だけです。ワタシにも、もちろんそんな資格はありません。
あなたにもこんな人間臭い、弱い部分があったんですね!? ファンならむしろ、それを見せてもらえたことを有難がれよ? それぐらいのこころの余裕をもてよ? そう、昔の自分には云って聞かせてやりたいです。
そしてこうも思い、バカバカしくなります。昔のワタシはなにをそんなに真剣に、大人げなく怒り狂っていたのかと。平井和正の「失言」など、いま思い返せば、かわいいもんじゃないか? 河合奈保子ぐらいかわいい。近頃の芸能界を賑わす、スキャンダルに比べれば。
――クスリの時は赦したが、今度という今度は愛想が尽きた。あんたのファンでいるのも今日限りだ。
「ファンの怒り」などというものは、これぐらいのレベルで発するものですよ。昔のワタシ、沸点低すぎ。
大物ミュージシャンNの話題は、わきに置きます。これからお話しするケースに比べ、レベルが違い過ぎます。
ここでは大物芸人Mの話題を取り上げます。
当の芸人もお気の毒です。あちらはうっかり口を(キーボードを)すべらせ、ネットでやらかしちゃったわけではありません。晒すつもりなどサラサラなく、隠していたことをわざわざバラされて、頼んでもいない、そんなものは見たくもないファンにまで見せつけられて、仕事を奪われ、職場を追われたわけですから。
週刊文春は、ワタシの「知りたくない権利」を侵害している!
だったら読むな? だったら買うな? 当ッたり前でしょう、読みませんよ、金を出してあちらの利益に与する真似などしませんよ。それでも文春砲が発射されると、マスコミ各艦も一斉に砲撃を始めるので、回避しようがないんですよ。雨の中、雨滴を躱して濡れずにいられるようなものです。そんなことはできません。
ワタシはこれを拡散文春砲と呼んでいます。バルゼー艦隊撃滅。怖い怖い。
なぎ倒したいわぁ、彗星帝国のように。
「学研」に「ムー」があるように、「文藝春秋」の「下世話担当」の「別班」が、「週刊文春」だと云えるかもしれません。「文藝春秋」社という後ろ盾、看板は、権威付けとして大いに役立っているはずです。電車で「実話ナックルズ」は読めないが「文春」なら堂々と読める、みたいな。やってることは大差ないと思うんですけどね。
このブログを読んで、思いつきました。以前にリブログしてもらったこともあるので、リンクさせていただきます。
彼にいま現在かかっているのは「性加害疑惑」です。「疑惑」なんですよ。ここはポイントですよ。
それでも彼は仕事をできなくなり、テレビからは姿を消しつつあります。
それは(「文春」との)裁判に専念するためであり、別に放送界から「映してはいけない」「M本、アウト」と沙汰が下されたわけではありません。彼の出演する撮り貯めのある番組では、いまも彼の姿が放映されています。しかし、もちろんこれは表向きの話。事実上、彼は干されたのであり、罰を受けたのです。まだ「疑惑」の段階であるにも関わらず。
それを云えば、Nとて同じこと。ひとりの女性タレントの告発に過ぎないわけですから。
これは論拠云々、一切関係なし。ごく個人的「私情」の話です。
「文春」は疑ってかかるが、待姉は信じる。それだけです。
なので「分別」として、名前は出しません。
(2)芸能人は河原乞食
「裏」の顔を知れば、「表」の顔も見たくなくなる。あんな人にナイトスクープの局長をやってほしくない――。そんな世間の反応は理解できます。
ワタシはそれとは正反対の意味合いで、彼があの番組の局長をつとめることには異議がありました。ガラじゃねーだろと。あんなハートフルな番組の。
万博のアンバサダーについては複雑ですよ。ガッカリというか、お似合いというか……。
「見損なった」と云うほど、あるいは逆に、彼を擁護したい余り「被害者」女性を責めるほど、ワタシも若くありません。
――ああ、知らなくてもいいことを知ってしまって、みんな不幸になっちゃったね。そう思うのです。
芸能人は特権階級ではないと思っています。むしろ、その逆です。華やかな身分最底辺の人々――。まさしく、河原乞食なのです。
ワタシはこう思います。お前らみたいなもんは、カタギの世界ではやっていかれへんやろ。せやから、カタギの世界では咎められる少々のことは大目に見てやる。そのかわり、その卓越した才能で、おれを愉しませてくれと。
だからこそ、仮にワタシに娘がいたとして、アイドルになりたい、芸能界に入りたい、などと云おうものなら、もちろん大反対します。あんな才能だけはある、逆に云えば才能しかない、クズ人間の巣窟、異形のモンスターが跋扈するジャングルに、大事な娘をやってなるものか。
カタギの世界とは対極の、ヤクザな世界です。
そんな世界に自ら望んで飛び込もうというからには、それなりの「才能」と「覚悟」がいるのです。
河合奈保子のような、本当に特別な人間だけが、日の当たる道を歩んでいけるんですよ。
その彼女だって口にはしていないだけで、女の子には辛過ぎる恥辱を味わったこと、悔し涙を流したことは、一度や二度ではなかっただろうと思いますよ。
ワタシは芸能界を浄化、正常化したいとは思いません。なぜなら、確実につまらなくなるからです。芸術性と変人性は、残念ながら少なからずリンクしているためです。
闇が深いからからこそ、輝きを放つ光も生まれる。全てを漂白してしまえば、光もまた漂白されてしまうでしょう。問題発言を承知で云えば、悪徳を孕んだままに、芸能界を「異世界」「聖域」として守りたい。それがワタシの利益だから。それがワタシの偽らざる本音です。
しかし、それはもはや通らないのが時代の趨勢。それもわかっています。
いまや大衆は演者に対し、「芸」そのものの有能さに増して、人としての「清潔感」をより重んじ、求めているからです。
M的芸人やタレントは、これからも退場を強いられ、その傾向は加速し、いかに抗おうとも、時代のうねりは止めようはないでしょう。マスコミを舞台とするタレントは公私ともども、自らの振る舞いを問われることになります。
この件も含め、このところの芸能スキャンダルを見ていて、連想する漫画の一幕があります。知らないひと、ごめんなさい。
日なたの者の介入を許した芸能界がどうなるのか? どうなってしまうのか? 固唾を飲んで見守りたいと思います。
ご覧のとおり古い男の昭和オヤジなワタシですが、それでも確実に時代の空気に感化は受けています。 昭和の河合奈保子のムックを読んで、本当に驚きましたもん。
――『別冊近代映画 河合奈保子特集号』より
――ここでお待ちかね、奈保子ちゃんに、エッチな質問ぶつけちゃいます! ズバリ、奈保子ちゃんのスリーサイズは???
