2年になって担任になると少しずつよっさんのことがわかってきた。口数が少ない。怒っているわけじゃないけど、いつも苦虫をかみつぶしたような表情をしている。基本的には怒らない。たばこが好き。よく舌打ちをする。奥さんが美人らしい(うわさ)。ドラゴンズが好き。

授業も落ち着いていた。英語の発音はどうだったかよく覚えていないけど、とんちんかんな受け答えをしても「はい、結構です」と静かに座らせる。さすがに居眠りしていると「おい!」と大きな声で起こされるけど、顔は怒っていない。「おまえ2時間目どこでサボっとった?」「そのパーマ森本先生に殴られるぞ!」などなど。まるで「僕の好きな先生」の歌詞のようだ。

喫茶スズランで毎日たむろしてたばこをスパスパやってた僕たち。毎日帰りに前を通るよっさん。おそらくよっさんは気づいていたはずだ。まっすぐ前を向いて走っていたが、すべて見えていたんだろう。

 

そんな仏のよっさんに真剣に怒られたことが2度ある。

1度目は放課後の全校一斉で行う掃除をサボったとき。喫茶「スズラン」では仲間が待っている。裏門からこっそり帰ろうとしたところを運悪く見つかった。遠くの方から「コラ〜」という声が聞こえた。いつものように口数も少なく怒られるのかと思ったら、すごい勢いで走ってくる。近づくに従って鬼のような形相であることがわかった。般若のお面がそうだが、笑っているのか怒っているのかすらよくわからない。「ひょっとしてヤバい?」と思った瞬間、腕をつかまれ思いっきり背中を叩かれた。「みんなが掃除をしとるのに何でオマエだけサボるんだ!」。よくわからないまま勢いに押され、すぐに足元の草を抜き始めた。

単に虫の居所が悪かっただけなのか、集団行動を何よりも大切にしていたのか、レレレのおじさんのように掃除にまつわる悲しい出来事があったのかいまだによくわからない。でも、それからの人生、わりと掃除だけはちゃんとするようになった。ゴミを拾うことは運気を整える。大谷くんのように。

 

2度目は卒業して2,3年経ったくらいに鶴舞の公会堂で行われた同窓会の総会でのこと。どういう経緯で参加したのか全く覚えがないのだが、OBとして受付をしていたよっさんとしばらく立ち話をした。「大学生活はどうだ」とか何とかいう話になったんだと思うけど、そこで「実は大学ヤメちゃったんだよね」と言ったら、突然大きな声で「おい、どういうことだ」と例の怒ったような笑ったような表情になった。「おまえ大丈夫なのか?」「全然大丈夫、大丈夫」と答えたが、また背中を思いっきり叩かれるのでは?と一瞬緊張した。

大学をやめてしまったせいで、それからの人生、わりと大変だったけど何とか食いつないできた。ちょっとは努力のようなこともしたけど、ほとんどは運みたいなものだ。「運が良いとか悪いとか人は時々口にするけど、そういうものって確かにある」、さだまさしが言うのだから間違いない。

 

いつの間にか当時のよっさんの年齢を越えてしまったようだ。

最近、仕事もリモート中心になり人と会う機会も減ったため白髪染めをヤメた。白髪は抜けても目立たないため、何だか気づかないうちに額の左右が後退してきたような気がする。「M」っぽい抜け方だけは何としても避けなくてはいけない。どこぞの悪人どもに「Mハゲ」呼ばわりされたら、渋い笑いでやり過ごせる自信はとてもじゃないが無い。

高校の3年間は担任に恵まれた。組が違った周りの友人たちもそう言っていることを考えると、この時代の熱田高校はいい先生が集まっていたのかもしれない。今はどうなんだろう?

 

210の時の担任は加藤義昭という英語の先生だった。加藤姓の先生が何人かいたことから、生徒たちは失礼にもそれぞれ名前で呼び分けていた。「ヨシ」「よっさん」というのが加藤義昭先生の愛称だった。麻雀パイの索子(そうず)の八のような生え際だったため「Mハゲ」という心無い呼び方をする悪人どももいた(ごめんなさい)。

よっさんには2年の担任に引き続き、3年もReaderでお世話になった。1年の時は他のクラスの担任だったので、強面の恐ろしそうな先生というイメージしかなかった。ちょっと色の入ったメガネもかけていたし。おまけに恐ろしいほどのヘビースモーカーで、歯はヤニで黄色くなり、近寄るといつもたばこの臭いがキツかった。ロングピースだったかハイライトだったか、今考えれば毒でしかない強いたばこを吸っていた。「だから近寄っても俺たちが吸っとることはバレんのだて〜」という悪人どももいた(ごめんなさい)。

