今日という日【4月4日】
■西山事件
1972年4月4日。
「西山事件」は、1971年の「沖縄返還協定」にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の「西山 太吉」記者らが国家公務員法違反で有罪となった事件。別名、「沖縄密約事件」「外務省機密漏洩事件」。
1972年4月4日、国家公務員法111条(秘密漏洩をそそのかす罪)違反で西山が女性事務官とともに逮捕された。
第3次佐藤内閣当時、アメリカ「リチャード・ニクソン」政権との「沖縄返還協定」に際し、公式発表ではアメリカが支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりしてアメリカに支払うという密約をしているとの情報をつかみ、毎日新聞社政治部の西山が日本社会党議員に漏洩した。
政府は密約を否定。東京地方検察庁特別捜査部は、西山が情報目当てに既婚の外務省事務官に近づき酒を飲ませ泥酔させた上で性交渉を結んだとして、情報源の事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕。これにより、報道の自由を盾に取材活動の正当性を主張していた毎日新聞は、かえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。
裁判においても、起訴理由は「国家機密の漏洩行為」であるため、審理は当然にその手段である機密資料の入手方法に終始し、密約の真相究明は検察側からは行われなかった。西山が逮捕され、社会的に注目される中、密約自体の追及は完全に色褪せてしまった。また、取材で得た情報を自社の報道媒体で明白に報道する前に一国会議員に流して国会における政府追及材料とさせたり、ニュースソースの秘匿が不完全だったために情報提供者の逮捕を招いたことも、ジャーナリズムの上で問題となった。
1972年4月4日。
「西山事件」は、1971年の「沖縄返還協定」にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の「西山 太吉」記者らが国家公務員法違反で有罪となった事件。別名、「沖縄密約事件」「外務省機密漏洩事件」。
1972年4月4日、国家公務員法111条(秘密漏洩をそそのかす罪)違反で西山が女性事務官とともに逮捕された。
第3次佐藤内閣当時、アメリカ「リチャード・ニクソン」政権との「沖縄返還協定」に際し、公式発表ではアメリカが支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりしてアメリカに支払うという密約をしているとの情報をつかみ、毎日新聞社政治部の西山が日本社会党議員に漏洩した。
政府は密約を否定。東京地方検察庁特別捜査部は、西山が情報目当てに既婚の外務省事務官に近づき酒を飲ませ泥酔させた上で性交渉を結んだとして、情報源の事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕。これにより、報道の自由を盾に取材活動の正当性を主張していた毎日新聞は、かえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。
裁判においても、起訴理由は「国家機密の漏洩行為」であるため、審理は当然にその手段である機密資料の入手方法に終始し、密約の真相究明は検察側からは行われなかった。西山が逮捕され、社会的に注目される中、密約自体の追及は完全に色褪せてしまった。また、取材で得た情報を自社の報道媒体で明白に報道する前に一国会議員に流して国会における政府追及材料とさせたり、ニュースソースの秘匿が不完全だったために情報提供者の逮捕を招いたことも、ジャーナリズムの上で問題となった。
今日という日【4月3日】
■アメリカ空軍IFO-21便墜落事故
1996年4月3日。
「アメリカ空軍IFO-21便墜落事故」は、クロアチアのドゥブロヴニクに向かっていたアメリカ空軍のCT-43がドゥブロヴニク空港に着陸進入中に墜落した航空事故。この事故で、当時「ビル・クリントン」政権でアメリカ合衆国商務長官を勤めていた「ロナルド・ハーモン・ブラウン」らを初めとする貿易使節団ら35人全員が死亡した。
1996年4月3日、アメリカ商務長官「ロン・ブラウン」をはじめとするアメリカの貿易使節団は事故を起こしたCT-43型機に搭乗し、ザグレブ国際空港から一路ドゥブロヴニク空港へと向かっていた。しかし、ドゥブロヴニク空港周辺の天候はこの日の朝から悪天候が続き、雲に覆われて視界が全くきかない状態であった。また当時は「クロアチア紛争」の終結から約5ヶ月しか経過していなかったため、セルビアとの制限空域が設定されており、空中警戒管制機からの指示で迂回する事になり、予定のフライトから約15分ほど遅れていた。更に紛争による同空港の占拠で、計器着陸装置などの近代的な航空保安施設が破壊されており、現代航空飛行では時代遅れとされていた無指向性無線標識の施設を使用して着陸する方式を取っていた。加えて、先に大使を乗せて同地に着陸していた特別機の機長からダイバート(航空機の運航において、当初の目的地以外の空港などに着陸すること)を進言されていたが、パイロットは着陸を強行した。
空港から20km離れたコロセップ島にある無指向性無線標識の電波を受信し、空港滑走路手前にあるもう1つの受信機を目指して最終着陸態勢に入ったが、この事故機にはADF(自動方向探知機)が1つしかなく、空港手前にある無線標識を受信してしまったため、コロセップ島にあるほうの信号に切り替えて探索して通過した後、慣性航法装置を使用したがデータに誤差が生じ、これが命取りとなり、正規進路から7度ずれて飛行した後、山肌が見えた為急上昇を行うも間に合わず、現地時間4月3日15時前に空港から北東に2.6km離れた山に激突して大破・炎上した。
