今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -24ページ目

今日という日【3月26日】

■沖縄戦

1945年3月26日。

沖縄戦」「沖縄の戦い」とは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名は「アイスバーグ作戦」。
第二次世界大戦における日本国内での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘。「国内唯一の地上戦」と称される事があるが、内地である千島列島における「占守島の戦い」や「樺太の戦い」、当時は日本の委任統治下だった南洋諸島における「サイパンの戦い」なども発生していることから、必ずしも正確な表現ではないまた、「硫黄島の戦い」があるため、「(沖縄戦は)現在の日本の領土内では唯一の地上戦」という認識も誤りである。

沖縄戦」は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日~6月23日に終了。アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦(持久戦)」を意図するという不統一な状況であった。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、「ペリリューの戦い」「硫黄島の戦い」で行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現:那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われたほか、飛行場制圧のため陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド部隊も投入した反撃が試みられた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。

陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。

今日という日【3月25日】

■岡山駅突き落とし事件

2008年3月25日。

岡山県岡山市のJR岡山駅のホームで大阪府に住む19歳少年が、帰宅途中の岡山県職員の38歳男性を線路に突き落とした。38歳男性は電車にはねられ、翌3月26日に死亡。事件直後に鉄道警察隊が駆けつけた時に、少年が犯行を認めたため、逮捕。また、JR西日本は、発生直後から当駅を通る列車の運転を見合わせた。

少年は事件当日朝に家出していたため、両親が同日夜に大阪府警察四條畷警察署に家出人捜索願を出していた。また、少年は、2001年1月の「新大久保駅乗客転落事故」の例を挙げ、「ホーム下に人を落とせば、電車にはねられて死ぬ。人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」と供述した。また刃渡り約12cmの果物ナイフを所持していた。

高校時代の少年は成績優秀で、学校推薦で国立大学進学を希望していたが、家庭が学費を払えないことから進学を断念せざるを得なかった(家庭は阪神・淡路大震災で家を失っていた罹災者)。少年は進学をあきらめきれず、高校卒業後に自力でお金をためようとしたが勉強時間を確保できるようなバイトが見つからなかった。少年の家族環境は、実父とは親子というよりも友達のような人間関係だったが、実父から「好きなところに行って鍛えろ」と突き放すような一言が、少年を「殺人しかない」と追い込む絶望的な心境に追い詰めた。岡山地方検察庁による簡易精神鑑定では広汎性発達障害と診断された。

2009年6月17日、岡山地方裁判所は、少年に対して懲役5年以上10年以下の不定期刑を言い渡した。

今日という日【3月24日】

■コソボ空爆

1999年3月24日。

コソボ空襲」は「アライド・フォース作戦」と呼ばれ北大西洋条約機構 (NATO) 加盟諸国がコソボ紛争中に実施した航空攻撃を主とする作戦。作戦名の「Allied Force」とは「連合軍」の意。
ユーゴスラビア連邦共和国の首都であるベオグラードやコソボ、モンテネグロの軍事施設に限定された攻撃であったが、NATOはセルビア系による民族浄化など不法行為を根拠にユーゴスラビアの全域を攻撃の対象とするようになった。そのため、「ユーゴ空爆」とも呼ばれることがある。

この空爆は、そもそもユーゴスラビアが和平交渉において、合意文章に調印しなかったために起きたものだが、ユーゴ政府が調印しなかった理由として、和平交渉の期限切れ直前にアメリカが提出した付属文章B (Annex B) の存在がある。その内容は、「コソボのみならずユーゴスラビア全域でNATO軍が展開・訓練でき、なおかつ治外法権を認めよ」という、ユーゴスラビアの占領化を意味するようなものであった。空爆終了後、この「アネックスB」の存在が公表され、ドイツなどではメディアに公開されなかったことを問題視した。
そもそもNATOの中でもアメリカとイギリス以外は空爆に消極的、又は否定的だったといわれていた。