今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -29ページ目

今日という日【3月11日】

■スペイン列車爆破事件

2004年3月11日。

スペイン列車爆破事件」は、スペインの首都マドリードで起こった爆弾テロ。191人が死亡2,000人以上が負傷した。2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ」と並び、日付から「3.11事件」と、スペインでは「11-M(Mはスペイン語で3月を意味するmarzoから取られている)」と呼称される。

2004年3月11日の早朝(現地時間7:36~7:40の間)、スペイン・マドリード市内のセルカニーアス(近郊鉄道)のアトーチャ駅など3つの駅で大規模な爆発が起こった。アトーチャ駅に入ろうとした電車で1回目の大きな爆発。その1分以内に同じ列車で2つの爆発が起こった。それとちょうど時を同じくしてマドリッド市内にあるエル・ポソ駅に停車中の電車で2つ、サンタ・エウヘニア駅では1つの爆発で客車が破壊された。そして7時39分にマドリッドの中央駅アトーチャ駅から500mの地点で他の列車で4つの爆発が起こった。合計で10回の爆発。列車の車内に仕掛けられた時限爆弾によるものと見られている。狙われた車両は全てアルカラ・デ・エナーレスとマドリードのアトーチャ駅を結ぶ路線の同じ方向の列車だった。

駅の建物や列車が激しく損壊、通勤ラッシュの時間帯のため被害は拡大し、191人が死亡、2,000人以上が負傷する大惨事となった。事件の当初は、スペインから分離独立を目指して紛争を続ける「バスク祖国と自由(ETA)」 による犯行かと疑われた。しかし、ETAはすぐに関与を否定する声明を出し、警察も早い段階でETAの事件との関連は薄いと判断した。
犯行後、「アブー・ハフス・アル=マスリー殉教旅団」と称するイスラーム過激派系のテロリストグループがロンドンのアラブ系有力紙に犯行声明を出した。「死の部隊が欧州の深部に浸透し、十字軍の柱の一つであるスペインを攻撃し痛打を与えることに成功した」「(スペイン首相)アスナールよ、米国はどこだ。だれがお前を我々から守ってくれるのか。英国、日本、イタリア、そのほかの協力者か?」などと、電子メールを使って送ってきた。

警察当局は13日、実行犯とするモロッコ人3人とインド人2人を逮捕したと発表。しかし、実際に刑が確定されたのは、その後大量に逮捕された容疑者の中で16歳のアラブ系少年だけ。その後、テロに関与したとされる28人の被告の公判が2007年10月31日にあり、21人の被告に有罪判決(残る7人の被告は無罪)が下され、特に主犯格のモロッコ人「ジャマル・ゾガム」ら2人の被告には約4万年の禁固刑という非常に長い刑期が言い渡された。スペイン史上最悪のテロ事件ではあるが、スペインには死刑や終身刑の制度がないため、このような判決になったと思われる。しかし、制度上、実際の刑期は40年程度に留まるものと見られている。

今日という日【3月10日】

■島田事件

1954年3月10日。

島田事件」は静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、殺人死体遺棄事件。被告人が死刑の確定判決を受けたが再審で無罪になった冤罪事件。日本弁護士連合会が支援していた。四大死刑冤罪事件の一つ。

この事件では、男性の犯罪の証拠とされたものは事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。男性に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、男性の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。男性は結果として再審による無罪判決は得たが、34年8ヶ月間の身柄拘束され29年8ヶ月は死刑囚として暮らす生活を送った。

無実の男性を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。

今日という日【3月9日】

■明号作戦

1945年3月9日。

明号作戦」は、第二次世界大戦末期の1945年3月9日、フランス領インドシナにおいて、日本軍がフランス軍を攻撃し制圧した作戦。

1940年と1941年に、日本はヴィシー政権との協定に基づき、フランス領インドシナに軍隊を展開させた(仏印進駐)。その後の太平洋戦争中もフランスのインドシナ植民地政府が統治は続けており、軍事面では日本の印度支那駐屯軍とフランス軍が共同警備の形式をとっていた。フランス軍は大型艦艇の武装解除をされるなどしたものの、基本的には従来のままの戦力を維持。しかし、ヨーロッパ方面での枢軸国軍の戦況が悪化するにつれ、日本では外務省から、フランス植民地政府を解体してしまうべきだとの意見も出始めた。

1945年に入ると、フランスのヴィシー政権は崩壊し、太平洋における日本の敗色も濃くなってきた。「ジャン・ドクー」仏印総督は1944年2月18日の時点で、本国との連絡が途絶えた場合はペタン元帥から全権を与えられることとなっていた。

在インドシナのフランス軍が次第にドゴール寄りの行動を取り始めたことから、日本陸軍は、やがて上陸が予想される連合軍部隊との間で挟撃される可能性があると警戒し始めた。司令部は、フランス軍を武装解除する作戦計画の検討を始め、これを最終的に「明号作戦」と命名。この間、第38軍司令官「土橋 勇逸」中将は、1944年末に行った会談での仏印側首脳の反応から、共同防衛は困難と判断していた。最後通牒としての要求事項は、1945年2月1日の最高戦争指導会議において決定された。2月28日、大本営は南方軍に対して、3月5日~10日の間に「明号作戦」を発動するよう命じた。大本営からの指示に基づき、土橋第38軍司令官は1945年3月9日21時の作戦発動を決めた。