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歴史好きの動画編集

日本の歴史(主に室町・戦国時代)
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平安京復元模型

 

こんにちは。今回は京都の歴史について、特に「都市としての変遷」に焦点を当てて書いていこうと思います。

京都の都市としての歴史は、桓武天皇が平安京を造営したことから始まります。よく知られているように、平安京は道路が碁盤の目のように整然と配置された、長方形の都市でした。

ところが、それから約1,100年後にあたる明治末期の地図を見ると、市街地はかつての平安京域の東側に集中しており、西側には田畑が広がっています。

このように京都は、長い歴史の中で「平安京の西側が衰退し、東側が発展する」という大きな変化を遂げてきました。

実は、この変化は平安京が造られてからわずか200年ほど後には、すでに始まっていました。

平安時代中期にあたる10世紀には、ある下級貴族が日記の中で、「平安京の西側は人家もまばらで、まるで幽城のようだ」と記しています。さすがにこの表現は誇張されすぎているとも言われていますが、考古学的な調査からも、平安京西側の衰退は確実視されています。

では、なぜ平安京の西側は衰退していったのでしょうか。

その理由として指摘されているのが、地形による影響です。

今回は、その中でも特に、

① 平安京域の地形分類
② 下層の水の流れ

の2点について取り上げたいと思います。

① 平安京域の地形分類

平安京域の地形分類については、いくつかの地図が作成されています。それらを見ると、平安京北部の中央付近に位置する大内裏周辺は低位段丘、平安京域の南東部(北は七条付近から西は町小路付近までの三角形の地域)と南西部(北は四条付近から東は西大宮大路付近までの三角形の地域)は氾濫原、それ以外の地域は主に扇状地に分類されています。

大内裏周辺の低位段丘は、水害を受けにくく、地盤も比較的硬い、安定した土地です。

一方、氾濫原は、大雨の際に河川が氾濫することで水害を受けやすい地域です。

扇状地については、平安時代の初期から中期にかけて洪水の被害を受けていました。しかし、10世紀から12世紀にかけて河床が低下したことで、次第に洪水の被害を受けにくくなったと言われています。

こうした地形分類から指摘されているのが、平安京南西部の広い範囲は桂川の氾濫原にあたり、かなり湿潤な土地だったということです。

また、平安京西部を南北に流れる紙屋川(天神川)の存在も、平安京西側の衰退に影響した要因の一つとされています。

紙屋川は「暴れ川」として知られており、大雨のたびに洪水を繰り返していました。そのため、もともと平安京内に設けられていた排水用の水路が洪水による土砂で埋まり、十分に機能しなくなったことで、排水不良が生じたと指摘されています。

このように見ていくと、平安京西側の衰退には、都市そのものの問題だけではなく、その土地がもともと持っていた地形や水環境が大きく関係していたことが分かります。

次回は、もう一つの要因である「② 下層の水の流れ」について取り上げたいと思います。