今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -71ページ目

今日という日【11月12日】

■第二次羽田事件

1967年11月12日。

羽田事件」とは、1967年10月から11月にかけ、日本東京都大田区で発生した新左翼による佐藤栄作外国訪問阻止行動である。新左翼側は「羽田闘争」と呼び、特に10月8日の「第一次羽田闘争」は「10.8ジッパチ)」と呼ばれた。ベトナム戦争で日本が米国を支援することに反対したものである。

佐藤内閣はベトナム戦争に際し、軍事基地、弾薬庫、野戦病院の提供を通じてアメリカ合衆国を後方支援していた。

1967年11月12日、佐藤首相がアメリカに訪問することになった。
新左翼各派は京急本線の京浜蒲田駅(現:京急蒲田駅)に集合し、羽田空港に向けて出発した。そして大鳥居駅付近で機動隊と衝突。新左翼は機動隊の壁を突破するために丸太を抱えて機動隊に突っ込んだ。「第一次羽田事件」を上回る347人が検挙された。

この事件は、新左翼が単独で起こした初の暴力デモであり、以降各地で左翼暴動が頻発することになった。当時は機動隊に大楯が装備されておらず、投石や角材による殴打で多数の機動隊員が負傷したことをきっかけに、軽合金製の大楯の装備化が急速に進められることとなった。

羽田事件」で新左翼は60年安保における「樺 美智子」以来の死者を出す一方、日本共産党は同じ日に赤旗まつりを開催していた。このことは、当時の学生に「闘う新左翼、闘わない共産党」という印象を与え、新左翼の過激な闘争が学生運動の中で支持を広げることになる。また、この時初めて本格的に登場したヘルメットと角材(ゲバ棒)は、以降の新左翼を特徴づけるスタイルとなる。
翌年4月の「沖縄デー闘争」までの七ヶ月間は、新左翼による大規模な実力闘争がいくつも行われ、「激動の七ヶ月」と呼ばれる。この間に新左翼のデモのありかたは、前述のヘルメット、ゲバ棒の定着をはじめ、大きく変化した。

今日という日【11月11日】

■平成11年11月11日飯田風越郵便局事件

1999年11月11日。

平成11年11月11日木曜日、取扱局番号11111の飯田風越郵便局(長野県飯田市)には、「1」の並びの預入をしようと約200人の行列ができ、1日で1,000人以上が訪れた。

3台分しかない駐車場はこの行列に使われたため、路上駐車する車が絶えず、警察が取り締まりに来る騒ぎにもなったが、局員および近隣の店舗などの協力によりキップを切られることは回避された。この日、飯田風越郵便局の取扱件数は約2,600件で、これは普通郵便局である飯田郵便局の約1週間分の業務量となった。貯金窓口での取扱い時間16:00を過ぎた分については局預かりとし、後日郵送することで対応した。
同局を訪問した人には愛好者以外も多かったが、これはぞろ目の話がテレビのワイドショーで紹介されたことによる。

なお取扱局番号12121を持つ新潟沼垂(ぬったり)郵便局は翌年平成12年12月12日にぞろ目となったが、通常よりやや多い程度の客数で、業務に全く支障はなかったという。これに続くぞろ目は平成22年2月22日月曜日、取扱局番号22222の亀山井田川郵便局(三重県亀山市: JR関西本線井田川駅前)となった。印字パターンから年月日欄が「22-02-22」となり、飯田風越郵便局のように完全なぞろ目とはならなかったものの、当日の営業開始前には記念預入をする人の行列ができた。記念目的の利用者は200人弱で、午後に入ると局前の列は短くなった。

このあとは取扱局番号33333に該当する局はなく、取扱局番号44444は山城南加茂台郵便局(京都府木津川市)であるが、該当する平成44年4月4日は日曜日となる。

今日という日【11月10日】

■紀元二千六百年記念行事

1940年11月10日。

紀元二千六百年記念行事」とは、1940年に神武天皇即位紀元皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。

西暦1940年が神武天皇の即位から2600年に当たるとされたことから、日本政府は1935年に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立された。また、研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。

日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年には、年初のの橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が全国各地で催された。

1940年11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。

長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。