今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -25ページ目

今日という日【3月23日】

■能登半島沖不審船事件

1999年3月23日。

能登半島沖不審船事件」は、不審船による日本領海侵犯事件とその逃走時に生起した海上自衛隊及び海上保安庁による追跡行の一連の騒動を指す。

最初に特異な兆候が発生したのは1999年3月18日。北朝鮮の諜報員が使用する無線局「A-3」に変化が発生。この兆候は電波による情報活動(シギント)を任務とする自衛隊の情報本部電波部、警察庁警備局の外事技術調査官室、また米軍の情報機関などによって傍受されたものとみられている。
翌日の3月19日には清津にある工作船基地から工作船が出航した旨の衛星情報が在日米軍司令部経由で情報本部に寄せられた。また、北朝鮮が「日本にある重要なブツを持ち込む」との情報が韓国の情報機関国家情報院(NIS)から公安調査庁(PSIA)に寄せられたともいわれる。しかし、この時点では差し迫った脅威がなかったことから特に対策はとられなかった。
事態が急展開したのは3月21日。この日の午後10時頃、日本海の能登半島東方沖の海上から不審な電波発信が続けられているのを各関係機関が一斉に傍受。さらに深夜には「A-3」にも異常がみられたという。これらの情報を踏まえ、3月22日15時に海上自衛隊舞鶴基地から護衛艦「はるな」、「みょうこう」、「あぶくま」が緊急出港。法的根拠は防衛庁設置法に基づく「調査・研究」とした。同時に警察庁から日本海側各県の警察に対して沿岸の警戒強化を呼びかける「KB(KOREAN-BOAT)参考情報」が発せられた。

海上自衛隊八戸航空基地から飛び立って上空を捜索していたP3-C哨戒機が、翌3月23日6時42分佐渡島西方18kmの日本領海内に「第一大西丸」と記された船を発見、9時25分能登半島東方64kmに「第二大和丸」と記された船を発見。不審点があったことから、これらの船名を漁協に問い合わせたところ、第一大西丸は既に廃船、本物の第二大和丸は兵庫県沖で操業中である事が判明し、海上自衛隊によって追跡が始まった。また、航空自衛隊が情報収集のため、三沢基地所属のE-2C早期警戒機を海域上空に派遣した。

この事件で、北朝鮮の偽装船が日本の領域で暗躍していることが、一般にも知られるようになった。この事は、前年(1998年)の「テポドン事件」と合わせ、日本の世論に大きな影響を与えている。また、自衛隊における2回目の武器使用事案(1回目:ソ連空軍偵察機による沖縄本島領空侵犯時の威嚇射撃)すなわち「実戦」経験という点で、自衛隊の歴史上も重要な事件。また、追跡の際、海上保安庁の船艇の速力が不審船や護衛艦に比べて大幅に劣り、不審船事案に有効に対応できないことが露呈したため、以降に新造される巡視船艇の能力が大幅に向上されるようになった。

今日という日【3月22日】

■ジャパンタイムズ創刊

1897年3月22日。

この日、初の日本人の経営・編集による日刊英字新聞「ジャパンタイムズ」が創刊した。

現在は、日刊紙「The Japan Times」の他、1週間の内容をまとめた「The Japan Times Weekly」、また英語学習者向けの「週刊ST」を刊行。世界情勢を日本在住の外国人に向けて解説し、英語教材としても利用される。
紙面は「ジャパンタイムズ」のスタッフの記事の他、AP通信、共同通信社、AFP通信、時事通信社、ブルームバーグ、ワシントン・ポスト、ロサンゼルス・タイムズ等の記事で構成されている。内容は幅広く、また他国内英字紙と比べ英文記者が多いため独自取材記事が豊富。「ジャパンタイムズ」の論説opinionページは大学入試に利用されることもある。
モットーは「ALL THE NEWS WITHOUT FEAR OR FAVOR(厳正公正な報道)」であり、毎号、題字の上に印刷されている。

今日という日【3月21日】

■函館大火

1934年3月21日。

函館大火」は、北海道函館市で発生した火災。
死者2,166人、焼損棟数11,105棟を数える大惨事となった。函館ではこれ以前にも1,000戸以上を焼失する大火が10回以上発生しているが、一般的に発生年を付さない場合には1934年の火災を指す。

函館は江戸時代から栄えた港町であったが、しばしば大火に襲われ、市内の至る場所が火災の被害に遭っており、中でも1934年の火災は最大規模となった。
当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風に見舞われていた。早春の日が落ちて間もない午後6時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって半壊し、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった。さらに強風による電線の短絡も重なり、木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。時間の経過とともに風向きは南から南西、そしへ西風へと時計回りに変っていったため火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失する規模となった。死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者917人、また溺死しないまでも凍死した者217人もいた。

20世紀前半の災害であるが、現在も函館市民の記憶に留められる災害であり、現在も火災発生日には慰霊祭が営まれている。