こういう前置きすらないんですよ?(これでも今ではアウトですが) 鶴光師匠でも、こんな身も蓋もない訊き方はしませんよ。
余談ですが、鶴光師匠の元弟子である嘉門達夫(元・笑福亭笑光)が、「MBSヤングタウン」でペアでパーソナリティをつとめる河合奈保子に、当時の自身の新曲『哀愁の黒乳首』を曲紹介させる。こっちのほうが、元師匠よりよっぽどセクハラですよ。恥ずかしがりながら、『哀愁の黒乳首』を曲紹介する奈保子ちゃん……。いいわぁ。萌えるわぁ。おれ、これでご飯三杯はいけるわぁ。聴いときゃよかった……。
パァァァンッ!(奈保子のハリセン、一閃)
ここで、多摩市・カナメさんからのリクエストです。嘉門達夫、『哀愁の黒乳首』。奈保子ちゃん、曲紹介よろしく。
パァァァンッ!(奈保子のハリセン、一閃)
(3)河合奈保子の人柄と人生
ワタシは河合奈保子さんにはお目にかかったこともなく、そのお人柄、人となりについて、本当のところは何ひとつ知りません。
それでも、表舞台の立ち振る舞いから見て取れる、人物像というのは、確かにあるものです。
芸能人にありがちな、エキセントリックなところが欠片もない、優しく、真面目で、穏やかな――アイドル、タレントでなくとも、勤め先にOLとしていれば、学校に先輩として、教師としていれば、街のケーキ屋さんの店員であれば、異性としての好意以前に、ひととして好きにならずにはいられない。彼女と接している、それだけで、こちらも幸せな気持ちになれる、そんな素敵な女性なのだと思います。これは確信をもっています。すべてのファンが同意してくれると思います。
そんな彼女に嫌われるような、軽蔑されるような自分でありたくない。心からそう思います。
河合奈保子のアイドル時代は、『おしん』の「小林綾子パート」に似ていると思っています。
それは彼女の芸能人生のほんの一部、ほんのとば口であるにも関わらず、世間ではあたかも、それが全てであるかのように思われている。
『おしん』の「小林綾子パート」はそりゃあ素晴らしいけど、それだけじゃあないんだよと。田中裕子パートも、乙羽信子パートもあるんだよと、声を大にして訴えたい。
ファンには先刻承知のド常識。でも世間はと云えば、けっこう知らない知られていない。
何度でも云いますが、彼女はトップアイドルからシンガーソングライターになった人です。自ら作曲した歌――シングルが『ハーフムーン・セレナーデ』です。『十六夜物語』です。その実力は本物。
元アイドルのアーティストはいるでしょう。私、昔アイドルやってん――という人は。そうではなく、トップアイドルからそうなった人です。
スターであり続け、歌手であり続けた人はいます。
女優に転身した人はいます。
でも、シンガーソングライターになった人は、おそらく河合奈保子ただ一人です。
おまけにその同じ人が、ガンガン水着になってくれて、芸能史に残るレジェンドのグラビアクィーンでもあったのですよ!!!
彼女はまぎれもない「スター」ですが、それでも彼女の評価は低すぎると思います。もっと評価されてしかるべきです。河合奈保子の凄さは。
ですが、その世間の不明を責める資格はワタシにはありません。ワタシもそんな、世間の一員だったのですから。つい最近まで。
けれども、奈保子さんご本人は、そんな自分の評価を別に不服にも、悔しいとも思ってはおられないでしょう。むしろ、ワタシが云ったようなことを告げられても、「とんでもない」と「本気」で首を横に振るに違いありません。
控えめで、競争心が乏しく、ありていに云えば、芸能人・芸能界には不向きなひとです。
だからこそ芸能界を去った、とは云えるかもしれません。
事実として、出産を機に芸能界を去った彼女は、ピアノインストゥルメンタルのリリースなどスポット的な活動をすることはありましたが、主婦業をまっとうし、離婚もせず、二人のお子さんを立派に成人させています。
見事、というほかありません。
復帰は夢です。それを願ってやみません。
特にワタシは、彼女の現役時代を棒に振ってしまいましたので……。
それでも、
歌は、音楽は、いまでも好きよ。でも、もう、お仕事にするつもりはないの――。
(仮に)そう云われてしまったら、引き下がるほかはありません。
芸能界を去ったのがもったいないのではない。
芸能界にいるにはもったいないひとだったのだ――。
複雑な想いで、そう云わせていただきます。
多摩市・カナメさんからのリクエストは、河合奈保子『十六夜物語』です。
ぜひ女性演歌歌手の方に、カバーしてほしい。いい歌でしょう? 早い者勝ちですよ? そうして、「作曲家・河合奈保子」の名を世に知らしめてほしいのです。