事故後、国防総省による空軍関係者への査問が行われ、次々と不手際が発覚した結果、空軍幹部2人が更迭され、指揮を執っていた大佐は少佐への降格処分とされた。
また、この事故をきっかけとして、空軍機にブラックボックス(フライトデータレコーダー【FDR】とコックピットボイスレコーダー【CVR】の通称)が設置される事となり、承認を受けていない空港へは着陸が不可能となった。
1996年4月3日。
「アメリカ空軍IFO-21便墜落事故」は、クロアチアのドゥブロヴニクに向かっていたアメリカ空軍のCT-43がドゥブロヴニク空港に着陸進入中に墜落した航空事故。この事故で、当時「ビル・クリントン」政権でアメリカ合衆国商務長官を勤めていた「ロナルド・ハーモン・ブラウン」らを初めとする貿易使節団ら35人全員が死亡した。
1996年4月3日、アメリカ商務長官「ロン・ブラウン」をはじめとするアメリカの貿易使節団は事故を起こしたCT-43型機に搭乗し、ザグレブ国際空港から一路ドゥブロヴニク空港へと向かっていた。しかし、ドゥブロヴニク空港周辺の天候はこの日の朝から悪天候が続き、雲に覆われて視界が全くきかない状態であった。また当時は「クロアチア紛争」の終結から約5ヶ月しか経過していなかったため、セルビアとの制限空域が設定されており、空中警戒管制機からの指示で迂回する事になり、予定のフライトから約15分ほど遅れていた。更に紛争による同空港の占拠で、計器着陸装置などの近代的な航空保安施設が破壊されており、現代航空飛行では時代遅れとされていた無指向性無線標識の施設を使用して着陸する方式を取っていた。加えて、先に大使を乗せて同地に着陸していた特別機の機長からダイバート(航空機の運航において、当初の目的地以外の空港などに着陸すること)を進言されていたが、パイロットは着陸を強行した。
空港から20km離れたコロセップ島にある無指向性無線標識の電波を受信し、空港滑走路手前にあるもう1つの受信機を目指して最終着陸態勢に入ったが、この事故機にはADF(自動方向探知機)が1つしかなく、空港手前にある無線標識を受信してしまったため、コロセップ島にあるほうの信号に切り替えて探索して通過した後、慣性航法装置を使用したがデータに誤差が生じ、これが命取りとなり、正規進路から7度ずれて飛行した後、山肌が見えた為急上昇を行うも間に合わず、現地時間4月3日15時前に空港から北東に2.6km離れた山に激突して大破・炎上した。
事故後、国防総省による空軍関係者への査問が行われ、次々と不手際が発覚した結果、空軍幹部2人が更迭され、指揮を執っていた大佐は少佐への降格処分とされた。
また、この事故をきっかけとして、空軍機にブラックボックス(フライトデータレコーダー【FDR】とコックピットボイスレコーダー【CVR】の通称)が設置される事となり、承認を受けていない空港へは着陸が不可能となった。
今日という日【4月2日】
■江戸歌舞伎の始まり
1624年4月2日。
1624年4月2日、「猿若勘三郎(初代中村勘三郎)」が江戸の中橋南地(現:京橋の辺り)に「猿若座(後の中村座)」を開いた。これが江戸歌舞伎の始まり。当初「猿若座」と称し、その後、「中村座」と改称された。
1632年、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現:日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、1651年には堺町(現:日本橋人形町3丁目)へ移転した。
1841年12月、「中村座」からの出火により葺屋町の「市村座」ともに焼失、「天保の改革」によって浅草聖天町(現:台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名された。
1884年11月、浅草西鳥越町(現:台東区鳥越1丁目)へ移転し、「猿若座」と改称されたが、1893年1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった。
「中村座」の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は「中村座」に限って幕府から特別に許された色であった。現在は十八代目「中村勘三郎」の襲名興行や「平成中村座」の公演などで使用されている。
1624年4月2日。
1624年4月2日、「猿若勘三郎(初代中村勘三郎)」が江戸の中橋南地(現:京橋の辺り)に「猿若座(後の中村座)」を開いた。これが江戸歌舞伎の始まり。当初「猿若座」と称し、その後、「中村座」と改称された。
1632年、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現:日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、1651年には堺町(現:日本橋人形町3丁目)へ移転した。
1841年12月、「中村座」からの出火により葺屋町の「市村座」ともに焼失、「天保の改革」によって浅草聖天町(現:台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名された。
1884年11月、浅草西鳥越町(現:台東区鳥越1丁目)へ移転し、「猿若座」と改称されたが、1893年1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった。
「中村座」の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は「中村座」に限って幕府から特別に許された色であった。現在は十八代目「中村勘三郎」の襲名興行や「平成中村座」の公演などで使用されている。