今日という日【10月21日】 | 今日は何の日?【トリビアン】で雑学王

今日という日【10月21日】

■神風特別攻撃隊が初出撃

1944年10月21日。

特別攻撃隊」とは、爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器を、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たり、自爆等させる戦死前提の部隊・戦法。「特攻隊」「特攻」とも略する。

組織的特攻として陸軍は本格的な検討が1944年2月頃に始まったと推定され、海軍も計画が同年2月26日「特攻兵器人間魚雷」の試作から始まる。特攻の実行は1944年「レイテ沖海戦」において。
10月17日、「大西 瀧治郎」海軍中将、第一航空艦隊司令長官に着任。特別攻撃隊編成命令下る。
10月21日、海軍、第一次神風特別攻撃隊初出撃。空振りに終わるも大和隊隊長、「久納 好孚」中尉未帰還。組織的体当り攻撃(特攻)戦法の使用を開始した。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、そのほとんど約束を破り、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある。
大西 瀧治郎」は、旧部下と遺族に謝することと未来の若者へ世界平和を尽くしてほしいとの遺書を残し、終戦直後の8月16日に割腹自決した。「宇垣 纏」も終戦の玉音放送後に沖縄の米軍に対して部下11機を自ら率いて特攻を行い命を絶った。
しかし陸軍特攻隊創設者の「富永 恭次」は特攻隊や多くの部下を残したまま、酒と芸者と一緒に敵前逃亡を繰りかえした。また「最後の一機で俺はかならずいくからな」と特攻隊を送り出した陸軍の「菅原 道大」中将は戦後隠遁し養鶏業を営み、特攻関係者や遺族の来訪やマスコミの取材に怯えながら晩年は廃人のようになりながら、95歳まで生きながらえた。機体故障などでやむをえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめおめ帰ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリンチしたことで知られる第6航空軍参謀「倉澤 清忠」少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた。戦後行われた海軍反省会では中央と現場で特攻の指示があったかについてなどの言い争いもあった。