 

そんな恐ろしいイメージしかない1年生のある日、放課後の溜まり場となっていた「スズラン」という小さな喫茶店に僕たちはいた。たばこを吸いながら雀ピューターやギャラガ(インベーダーはすでにちょっと下火)に熱中していた。学校から少し離れているから安心していたのだけど、ふと窓の外を見るとよっさんが自転車で走っているではないか。いわゆるママチャリではなく、八百屋さんや魚屋さんが乗るようなちょっと大きめの自転車、加トちゃんが三角乗りする自転車と言えばわかりやすいか(わからない方すみません)。

その自転車のハンドルに両肘をかけ、いわゆる「力石乗り」で走っているではないか。もちろんトレードマークのくわえたばこも忘れていない。おもむろに自転車を飛び降り、豚を次々と殴っていくのではないかというくらいの迫力で(これもわからない方すみません)。

 

やばい、と思って全員テーブルの下に隠れた。学生服は脱いでいるけど、表に自転車がたくさん停まっている。高校のステッカーも貼ってある。悪人どもがたむろしているのはひと目でわかる。でもよっさんはまっすぐ前を見てそのまま走り去って行った。「おい見回りしとるんか?」「後を付けられとったんじゃないか?」「ここもヤバいか?」などなど様々な意見が出たが、結局その後も喫茶「スズラン」に通い続けた。

それからもちょくちょくよっさんは店の前を通っていった。後日その喫茶店に居合わせた熱田高校のOBという常連さん(たぶん浪人生)に聞くと、「あいつ(よっさんのこと)は熱田高校のOBですぐそこに住んどる」とのことだった。なんだ、ただの通勤路だったのか。気づかなかっただけでよっさんは毎日この道を通っていたのだろう。部活の顧問をやっていなかった(映研?)からか帰りの時間はまあまあ早く、部活もやらずにたむろしてダベっていた僕らと時間が重なった。

 

「♫たばこを吸いながらいつでもつまらなそうに〜。たばこを吸いながら困ったような顔をして 遅刻の多いぼくを口数も少なくしかるのさ〜♫」。RCサクセションの「僕の好きな先生」を聴く度によっさんの事を想い出す。

 

おそらくよっさんは僕たちに気づいていたんじゃないだろうか。

今はどうかわからないけれど、かつては指定校推薦制度というものがあり、僕が通っていた頃の熱田高校にも慶応大学への推薦枠が2つ(理系と文系?)あった。通常入試であれば、慶応くらいの偏差値だと宝くじ百万円当選レベルの倍率をくぐり抜ける相当な「実力」と、これまたロト6・3等当選レベルの「強運」が無ければ絶対に合格できない。それが面接だけで通ってしまうと言う夢のような制度だ。おそらく成績優秀、態度・素行良好な生徒が代々推薦され、2名ながら枠を維持してきたのだろう。

 

担任の加藤コーサイがある日、始業時にそれをクラスで伝えた。「我こそは、と思うヤツはオレまで言ってきてくれ」。夏以降の追い込み時期に受験勉強が上手くいかず悩んでいた僕は何を思ったか「我こそは!!」と思ってしまった。それでも自分の実力と素行のあまり良くない所を自覚していたので、下校時に偶然を装ってコーサイを捕まえて聞いてみた。「先生、オレ慶応の推薦ダメかな?」。さりげなく、ちょっと冗談っぽく聞いてみた。

その時のコーサイの顔は今でも忘れられない。一瞬ギョッと目を見開き、しばらくすると遠くを見つめるような優しい表情になって言った。「オレがオマエを推薦することはできる。でもなぁ、まず校内選考で落とされるわな。仮に面接に進んだとしてもそこも危ない。そのまま合格して入学したとしても、来年からの推薦枠は無くなるわな」。いやいや入学後のことまではわからんだろ、とちょっとカチンときたけど、あくまでもちょっと聞いてみた感を残しながら「だよねー」と素直に引き下がった。「今からでも十分時間はある。一般入試で頑張れ」と肩をたたき励ましてくれた。でも、一般では無理なことは先生が一番よく知ってるじゃん。

 

