今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -32ページ目

今日という日【3月2日】

■中ソ国境紛争

1969年3月2日。

中ソ国境紛争」は、中華人民共和国とソビエト連邦の国境問題により生じた紛争。1969年3月2日、15日にアムール川(中国語名:黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(中国語名:珍宝島)の領有権を巡って大規模な軍事衝突が発生。同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に発展した。同じ共産党独裁国家でありながら、かつて蜜月を誇った中華人民共和国とソビエト連邦の対立が表面化した事件でもあった。

1950年代後半の「ニキータ・フルシチョフ」首相によるスターリン批判以降、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違い・領土論争をめぐって緊張が高まり、1960年代末には4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。在北京ソビエト連邦大使館に対する紅衛兵の襲撃や、国境地帯での発砲事件など両国の小規模な衝突は度々起きていたものの、本格的な軍事衝突は起きないままでいた。

1969年3月2日、極東のウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突が起こった。これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張。戦闘で31人の死者と14人の負傷者を出したソ連軍は、中華人民共和国東北部国境に展開している中国人民解放軍に砲撃を行い、ダマンスキー島に部隊を突入。ソ連側はこの攻撃で80人の死傷者を出し、中華人民共和国側に死者800人の損害を与えたとの記録が残っている。またソ連側によると、中国人民解放軍部隊が民間人・農民・家畜に部隊を囲ませながら前進する戦術を取ったという。中華人民共和国側の記録にはソビエト軍に大きな損害を与え、自軍の死者はごく少なかったとある。なおこの時、少なくとも1輌のT-62が中華人民共和国側に鹵獲されている。

今日という日【3月1日】

■奉天会戦

1905年3月1日。

奉天会戦」は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた、日露戦争最後の海戦。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の「日本海海戦」の結果を待つことになる。参加兵力は大日本帝國陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側「大山 巖」(実質的には参謀長の「児玉 源太郎」)、ロシア側「アレクセイ・クロパトキン」。

ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に「血の日曜日事件」があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝「ニコライ2世」への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。
日本軍は緒戦から危うい勝利を拾い続け、ここまでなんとか全体での優勢を保っていたが、国力の限界を超えて軍に補給を続けなくてはならなかった。また、ロシア軍を追って満州の奥深くへ進撃を続けたため、兵站の維持や兵力の補充はさらに困難になり、旅順攻囲戦の激しい消耗を経て戦争の継続自体が危うい状況になっていた。
1905年3月、満州軍首脳は、奉天で増援を待つロシア軍に対して、日本軍有利の今の内に講和を結ぶため、賭けとも言える総力戦を挑んだ。「大山 巌」は「本作戦は、今戦役の関ヶ原とならん」と訓示し、その決意を将兵たちに示した。

今日という日【2月28日】

■ビスケットの日

1980年2月28日。

ビスケットの日」は、日本で1980年に社団法人全国ビスケット協会が制定した記念日。

1855年2月28日、パンの製法を学ぶために長崎に留学していた水戸藩士の蘭医「柴田 方庵」が、オランダ人から学んだパン・ビスケットの製法を書いた「パン・ビスコイト製法書」を同藩の「萩 信之助」に送った。これが、ビスケットの製法を記した日本初の文書とされている。
また、ビスケットの語源がラテン語で「2度焼かれたもの」という意味の「ビス・コクトゥス(bis coctus)」であることから、「に(2)どや(8)かれたもの」の語呂合せの意味も持たせている。