今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -81ページ目

今日という日【10月14日】

■試験管ベビー誕生

1983年10月14日。

この日、東北大学附属病院で日本初の体外受精児(「試験管ベビー」)が誕生。

イギリスの生理学者「ロバート・G・エドワーズ」が1978年に最初に成功し、女の子が生まれた。エドワーズはこの業績により2010年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。日本では1983年に東北大学の「鈴木 雅州」らが成功して以来、約6万人が生まれたと言われている。

開始初期には費用はHMGと呼ばれる注射の排卵誘発剤を用い約30万~60万円と高額であったが、近年クエン酸クロミフェン内服錠を用いた簡易誘発法を用いて10万円前後で治療を行う施設も出てきている。

体外受精」は、広く行われる不妊治療の一つであるが、あくまでも女性の卵子を使用するため、卵子そのものの老化の影響は受ける。「体外受精」を利用しても、45歳を超える女性の場合、妊娠できる可能性は0.5%ほど。しかし、その実態を知らず、「体外受精」をすれば50歳まで妊娠は可能と考える女性もいる。

今日という日【10月13日】

■大津城の戦い

1600年10月13日。

大津城の戦い」は、1600年10月13日から10月21日まで、近江国大津城を巡って行われた戦い。「関ヶ原の戦い」の前哨戦と位置付けられる。

豊臣 秀吉」の死後、天下人の座を狙う「徳川 家康」と、豊臣氏擁護の立場から家康と対立する「石田 三成」ら反家康派の対立は、1600年の会津征伐を契機として表面化する。三成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、「大谷 吉継」や「毛利 輝元」ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵。家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出していた。
北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である「大谷 吉継」が担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主「京極 高次」が加わっていた。ところが高次は、吉継が北陸から美濃へと転進する最中に突如東軍に寝返り、手勢3,000人を率いて大津城に籠城し、防御を固め始めた。

これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復として、「毛利 元康」を大将とし、それに「立花 宗茂」、「小早川 秀包」、「筑紫 広門」ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5,000人の軍勢をもって、1600年10月13日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。しかし高次は城を死守し、容易に城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守「山田 大炊」の活躍は目覚ましく、精兵500を率いて城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。攻めあぐねた寄せ手は、19日には大砲を城内に撃ち込み、砲弾は天守にも命中、城内は大混乱となる。高次も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将「立花 吉右衛門」が一隊を率いて城壁に取り付いた。高次をはじめとする京極勢は奮戦したが、遂に力尽き、10月21日に降伏して大津城を開城する。高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。

この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗北につながることになった。なぜなら、大津城が開城した10月21日は、「関ヶ原の戦い」のまさに当日だったからである。つまり西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5,000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を自ら招いたのである。特に、家康がその武勇を恐れていた「立花 宗茂」が関ヶ原の本戦に参加できなかったことは、家康にとっては幸運であり、西軍にとっては不運であった。もし宗茂が1万を超える大軍と共に本戦に参加できていたなら、東西両軍の勝敗は変わっていた、という可能性さえ指摘されている。結果として、西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。

立花 宗茂」は、大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。
一方、敗軍の将である「京極 高次」に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟「京極 高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)」を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国9万2,000石与えて功に報いた。家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。

今日という日【10月12日】

■第1回オクトーバーフェスト開催

1810年10月12日。

オクトーバーフェスト(独:Oktoberfest)」は、ドイツ、バイエルン州の州都ミュンヘンで開催される世界最大規模の祭り。ミュンヘン市の西方のテレージエンヴィーゼ(Theresienwiese テレーゼの緑地という意)で9月半ばから10月上旬に開催され、毎年600万人以上の人が会場を訪れる。

オクトーバーフェスト初日には、まずミュンヘン市長とミュンヘンの市章ミュンヒナー・キンドル(Münchner Kindl)に扮して黒いフード付きマントを着た女性が馬に乗って先頭を行き、ビヤ樽を積んだ地元ブルワリーの馬車が続くフェスティバル運営者の顔見世パレードがある。正午にミュンヘン市長が最初のビヤ樽の栓を開けて、"O'zapft is!"( バイエルン方言で「酒が出たよ!」の意)と宣言することで正式にオクトーバーフェストが始まる。
3月に製造して夏の間寝かせておいた味が濃く、アルコール分の高いオクトーバーフェスト用特別ビール(ヴィーズン・ビア)が、マスと呼ばれる容量1ℓのビールジョッキに注がれる。最初のマスはバイエルン州首相に渡される。地元ミュンヘンのブルワリー(ビール醸造会社)だけが、オクトーバーフェスト用ビールをビールテント内で提供することを許可されている。

2日目にはバイエルン出身の8,000人が伝統的民族衣装を着て、マクシミリアン通りをミュンヘンの中心街を通ってオクトーバーフェストまで歩いていくパレードがある。客は飲むだけでなく大いに食べる。食事は主にソーセージ、ヘンドゥル(鶏肉の丸焼き)、シュペッツレ(チーズや小麦粉で作った麺)、ザワークラウトといったボリュームのある伝統食や、バイエルン名物の雄牛のしっぽなど。

オクトーバーフェスト」は、以前はバイエルン州では、決して珍しいものではなく、新しいビールの醸造シーズンの幕開けを祝う祭りで、どこでも開かれているようなものだった。