その後、やはり学力は一般入試でチャレンジするレベルには達せず、他校をいくつも受験した結果わずか1校に引っかかりかろうじて浪人生活は免れた。宝くじは買わなきゃ当たらないけど、買ってもほとんど当たらない。それ以来、毎回半分諦めながら中途半端な気持ちで宝くじは買い続けている。最高当選額は5万円だ。これがリアルな現実だろう。

今も熱田高校に慶応大学の推薦枠が残っているとすると、あの時のコーサイの判断が正しかったのだろう。推薦枠が無くなっているとしたら、僕と同じような「我こそは」勘違い野郎が潰してしまったのかもしれない。

 

当時はあまりに図々しいと思ったのか、このことは友人たちにも言っていない。あれから40年近くたつが、あの時推薦されていたらその後の人生はどう変わっていたんだろう。いずれにしても無下に却下しなかったコーサイには感謝している。あれ以降ちょっとは頑張れたような気がする。浪人生活を避けられたのもコーサイのおかげかもしれない。結局、同じクラスの女子が文系枠に推薦された。受験シーズンを迎える度にコーサイのあの表情を思い出す。

高校の3年間は担任に恵まれた。組が違った周りの友人たちもそう言っていることを考えると、この時代の熱田高校はいい先生が集まっていたのかもしれない。今はどうなんだろう?

 

308の時の担任は加藤コーサイという世界史の先生だった。210の時の担任が英語の加藤義昭先生で他にも数学の加藤哲先生もいたことから、生徒たちは失礼にもそれぞれ名前で呼び分けていた。「コーサイ」という名前の由来は何度か聞いた気がするけど(論語に出てくる云々?)忘れてしまった。お付き合いの「交際」でなく、「サイコー」の業界的な読み方でもなく、正しくは「皓宰」という難しい漢字を使う。

コーサイには2年の時に世界史を教えてもらっていた。毎回手ぶらでやってきては、「前回どこまでやった?」と最前列の生徒に聞き(聞かれるやつは毎回決まっていた)、全く板書をしない独特なスタイルで世界のあちこちで起きた出来事をすらすらと講談的にしゃべっていく。ちょっと艶っぽい話やマジか?というような怪しい話も織り交ぜて、飽きないように工夫していたのだろう。それでも毎回おとなしく聞き入るほど落ち着いていなかった僕は、居眠りしたり授業をサボることも多かった。もっと真剣に聞いておけばその後の進路も違ったものになったかもしれない。それ以上に、読み物(聞き物?)としての面白さもあっただろうに。

 

さて、3年に進学して担任がコーサイになった。選択科目で日本史を選択したのだが、コーサイが今度は日本史を語り始めた。新学年がスタートしてすぐに、クレペリンテストという検査があった。数字を足していくとその答えの列の形で性格がわかるという心理検査らしい。そこでジョン・レノンが大好きだった僕は、答えの列が「LOVE」になるように答えを書いた。もちろん足し算の答えでは無く適当な数字を並べて。それによってコーサイいわく「恐ろしい結果」が出たらしい。2、3か月後の保護者会でその話をされた。「とんでもねぇヤツ引き受けたなぁ、とユーウツになってなぁ」と。「先生、足し算なんかで人の性格がわかればみんな苦労しないよ」とかなんとか粋がってみたところ、「いやー本当におまえが普通でよかったよ」。

いつも生徒を大人扱いしてくれたコーサイ。卒業後に神宮前の居酒屋に行ってお金が足りなくなったコーサイ。いつもワセダの校歌を唄っていたコーサイ。大変お世話になりました。

 

10年ほど前に同期会を開催した際、欠席を知らせるはがきには闘病中であることが書かれていた。その後、65周年の記念誌でコーサイが鬼籍に入ったことを知った。先生どう?そっちはサイコーかい?

エアコンの室外機に被せる日よけは色々と種類がある。

中でもクルマの日よけと同じ、プチプチをシルバーでコーティングしたような素材の物が、

安価でホームセンターなどには大漁に出回っている。

 

しかしこれ、耐久性がとても低い。ワンシーズンで表面カピカピになり、粉々に砕け散って枠だけになる。

おそらくUVによるビニール面の劣化だ思うけど、これが砕け散った後は片付けがたいへん。

ベランダの床一面にキラキラのシルバー片がびっしり。

ぞうきんで回収するか掃除機を掛けるかしないときれいに取れない。水抜き穴も詰まってしまう。

キャンドゥのすだれとダイソーのゴムバンドにしました。

こちらも当然劣化するだろうけど、灰色になるなどある程度「サイン」がでるので、

早めの交換ができそう。取り外しも楽だし。