今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -19ページ目

今日という日【4月10日】

■一本列島

1988年4月10日。

一本列島」は、1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネル開業と同年4月10日の瀬戸大橋開業によって旅客鉄道・貨物鉄道(JR)7社の路線が全て線路で結ばれた事と、それに伴って実施されたダイヤ改正に対する、「日本列島」と「一本」を掛け合わせたJRのキャッチコピー及び鉄道ファンなどの間における通称名。

本州と九州の間は1942年(昭和17年)の関門鉄道トンネル開通以降、関門国道トンネル・関門橋・新関門トンネルが次々貫通して一体化が進みつつあったが、北海道・四国との間は戦後も長らく陸上交通では結ばれておらず、日本国有鉄道(国鉄)の運営していた青函連絡船・宇高連絡船・仁堀連絡船、更に民間航路で連絡するという時代が長く続いていた。
それでも戦前から橋ないしはトンネルによって日本列島4島を結ぼうという構想はあり、1954年(昭和29年)の洞爺丸事故や1955年(昭和30年)の紫雲丸事故を受けて青函トンネルと瀬戸大橋の建設が決定、前者は1961年(昭和36年)に、後者は1978年(昭和53年)に着工された。
しかし航空機と自動車の時代になったことから、完成するころになって、特に青函トンネルは鉄道しか通らないことから「無用の長物と化すだろう」という声が強くなり、「トンネルごとセメントを流し込んで固めてしまえ」とか「石油の貯蔵庫にしろ」などという意見も出るありさまになったという。当初は北海道新幹線計画の一部として青函トンネルを整備する予定であったが、整備新幹線計画の凍結が国鉄改革の一環として定められた結果在来線として整備しなければならなくなったので、なおさらのことであった。また1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化によって成立したものの、経営基盤の弱いJR北海道やJR四国が青函トンネルの保守費用や瀬戸大橋の通行料を捻出することができるのかという声もあった。
それでも建設したからには使用しなければ無駄になるということで、分割民営化の翌年になる1988年(昭和63年)に両路線を予定通り在来線の海峡線(津軽海峡線)・本四備讃線(瀬戸大橋線)として開通させる事が決定、前者は3月13日、後者は4月10日に開業。この時JRグループの作ったキャッチコピーが、「レールが結ぶ、一本列島」であった。

今日という日【4月9日】

■バターン死の行進

1942年4月9日。

バターン死の行進」とは、第二次世界大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長120kmで、その半分は鉄道で運ばれ、残りを3日で歩いた。1日平均20kmの3日間の行進であった。

1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である「本間 雅晴」中将率いる第十四軍がルソン島リンガエン湾に上陸。フィリピン防衛の任に当たっていたのは「ダグラス・マッカーサー」率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。マッカーサーは12月24日マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもった。米軍は撤退途中、人影があれば撃ち殺し、村があれば機銃掃射して皆殺しにした。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出した。
1942年4月9日、日本軍はバターン半島を死者130人、負傷者6,808人を出して占領。降伏した「エドワード・P・キング」少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千人もの多数が捕虜となった。これは日本側の2万5千人との捕虜数予想を大きく上回るものであった。米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラックを破壊。壊さなかった部隊は死の行進を歩むことなくそれで収容所まで行った。尚、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

トラックで運ばれたものや行進の先頭にいたもの以外に対し、多くの虐待行為があったと言われる。この背景として、捕虜になることを恥ずべきものとする風潮が影響していた。また日本軍ではもともと戒告のために殴打することが日常的にあり、不服従とみると捕虜にも暴力をふるった。死者が増えた要因には現地の指導的立場にあった「辻 政信」にもあった。辻はこの戦争は人種間戦争であるとして、アメリカ人兵士は白人であるから、フィリピン人兵士は裏切り者だから処刑しろと扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた。「今井 武夫」大佐の記録によれば、4月9日午前11時ごろ、第65旅団司令部から電話で、大本営命令と称して米比軍捕虜を射殺せよという命令が届き、ことの重大性から今井は書面による命令を要求。この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるとして、実行したものもいた。本間中将はこれらの事情についてまったく知らなかった。
収容所に辿り着いたのは約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2,300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされている。
戦後の「マニラ軍事裁判」等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監「河根 良賢」少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。

今日という日【4月8日】

■天六ガス爆発事故

1970年4月8日。

天六ガス爆発事故」は、1970年4月8日夕刻、大阪府大阪市北区(旧大淀区)国分寺付近の大阪市営地下鉄谷町線天神橋筋六丁目駅工事現場で起こったガス爆発事故。
死者79人、重軽傷者420人の大惨事となった。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸、爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上とも。

1970年(昭和45年)4月8日の17時15分頃、地下に露出した都市ガス用中圧管と低圧管の水取器の継手部分が抜け、都市ガスが噴出。
たまたま通りかかった大阪ガスのパトロールカーが通報し、事故処理車が出動するものの現場付近でエンストを起こす。処理車はエンジン再始動のためにセルモーターを回すが、その火花にオープンカット方式の舗工板の隙間から漏れたガスが引火して17時39分頃炎上。
この時には、騒ぎを聞きつけた野次馬と大阪ガスの職員、消防士、警察官などが現場に集まっていた。そして17時45分頃に事故処理車の火が舗工板直下の地下部分に充満していた都市ガスに引火して大爆発。工事現場の道路上に長さ約200m×幅約10mに渡って約1,000枚が敷設されていた舗工板のほとんどが上に乗っていた人間もろとも吹き飛ばされ、多くの犠牲者を出した。

この事故を契機として「掘削により周囲が露出することとなった導管の防護」が制定され、露出部分の両端が地くずれのおそれのないことの確認・漏洩を防止する適切な措置・温度の変化による導管の伸縮を吸収、分散する措置・危急の場合のガス遮断措置が決められた。