今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -28ページ目

今日という日【3月14日】

■根岸短歌会

1899年3月14日。

根岸短歌会」は、「正岡 子規」が主催した短歌結社。名前は「子規庵」の住所(東京下谷上根岸)に由来し、「子規庵」での歌会から始まり、後にアララギ派に発展。

当時の「正岡 子規」は、闘病生活の傍ら新聞「日本」や俳誌「ホトトギス」「心の花」などで活動、俳句や短歌の改革を唱え、俳句の近代化に成功。そして1898年(明治31年)に「歌よみに与ふる書」を発表、万葉への回帰と写生による短歌を提唱して、写実的な短歌の実践を試みる。

根岸短歌会」は1899年(明治32年)3月14日に「子規庵」で開かれた歌会を源流とし、同郷の後輩である「高浜 虚子」や「河東 碧梧桐」らにより結成され、「伊藤 左千夫」や「長塚 節」らも参加。これらの参加者は、根岸派とも呼ばれることになる。

子規の没後、1903年(明治36年)に機関誌「馬酔木」が発行され、「根岸短歌会」参加者に加え「島木 赤彦」や「斎藤 茂吉」らも参加し、これが歌誌「阿羅々木」(後のアララギ)へと発展していくことになる。

今日という日【3月13日】

■大阪大空襲

1945年3月13日。

大阪大空襲」は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った、大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃の総称。
1945年3月13日深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で一般市民10,000人以上が死亡したと言われる。

第1回大阪大空襲」は、1945年3月13日23時57分~14日3時25分の約3時間半にわたり行われた。B-29が274機襲来。グアムからの第314航空団の43機が23時57分~14日1時にかけて大阪市上空に達した。米軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区は米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987人の死者と678人の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。

3月13日、14日の大空襲は深夜に行われた。難波、心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。通常、この時間には地下鉄は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずであった。しかし、このときに心斎橋駅や本町駅、大国町駅に入り、電車に乗って避難したという体験者が複数存在する。
この話は長く知られてこなかったが、1997年3月に朝日新聞の「声」欄に、京都大学名誉教授の「村松 繁」による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された。これを受けて大阪市交通局の労働組合(大阪交通労働組合)が調査を開始。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほとんどなく、当時の証言を集めることとなった。この動きを知った毎日新聞大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載。組合は1998年3月に機関紙「大交」に2回に渡って記事を掲載した。

毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3時~4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「梅田の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは天王寺駅行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「憲兵が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3時~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。

一方「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る(お送り電車)ではなかったでしょうか」という推測を述べている。

この避難列車については、NHKが1998年3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送。それから9年後の2007年7月25日深夜にフジテレビが「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほとんどないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。
一方、1997年の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、2009年の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている。

今日という日【3月12日】

■塩の行進

1930年3月12日。

塩の行進」は、1930年に「マハトマ・ガンディー」並びに彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約380kmを行進した抗議行動のこと。この行進は3月12日から4月6日まで続き、インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。

塩の行進は全インド中に同様の非暴力不服従運動を及ぼした。塩の専売制度を巡る非暴力の「戦い」は続き、同時に英国製の服や商品の不買運動がおきた。インドの海岸のいたるところで塩が「非合法的に」販売された。ガンディーが作った最初の塩は1,600ルピー(当時の750ドルに相当)で売られた。
1930年5月4日の夜、ガンディーがダンディー海岸の近くの村のマンゴーの木の下にある簡易ベッドの上で眠っていた夜半過ぎにスーラトの警察判事が2人のインド人と30人の重装備をした警官を同伴しガンディーを法違反で逮捕した。

塩の行進」は植民地国家の地着民衆が動いたことで植民地政策を行っている国家の関心事となった。ガンディーは刑務所から釈放された後もインドの独立へ向けて働き続け1947年、インドは独立。ガンディーはインド独立の一つの転換点となった。