今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -72ページ目

今日という日【11月9日】

■水晶の夜

1938年11月9日。

水晶の夜クリスタル・ナハト)」とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動である。ユダヤ人の住宅、商店地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。ナチ政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。なお、「水晶の夜」という名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたところに「ヨーゼフ・ゲッベルス」が名付けた事にあるとされている。

暴動中、ユダヤ人は殴られたり、辱められたりした。運の悪い者はそのまま殴り殺された。少なくとも96人のユダヤ人が殺害されている。「我が闘争」を朗読させられたり、「ホルスト・ヴェッセルの歌」を暗誦できるまで歌わされた者もいる。希なケースだが強姦されたユダヤ人女性もいた。
シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)やユダヤ人商店・企業の他、ユダヤ人の墓地、病院、学校、家などが破壊された。ベルリンでは12あったシナゴーグの内9つまでが焼き払われた。略奪も多数発生し、保安警察長官「ラインハルト・ハイドリヒ」は「ヘルマン・ゲーリング」に800件の略奪を報告している。
ハイドリヒや保安警察ゲシュタポ局局長「ハインリヒ・ミュラー」の電報での「邪魔をしないように」との命令に基づき警察は暴動をまったく取り締まらなかった。さらに消防隊も炎上するシナゴーグを傍観しているだけだった。消火活動をするのは非ユダヤ人の建物に延焼する恐れがある時だけだった。
破壊され砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから「水晶の夜クリスタル・ナハト)」と呼ばれたが、実際には殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。

ナチスはこのような暴動を「煮えたぎる民族精神の正当な蜂起」などと正当化した。殺人に関与した者は一応逮捕されているが、そのほとんどは訴訟手続きが打ち切られるか、無罪判決だった。一方ユダヤ人女性を強姦した者については「ドイツ人の血と名誉を守る法律」の「人種汚辱罪」で処罰されている。

今日という日【11月8日】

■ヒトラー暗殺未遂事件

1939年11月8日。

ナチス政権下のドイツのような警察国家の体制下では、民衆レベルの組織的反政府運動は極めて困難であった。秘密警察ゲシュタポが国民を厳しく監視し、反政府運動を容赦無く暴力的に弾圧した。その状況下で武器も持たない一般人が、強力な兵器で武装した親衛隊、ドイツ軍に抵抗する事など不可能であった。それでも政権成立当初から第二次世界大戦勃発の1939年頃までは、個人・単独犯や小規模なレジスタンスなどによるヒトラー暗殺は試みられていた。

1939年11月8日、当時36歳の家具職人「ゲオルク・エルザー」によるビアホール「ビュルガーブロイケラ」爆破事件。

ヒトラーは1923年11月8日の「ミュンヘン一揆」を回顧するため、毎年その日にビアホールで約1時間半ほど演説するのが恒例だった。機械工作の才能が有った「ゲオルク・エルザー」は、時計仕掛けの時限装置付き爆弾を製作し、約35日間かけてホール内のコンクリート柱をくりぬいて穴を開け、その中に演説時間内に爆発するようセットした爆弾を仕掛け、演説中のヒトラーを爆殺しようとした。

午後8時、ヒトラーは予定通りにビアホール「ビュルガーブロイケラー」に到着。8時10分頃から演説を開始したが、その日は演説を短縮し、予定を早めて9時12分頃にはビアホールから出た。数分後の9時20分、爆弾が爆発し8人が死亡、63人が負傷した。負傷者の中には「エーファ・ブラウン」の父親もいた。折りしも第二次世界大戦勃発から2ヶ月、、ヒトラーは情勢の検討と西方攻撃作戦の準備のため、至急ベルリンへ戻る予定だった。11月8日夜は悪天候のため飛行機ではなく、時間のかかる列車でミュンヘンからベルリンへ移動するため、例年より早めに演説を終了し会場から退席する事となり、運良く爆発に巻き込まれなかった。その日の夜、スイスへの国境侵犯の疑いで「ゲオルク・エルザー」は逮捕された。当初は爆破事件の容疑者とは見なされていなかったが、現場の写真や爆弾の設計図を所持していたため、やがて爆破事件の容疑者として追及される。共犯者や背後関係が疑われ、ナチスによる自作自演説も流れたが、結局はエルザーの単独犯行とされている。彼はザクセンハウゼン次いでダッハウの強制収容所に収監され、大戦終結直前の1945年4月9日に殺害された。

この事件以後、爆発物の管理が厳重になり、その結果大掛かりな抵抗運動がやりにくくなった事は否定できない。

今日という日【11月7日】

■青島の戦い終結

1914年11月7日。

青島の戦い(ちんたおのたたかい)」は、第一次世界大戦中の1914年に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した戦闘。

第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。

1914年10月31日、「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上で「神尾 光臣」中将(後に大将)指揮する第18師団(約29,000人)と第二艦隊は攻撃を開始。ドイツ軍兵力は約4,300人であった。
ドイツの青島要塞攻略にあたり、日本陸軍は白兵戦ではなく砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要とした。最新鋭の移動できる四五式二四センチ榴弾砲をはじめ、三八式一五センチ榴弾砲、三八式一〇センチ加農砲など、砲撃によりドイツ軍要塞を無力化した。ドイツ軍将校は戦後「余の砲台は(陸軍の砲撃により)殆ど破壊されて了った!」と感嘆したほどだった。

11月6日、青島要塞総督ワルデック少将は、タウベに秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させた。タウベは脱出に成功し、青島要塞には二度と戻らなかった。11月7日午前6時60分、ドイツ軍は白旗を掲げ、午前9時20分にドイツ側軍使のルードヴィヒ・ザークセル大佐とカイゼル少佐が日本側軍使の「香椎 浩平」少佐に降伏状を届ける。

11月7日午後7時50分に両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落した。