今日という日【3月27日】
■機雷封鎖作戦「飢餓作戦」
1945年3月27日。
1945年(昭和20年)3月下旬、沖縄諸島への連合国軍侵攻が迫り、日本の東南アジア方面との南方航路は閉鎖に追い込まれた。これにより、日本に残されたシーレーンは、大連など華北との航路と羅津など朝鮮半島に向かう航路のほか、本土内航路のみとなった。これらの残存航路では、本土決戦に向けた部隊・軍需物資の本土集結と、国民生活に必要な食糧や石炭の輸送が行われていた。特に、雑穀や塩、石油代用の穀物油の輸入が重要視されていた。
連合国側は、日本のシーレーンに対する通商破壊を、主に潜水艦と航空機によって行ってきた。特にアメリカ海軍の潜水艦は多大な成果を上げていたが、残された航路が沿岸に限られてくると、潜水艦による攻撃は難しくなってきていた。そこで、「チェスター・ニミッツ」元帥率いるアメリカ海軍が中心となって日本本土周辺に対する機雷による海上封鎖作戦が立案され、「飢餓作戦」と命名。アメリカ陸軍航空軍の第20空軍所属のB-29爆撃機が、マリアナ諸島から出撃して敷設任務の主力を担当することになった。これまでもパラオ大空襲などで航空機雷の投下が一定の成果を上げていたが、本作戦は戦史上でも空前の規模の攻勢機雷作戦であった。
1945年3月27日、第1期作戦として、関門海峡周辺や瀬戸内海西部への機雷投下が開始された。第1期作戦は沖縄戦と連動したもので、呉軍港や宇品港から日本軍の救援部隊が沖縄に向かうのを妨害する目的があった。
まもなく日本の降伏により太平洋戦争は終結したが、「飢餓作戦」で投下された機雷は約6,600個が日本周辺海域に残存し、戦後も日本の海運に影響を与えた。舞鶴港で貨客船が触雷沈没し549人が死亡した「浮島丸事件」(1945年8月24日)、475人が死亡した「室戸丸沈没事故」(同年10月7日)、193人死亡の「女王丸沈没事故」(1946年1月28日)などが起きている。1950年までに118隻(掃海艦艇含む)が触雷し、うち55隻が沈没している。
21世紀に入っても、海上自衛隊は自衛隊法84条の2に基づく機雷処理業務を続けており、年平均4個を処理している。一例として、2010年5月29日には神戸港沖で浚渫工事に従事していた潜水士が埋没していた機雷を発見、6月12日に爆破処理された。2006年には掃海済み海域が約99%となっている。
1945年3月27日。
1945年(昭和20年)3月下旬、沖縄諸島への連合国軍侵攻が迫り、日本の東南アジア方面との南方航路は閉鎖に追い込まれた。これにより、日本に残されたシーレーンは、大連など華北との航路と羅津など朝鮮半島に向かう航路のほか、本土内航路のみとなった。これらの残存航路では、本土決戦に向けた部隊・軍需物資の本土集結と、国民生活に必要な食糧や石炭の輸送が行われていた。特に、雑穀や塩、石油代用の穀物油の輸入が重要視されていた。
連合国側は、日本のシーレーンに対する通商破壊を、主に潜水艦と航空機によって行ってきた。特にアメリカ海軍の潜水艦は多大な成果を上げていたが、残された航路が沿岸に限られてくると、潜水艦による攻撃は難しくなってきていた。そこで、「チェスター・ニミッツ」元帥率いるアメリカ海軍が中心となって日本本土周辺に対する機雷による海上封鎖作戦が立案され、「飢餓作戦」と命名。アメリカ陸軍航空軍の第20空軍所属のB-29爆撃機が、マリアナ諸島から出撃して敷設任務の主力を担当することになった。これまでもパラオ大空襲などで航空機雷の投下が一定の成果を上げていたが、本作戦は戦史上でも空前の規模の攻勢機雷作戦であった。
1945年3月27日、第1期作戦として、関門海峡周辺や瀬戸内海西部への機雷投下が開始された。第1期作戦は沖縄戦と連動したもので、呉軍港や宇品港から日本軍の救援部隊が沖縄に向かうのを妨害する目的があった。
まもなく日本の降伏により太平洋戦争は終結したが、「飢餓作戦」で投下された機雷は約6,600個が日本周辺海域に残存し、戦後も日本の海運に影響を与えた。舞鶴港で貨客船が触雷沈没し549人が死亡した「浮島丸事件」(1945年8月24日)、475人が死亡した「室戸丸沈没事故」(同年10月7日)、193人死亡の「女王丸沈没事故」(1946年1月28日)などが起きている。1950年までに118隻(掃海艦艇含む)が触雷し、うち55隻が沈没している。
21世紀に入っても、海上自衛隊は自衛隊法84条の2に基づく機雷処理業務を続けており、年平均4個を処理している。一例として、2010年5月29日には神戸港沖で浚渫工事に従事していた潜水士が埋没していた機雷を発見、6月12日に爆破処理された。2006年には掃海済み海域が約99%となっている。