こんにちは。今回は前回の続きとして、平安京西側が衰退した理由の2つ目、「下層の水の流れ」について書いていきます。
まず、平安京域の大半は扇状地に位置しています。
扇状地は、河川によって運ばれてきた砂礫が堆積してできた地形です。そのため、雨水が土壌に浸透しやすく、地下には伏流水が流れているという特徴があります。
現在では難しいですが、昭和初期ごろまでは、京都市街地では地面を3mほど掘れば、地下水を得られる場所がいたるところにあったようです。
このように、平安京は地下水を容易に得ることができる土地でした。それが、この地に都が造られた理由の一つとも言われています。
では、その平安京の下層部では、どのように水が流れていたのでしょうか。
当時の地下水の流れを復元した研究を見ると、平安京東北部から南西部に向かって、大きな流れがあったようです。また、平安京西部の北側から南側へ向かう別の流れもあり、これら2つの流れが平安京西部の中央付近で合流していたと考えられています。
そのため、合流部周辺はかなり湿潤な環境になっていたとのことです。
つまり、伏流水が集まることで、平安京西部では雨が降ると地面がぬかるみやすい状態になっていたと考えられます。
また、前回も書きましたが、平安京南西部が桂川の氾濫原に位置していたことも、大きな要因だと言われています。
氾濫原は、堤防などによって河川が管理されていなければ、大雨の際に河川の水が流れ込む場所です。そのため、平安京南西部には大きな水たまりがいくつも存在し、湿潤な環境になっていたと考えられます。
そのため、この地域には、そもそも平安京の条坊が整備されていなかったという見解もあります。
実際、平安京の復元模型を見ると、南西部は街ではなく、大きな水たまりや緑が生い茂った場所として再現されています。
以上、2回にわたって、平安京の西側が衰退した理由について書いてきました。
平安京西部は、
① 南部が桂川の氾濫原に位置していたこと
② 中部では伏流水が集まる環境にあったこと
という2つの要因が重なり、かなり湿潤な環境になっていたのです。
それでも平安時代前期には、人々はこの地域で生活していました。
ところが、10世紀の中ごろになると、排水の役割も担っていた水路が洪水によって埋まり、機能しなくなったと考えられています。
その結果、人々は次第にこの土地を離れ、平安京東部へと移っていきました。
そして平安時代後期になると、平安京西部にはほとんど人が住まなくなってしまったのです。
このように平安京西部の衰退には、単に「西側より東側のほうが便利だった」というだけではなく、地形や地下水、河川、そして排水環境といった、この土地がもともと持っていた自然環境が大きく関係していたと考えられます。
