今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -23ページ目

今日という日【3月29日】

■モスクワ地下鉄爆破テロ

2010年3月29日。

2010年3月29日の午前7時55分から8時39分ごろまでに、ロシア連邦の首都モスクワの地下鉄サコーリニチェスカヤ線のルビヤンカ駅とパルク・クリトゥーリ駅の2箇所で連続して爆発が起きた。
まず午前7時55分にルビヤンカ駅に停車中の列車の前から2両目で爆発が発生し、24人が死亡し20人が負傷。この爆発から約30分後にルビヤンカ駅と同じ路線で4駅離れたパルク・クリトゥーリ駅で停車中の車両に前から3両目で爆発が発生し12人が死亡し15人が負傷した。事件の発生した時刻はラッシュアワーで地下鉄は多くの利用客で混雑していたため現場は大混乱に陥った。数時間にわたり地下鉄の運行はストップし、モスクワ中心部への通行は停止された。市民はバスなどの代替輸送手段を利用することになったが、地下鉄の運行が事故現場以外で再開しても爆発を恐れて地下鉄の利用を取りやめる市民が多く見られた。

このテロは2009年の「モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロ」や2004年の「モスクワ地下鉄爆破テロ」、「ベスラン学校占拠事件」、2002年の「モスクワ劇場占拠事件」とともに、「チェチェン分離独立派(チェチェン・イチケリア共和国)」や「カフカス首長国」が関与していると考えられている。1999年の「第二次チェチェン紛争」終結後以来、チェチェン分離独立派などは世俗からイスラーム原理主義へとアプローチを移しており、イスラーム過激派によるテロがロシアで発生している。イスラーム過激派は北カフカスに「カフカス首長国」というイスラーム国家を樹立することを悲願としており、そのためのロシア政府に対するテロは「ジハード」であり、テロリストはムジャヒディン(イスラーム戦士)と認識している。2002年以来、この「ジハード」に5,000人以上の死傷者が出ている。

今日という日【3月28日】

■千鳥ケ淵戦没者墓苑竣工

1959年3月28日。

千鳥ケ淵戦没者墓苑」は、東京都千代田区三番町にある戦没者の納骨堂。第二次世界大戦の折に日本国外で死亡した日本軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨や引き取り手のない遺骨を安置するためつくられた。「千鳥ヶ淵」とも表記される。

多くの日本人は、その宗教観から遺骨を重視し、また、外国で斃れた者の遺骨は故国故郷に安置して慰霊すべきと考える。
第二次世界大戦により、海外で死亡した日本人(海外戦没者)の数は、約240万人(軍人軍属:約210万人、一般邦人:約30万人)に及ぶとされる。終戦後、海外戦没者の遺骨は、復員者により持ち帰られ、あるいは、アメリカ軍から送還された。さらに、連合国軍による占領統治からの独立を果たした1952年(昭和27年)4月頃から、日本政府も国外戦没者の遺骨収集を開始。これら国外戦没者の遺骨のうち、身元の判明した分については遺族に引き渡された。身元不詳の遺骨や引き取り手のない遺骨については厚生省(遺骨収集事業を所管)の本省庁舎や市ヶ谷庁舎に仮安置され、その増加につれ、安置・慰霊方法の確立が求められた。

政府は、終戦後早くから、各国にある「無名戦士の墓」のような慰霊施設の建設を企図していた。独立後、その動きは、日本遺族会・日本宗教連盟・海外戦没者慰霊委員会・全日本無名戦没者合葬墓建設会等の諸団体の活動や身元不詳遺骨の増加もあって活発になる。公的な慰霊施設建設については、日本国憲法が定める政教分離原則との牴触も懸念されたが、内閣法制局・厚生省・文部省等による検討の結果、支障なしとの結論に至る。諸団体の意見を聴取し、関係機関や有識者による検討を経た後、1953年(昭和28年)12月11日、「戦没者遺骨の内、氏名判明せざるもの並びに遺族不明のためお渡しできぬものを、国が建設する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において維持管理する」との方針を閣議決定。
この閣議決定の後も、施設の名称・性格・敷地等について各方面から様々な意見が交わされた。1956年(昭和31年)11月には千鳥ケ淵の宮内庁管理地(旧賀陽宮邸跡)に敷地が定められ、1958年(昭和33年)7月に着工、1959年(昭和34年)3月28日に竣工した。この日、厚生省主催の竣工および追悼式が執り行われ、昭和天皇と香淳皇后が臨席し、内閣総理大臣等が参列した。

今日という日【3月27日】

■機雷封鎖作戦「飢餓作戦」

1945年3月27日。

1945年(昭和20年)3月下旬、沖縄諸島への連合国軍侵攻が迫り、日本の東南アジア方面との南方航路は閉鎖に追い込まれた。これにより、日本に残されたシーレーンは、大連など華北との航路と羅津など朝鮮半島に向かう航路のほか、本土内航路のみとなった。これらの残存航路では、本土決戦に向けた部隊・軍需物資の本土集結と、国民生活に必要な食糧や石炭の輸送が行われていた。特に、雑穀や塩、石油代用の穀物油の輸入が重要視されていた。
連合国側は、日本のシーレーンに対する通商破壊を、主に潜水艦と航空機によって行ってきた。特にアメリカ海軍の潜水艦は多大な成果を上げていたが、残された航路が沿岸に限られてくると、潜水艦による攻撃は難しくなってきていた。そこで、「チェスター・ニミッツ」元帥率いるアメリカ海軍が中心となって日本本土周辺に対する機雷による海上封鎖作戦が立案され、「飢餓作戦」と命名。アメリカ陸軍航空軍の第20空軍所属のB-29爆撃機が、マリアナ諸島から出撃して敷設任務の主力を担当することになった。これまでもパラオ大空襲などで航空機雷の投下が一定の成果を上げていたが、本作戦は戦史上でも空前の規模の攻勢機雷作戦であった。

1945年3月27日、第1期作戦として、関門海峡周辺や瀬戸内海西部への機雷投下が開始された。第1期作戦は沖縄戦と連動したもので、呉軍港や宇品港から日本軍の救援部隊が沖縄に向かうのを妨害する目的があった。

まもなく日本の降伏により太平洋戦争は終結したが、「飢餓作戦」で投下された機雷は約6,600個が日本周辺海域に残存し、戦後も日本の海運に影響を与えた。舞鶴港で貨客船が触雷沈没し549人が死亡した「浮島丸事件」(1945年8月24日)、475人が死亡した「室戸丸沈没事故」(同年10月7日)、193人死亡の「女王丸沈没事故」(1946年1月28日)などが起きている。1950年までに118隻(掃海艦艇含む)が触雷し、うち55隻が沈没している。
21世紀に入っても、海上自衛隊は自衛隊法84条の2に基づく機雷処理業務を続けており、年平均4個を処理している。一例として、2010年5月29日には神戸港沖で浚渫工事に従事していた潜水士が埋没していた機雷を発見、6月12日に爆破処理された。2006年には掃海済み海域が約99%となっている。