今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -80ページ目

今日という日【10月17日】

■沖縄そばの日

1978年10月17日。

1972年の本土復帰以前は、沖縄県でそばと言えばすなわち「沖縄そば」のことであったので、特に意識することなく単に「そば」と呼ばれることがほとんどであった。その後日本そばとの混乱を避けるために「沖縄そば」という呼称が用いられるようになったが、1976年に沖縄県公正取引室が、「生めん類の表示に関する公正競争規約」の「そばとは、そば粉30%以上、小麦粉70%以下の割合で混合したものを主たる原料とする」という記述を根拠に、この名称に対してもクレームをつけた。しかし戦前より一貫して「そば」と呼ばれてきた伝統、慣習を守れとの機運が強く、沖縄生麺協同組合等の交渉により、1977年通称としての「沖縄そば」が県内のみ使用と限定され認可された。その後、1978年10月17日に公正取引協議会「生めん類の表示に関する公正競争施行規則」別表に「本場 沖縄そば」と表示され、沖縄県内で生産され、仕上げに油処理を行うことなどいくつかの条件の下に特殊名称としての使用が許可された。これを記念して10月17日は「沖縄そばの日」とされることになった。

沖縄そば」は日本以外でも主にブラジルで食されている。ブラジルでは日本人移民が渡ったおよそ100年前から、沖縄出身者の人達の手によって広まっている。中でもマットグロッソ・ド・スル州のカンポクランジでは、沖縄出身者が多いことから沖縄そば店が多く、街の名物にもなっている。ただ当初は、そばをすする音が恥ずかしい(世界的に麺類を音を立てて食すのはタブーとされている)という理由で沖縄出身者のみが食べるだけで、沖縄そば屋の窓にはカーテンで覆いをしているところもあった。ところが、その覆いを見た地元の人達が、「(沖縄出身者が)おいしいものを食べている」ということで話題になり、次第に地元の人達の間にも浸透していったという。

今日という日【10月16日】

■人類史上初の8,000m峰登頂

1986年10月16日。

この日、人類史上初の8,000m峰全14座完全登頂(無酸素)を、イタリアの登山家で、冒険家、作家、映画製作者の「ラインホルト・メスナー」が成し遂げた。

ラインホルト・メスナー」は、十代の頃から東アルプスで500回を超える登攀をこなし、1966年、22歳のときにグランド・ジョラス北壁(ウォーカー側稜)を攻略。1969年も三大北壁の中でも最も難易度が高いとされるアイガー北壁を当時の世界最短記録で攻略。5年後の1974年にも再びアイガーを攻略し、「ペーター・ハーベラー」とともに自身が持つ世界最短登頂記録を更新。

1970年のナンガ・パルバット登頂を皮切りに17年の歳月をかけて1986年には人類史上初となる8,000m峰全14座完全登頂という登山史における大金字塔を打ち立てた。その間に1975年に、ガッシャーブルムI峰でハーベラーとのコンビで世界で初めて8,000m峰をアルパインスタイル(サポートチームから支援を受ける事もないし、あらかじめ設営されたキャンプ、固定ロープ、酸素ボンベ等も使わない、登る人の力にのみ頼ることを最重要視して行う登山スタイル)で登頂。1978年、ナンガ・パルバットで世界で初めて8,000m峰をベースキャンプから単独・アルパインスタイルで登頂。さらに同年、ハーベラーとのコンビで人類初のエベレスト無酸素登頂に成功。2年後の1980年には途中、一度クレバスに転落する事故を乗り越えてエベレスト無酸素単独登頂の偉業を成し遂げた。1982年にはカンチェンジュンガ、ガッシャーブルムⅡ峰、ブロード・ピークという8,000m峰を1年の間に次々と登頂。チョ・オユーにおける同年の厳冬期登頂には失敗したが、翌年春に再挑戦し頂上に到達している。1984年には世界初のガッシャーブルムⅠ&Ⅱ峰縦走に成功。また、1990年には92日間をかけ徒歩で世界初の南極横断に成功した。

今日という日【10月15日】

■長崎バスジャック事件

1977年10月15日。

1977年10月15日午前、長崎県平戸市から佐世保市・大村市を経由して長崎駅前に向けて運行中の西肥自動車の路線バスが途中の大村市内を走行中、銃や爆弾を持ち「阿蘇連合赤軍」を名乗る2人組の男性に乗っ取られた。その後、バスは給油のため長崎市内のガソリンスタンドに立ち寄ったが、スタンド従業員からの通報を受けた警察はバスのエンジンスターターを不作動にする措置を行い、バスを包囲した。

犯人たちは、乗客5人の解放と引き換えに食料(寿司30人前)や水(コーラ30人前など)、そして毛布50枚を要求。また「法務大臣の瀬戸山 三男と新自由クラブ(当時の野党)代表の河野 洋平及び、政治評論家の細川 隆元を連れてこなければ交渉には応じない」などと主張。しかし、この時に犯人らは自分達の事を「阿蘇連合赤軍」と極左風の団体名を名乗っておきながら右翼的な論評の目立つ保守派評論家であった細川の事を「細川隆元先生」と呼ぶなど、思想的に考えて支離滅裂と思わざるを得ない発言が目立ったことから、警察では早い時点で犯人達は赤軍派とは無関係の集団だと判断していた。実際、犯人らは赤軍派を名乗っていたが、政治思想とは何ら関係ない場当たり的な犯行であった。

長崎県警は犯人らに対して説得をおこなったが、人質の体力が限界に達したとして、事件発生後18時間経過した翌16日午前4時25分に警察官の一人が説得しながら最終的に「撃つなら俺を撃て、撃つなら撃ってみろ!」と犯人を挑発したところ、主犯格の男が手製爆発物を投擲、爆発物が爆発した瞬間に突撃隊は一斉にバス内部へ突入。3人の警官が合計7発を発砲。この銃撃で主犯(当時31歳)は被弾し20分後に死亡。もう一人の犯人(当時39歳)は重傷を負った。人質16人は全員無事に救出された。

生き残った犯人には懲役6年が言い渡された。
犯人射殺による人質事件の解決は1970年に発生した「瀬戸内シージャック事件」以来2例目となった。