あなたは『和同開珎(わどうかいちん)』
という言葉を知っていますか?
学校で習う言葉なので、
「聞いたことがあるような・・・」
という方もいるかもしれません。
『和同開珎』とは、
「日本最古の流通貨幣」
とされるもので、
708年(奈良時代の始まる2年前)に
朝廷が発行した「通貨」です。
この『和同開珎』から250年の間、
朝廷は12種類の銅銭を発行しました。
しかし985年を最後に朝廷は
「通貨」の発行を止めてしまいます。
ちなみに985年は平安時代の大体真ん中あたりです。
そして平安時代後半には、それまでの銅銭に代わり、
米や絹布が「通貨」として使用されました。
ところが鎌倉時代が始まることから
再び「通貨」が銅銭に逆戻りします。
しかしその銅銭は当時の朝廷もしくは鎌倉幕府が
発行したものではありませんでした。
ではその銅銭はどっから来たのでしょうか?
それは「当時の中国」からです。
中国の王朝(北宋・南宋)が発行した銅銭が
大量に日本に流れ込んで来て、
それが「通貨」として使われるようになったのです。
ちなみに、朝廷は中国から入ってくる銅銭
(これを『渡来銭』と言います)を
「通貨」として使用することを
最初は禁止しました。
ですが、民間社会が『渡来銭』を使用し続けたため、
結局なし崩し的に容認せざるを得ませんでした。
以上のことを聞くと、
『渡来銭』は「通貨」として使用するために中国から輸入した
と思われるかもしれません。
しかしながら、実はそうではなかったようなのです。
それではどうして中国の銅銭を輸入したのか?
最近、この答えに関して面白い説があるので紹介します。
奈良時代・平安時代前半の銅製品を分析すると、
日本産の銅から造られていることが分かるということです。
しかし平安時代後半・鎌倉時代の銅製品を分析すると、
中国産の銅から造られているのです。
つまり平安時代中頃に日本で銅が採れなくなり、
中国から銅の原材料を輸入するようになった、
ということになります。
そしてその「銅の原材料」が『渡来銭』、
すなわち中国で発行された銅銭ではなかったか?
ということです。
最初は「銅の原材料」として輸入されていた『渡来銭』が、
全国にある程度行き渡ったところで、
「もともと通貨として造られたものなのだから、
「通貨」として使ってもいいのでは?」
という流れで民間で使用されるようになった。
朝廷は初めはそれをやめさせようとしたが、
止めることが出来ず最後には容認した。
その結果、鎌倉時代の初めころから
「通貨」が銅銭(と言っても『渡来銭』)に
再び戻った。
このように考えられるのです。