今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -76ページ目

今日という日【10月29日】

■酒田大火

1976年10月29日。

この日、山形県酒田市で大火が発生。この火災で酒田市内中心部の商店街約22万5,000平方メートルを焼失した。

午後5時40分頃、酒田市中町2丁目にあった映画館「グリーンハウス」のボイラー室から出火。すぐに観客20人は避難したが当日の酒田市は風が強くまたたく間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。火災は西よりの強風によって更に範囲が拡大していく。また、その強風により大量の飛び火や火の粉が発生し、消火活動が思うように進まなかった。翌日30日の午前3時には、新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水と雨の影響で延焼を食い止め、午前5時に鎮火した。

鎮火した翌日の10月31日早朝から、酒田市役所において、山形県・庄内支庁建設部・酒田市都市計画課・建設省などにより「火災復興都市計画」の作業が開始された。この作業は大変スピーディーに行なわれ、翌日の11月1日には「防災都市づくりの計画概要」が完成。この復興計画は「防災都市の建設」を柱とし、「将来交通量に対応した幹線道路の整備」「近代的な魅力ある商店街の形成」「住宅地の生活環境の改善整備」「商店街と住宅街の有機的な結びつけ」を掲げていた。 特に商店街の復興に合わせた災害に対する整備と緑地化が積極的に行なわれ、わずか2年半後の1979年には復興式典が行なわれている。 この復興作業の際、陸上自衛隊が災害派遣として被災地区の残骸撤去を実施(道路確保として)。 通常は行われないが突然の火災ですべてを失った被災者のために法律解釈を変更して実施した。

また、この短期間での都市復興は、1995年に発生した阪神・淡路大震災において参考とされた。

今日という日【10月28日】

■濃尾地震

1891年10月28日。

濃尾地震」は、濃尾地方で発生した、日本史上最大の内陸地殻内地震。「美濃・尾張地震」とも呼ばれる。

1891年10月28日6時38分50秒に発生。震源は、岐阜県本巣郡根尾村(現:本巣市)。規模は当時のデータから後にマグニチュード8.0と推定される。「根尾谷断層帯」が活動した典型的な内陸地殻内地震(直下型地震)であり、これは日本の陸域で発生した地震としては観測史上最大。濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県や福井県にも被害は及んだ。明治時代では最大規模の地震であり、「宇佐美 龍夫」の「新編日本被害地震総覧」によると、死者は7,273人、負傷者17,175人、全壊家屋は14万2,177戸を数えた。震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったという。

電信線が寸断されたこともあって、「濃尾地震」の全容はすぐには把握されなかった。28日、大阪朝日新聞は号外を出し、彦根、四日市以東への電信が不通であること、難波紡績工場が倒壊したことを報じる。東京ではさらに把握が遅れ、東京日々新聞では、29日に金沢や横浜で大地震があったことを報道。30日になってようやく「安政の地震の再来」という認識で地震が報道され、以後情報が正確になっていった。

この地震によって、地質学者の「小藤 文次郎」は断層の地震との関係を確信し、「断層地震説」を主張した。
地震学者「大森 房吉」は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している。地震から100年以上経てもなお、余震が続いている。

今日という日【10月27日】

■霧社事件

1930年10月27日。

霧社事件(むしゃじけん)」は、台中州能高郡霧社(現:南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。

霧社セデック族マヘボ社の頭目「モーナ・ルダオ」を中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。
暴動の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようと「モーナ・ルダオ」の長男、「タダオ・モーナ」が巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特に「モーナ・ルダオ」は警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、暴動を画策したと言われている。

当時の日本社会においては台湾原住民の存在自体が熟知されておらず、雑誌等に興味本位にその風俗などが描かれる程度であった。霧社事件は台湾総督府に対しては強い衝撃を与え、原住民統治の抜本的な改革を迫るものであった。第二次世界大戦後、日本にかわって中国国民党が台湾を統治するようになると抗日教育が行われるようになった。そのため、「霧社事件」は日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動として高く評価されるようになり、蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と称されるようになる。霧社にあった日本人の殉難記念碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。霧社では毎年、霧社事件被害者の遺族らが参加して、犠牲者を追悼する「追思祭典」が開催されている。
1990年代以降、民主化の過程の中で台湾史への再認識がブームとなり原住民文化への再評価が行われるようになると、今度は「霧社事件」は原住民族のアイデンティティーを賭けた戦いとして位置づけられるようになった。この文脈の中で日本による統治は台湾の近代化に対して一定の役割を果たしたと捉えられるようになった関係か、「霧社事件」に関しても抗日教育時代ほどには日本人は悪者として描かれない傾向がある。