今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -78ページ目

今日という日【10月23日】

■写真週刊誌「フォーカス」創刊

1981年10月23日。

FOCUS」(フォーカス)は、1981年10月23日に新潮社から創刊された写真週刊誌の草分け。記事だけではなく写真を前面に押し出し、新しいジャーナリズムのスタイルを確立した。

創刊当初は、有名写真家を使った芸術性の高い雑誌を目指したものの低迷。その後、張り込みや突撃取材を行う週刊誌へと変貌を遂げ成功を収めた。販売部数はピーク時に毎週200万部を突破し、印刷が追いつかず東京と大阪の2ヶ所で印刷所で同時に印刷したほど。「フォーカスされる」などの流行語まで作られ、一大ブームとなった。

新潮ジャーナリズム」と呼ばれる丹念な取材と張り込み取材を展開。有名人やタレントの密会写真掲載などで話題を作ったり、政治的な事件や災害、事故などのスクープも多い。また、従来の新聞、テレビなどが報道しなかった、複雑な事件やニュースの裏側に迫る写真も数多く掲載した。

ロッキード事件公判で、被告だった「田中 角栄」元首相を法廷内で撮影したり、1997年の神戸連続児童殺傷事件で未成年の犯人の顔写真や、著名人の葬儀に際し棺に納められた遺体の顔を掲載したりと、法に抵触しかねない取材活動をして問題となったこともある(敢えてした所もある)。またフライデー襲撃事件などのあおりを受け、その取材方法に社会的批判を浴びるようにもなった。だが、その一方では桶川ストーカー殺人事件で、同誌の「清水 潔」が、警察より先に犯人を捕捉し、捜査を放置した警察の不祥事まで暴くという調査報道も成功させてもいる。1983年には「高部 知子」の喫煙写真を掲載した。

最終ページは、「マッド・アマノ」が世相を広告風に作ったパロディ写真(オマージュ)「狂告の時代」が連載されていた。

今日という日【10月22日】

■リンゴ事件

1933年10月22日。

リンゴ事件」は、東京六大学野球で発生した大乱闘事件。

1933年の秋季リーグ戦の早大対慶大3回戦は激しい点の取り合いとなり、8回を終わって8-7と早大が1点をリードしていたが、審判の判定を巡ってトラブルが重なった。

2回、早大の「悳(いさお) 宗弘」投手の投球がいったんストライクと宣告されるものの慶大「腰本 寿」監督と打者「井川 喜代一」の抗議でデッドボールに覆った。8回には慶大の「岡 泰蔵」選手の二盗判定を巡ってまたも騒ぎになった。塁審は最初セーフと判定したが早大「高須 清」遊撃手の抗議でアウトに覆った。これに対して慶大の三塁ベースコーチだった「水原 茂」が塁審に詰め寄り猛抗議を展開した。

こうした経過から、両校の応援団は興奮状態にあった。試合は9回表に入り、水原が三塁の守備につくと先の抗議での態度に興奮した三塁側早大応援席から水原に向かってごみなどと一緒にリンゴの芯が投げ込まれた。水原がこれを守備の構えのままバックトスのように三塁側に投げ返したことで早大側がさらに激高。試合は9回裏に慶大が2点を返し9-8の逆転サヨナラ試合となったが、試合終了と同時に早大応援団は慶大ベンチ・応援席になだれ込み、慶大応援団の指揮棒が奪われ行方がわからなくなる(戦後満州で発見された)などの大乱闘となり、警官隊が出動する騒ぎとなった。その後両校は「水原謹慎」「早稲田謹慎」と言い合ったが、11月19日早大野球部長が辞任することで決着した。

なお、その後、「水原 茂」は12月3日に麻雀賭博で検挙され、翌4日野球部を除名された。

この事件がきっかけとなり、早慶戦においてチーム・応援団とも早稲田は一塁側、慶應は三塁側に固定されて今日に至っている。

今日という日【10月21日】

■神風特別攻撃隊が初出撃

1944年10月21日。

特別攻撃隊」とは、爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器を、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たり、自爆等させる戦死前提の部隊・戦法。「特攻隊」「特攻」とも略する。

組織的特攻として陸軍は本格的な検討が1944年2月頃に始まったと推定され、海軍も計画が同年2月26日「特攻兵器人間魚雷」の試作から始まる。特攻の実行は1944年「レイテ沖海戦」において。
10月17日、「大西 瀧治郎」海軍中将、第一航空艦隊司令長官に着任。特別攻撃隊編成命令下る。
10月21日、海軍、第一次神風特別攻撃隊初出撃。空振りに終わるも大和隊隊長、「久納 好孚」中尉未帰還。組織的体当り攻撃(特攻)戦法の使用を開始した。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、そのほとんど約束を破り、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある。
大西 瀧治郎」は、旧部下と遺族に謝することと未来の若者へ世界平和を尽くしてほしいとの遺書を残し、終戦直後の8月16日に割腹自決した。「宇垣 纏」も終戦の玉音放送後に沖縄の米軍に対して部下11機を自ら率いて特攻を行い命を絶った。
しかし陸軍特攻隊創設者の「富永 恭次」は特攻隊や多くの部下を残したまま、酒と芸者と一緒に敵前逃亡を繰りかえした。また「最後の一機で俺はかならずいくからな」と特攻隊を送り出した陸軍の「菅原 道大」中将は戦後隠遁し養鶏業を営み、特攻関係者や遺族の来訪やマスコミの取材に怯えながら晩年は廃人のようになりながら、95歳まで生きながらえた。機体故障などでやむをえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめおめ帰ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリンチしたことで知られる第6航空軍参謀「倉澤 清忠」少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた。戦後行われた海軍反省会では中央と現場で特攻の指示があったかについてなどの言い争いもあった。