今日という日【4月15日】
■リビア爆撃
1986年4月15日。
「リビア爆撃」は、アメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者の「ムアンマル・アル=カッザーフィー」に対する攻撃であった。
アメリカ合衆国は、リビアが「アブ・ニダル」などのテログループを支援しており、またシドラ湾における200海里の領海主張は国際法に反しているとして非難を行っていた。
1985年12月にウィーンとローマの空港で爆破事件が起こり、翌1月にアメリカはリビアが事件の背後にあるとして、リビアに対する経済制裁を行った。3月にはアメリカの空母戦闘群(現:空母打撃群)がシドラ湾に入り、3月24日にはリビアのミサイル艇とレーダー基地を爆撃している。
その後、西ベルリンのディスコで爆破事件が起こり、アメリカ人に死者が出るに至った。これらの事件にリビアが関与していると判断したアメリカは、報復としてリビア指導者の「ムアンマル・アル=カッザーフィー」に対する暗殺を決意し、トリポリなどに対する爆撃を行うこととした。
アメリカ軍の攻撃によるリビア軍の死者数の詳細は不明であるが、民間人15人とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女ハナが死亡したとリビアは発表し大規模な追悼が行われた。2011年のリビア内戦によりカダフィ政権が崩壊すると、養女のハナが生存し医師となっていることが明らかになった。また、アメリカ軍もF-111がシドラ湾上空で1機撃墜され、乗員2人が行方不明となった。なお、うち1人は後に遺体がアメリカに返還されている。
リビアは報復として、イタリアにあるアメリカ沿岸警備隊の基地に対するスカッドミサイル攻撃を行ったが、これは海に着弾し、被害はなかった。また、1988年のスコットランド上空におけるパンナム機爆破事件もこの爆撃の報復とされている。
アメリカの行動は、イギリスなどを除き、他国に対する大規模な軍事行動として各国の非難を受けた。ただし、各国間の外交関係の根本的な変化は発生せず、アメリカとソ連との外交関係にも大きな影響はなかった。
1986年4月15日。
「リビア爆撃」は、アメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者の「ムアンマル・アル=カッザーフィー」に対する攻撃であった。
アメリカ合衆国は、リビアが「アブ・ニダル」などのテログループを支援しており、またシドラ湾における200海里の領海主張は国際法に反しているとして非難を行っていた。
1985年12月にウィーンとローマの空港で爆破事件が起こり、翌1月にアメリカはリビアが事件の背後にあるとして、リビアに対する経済制裁を行った。3月にはアメリカの空母戦闘群(現:空母打撃群)がシドラ湾に入り、3月24日にはリビアのミサイル艇とレーダー基地を爆撃している。
その後、西ベルリンのディスコで爆破事件が起こり、アメリカ人に死者が出るに至った。これらの事件にリビアが関与していると判断したアメリカは、報復としてリビア指導者の「ムアンマル・アル=カッザーフィー」に対する暗殺を決意し、トリポリなどに対する爆撃を行うこととした。
アメリカ軍の攻撃によるリビア軍の死者数の詳細は不明であるが、民間人15人とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女ハナが死亡したとリビアは発表し大規模な追悼が行われた。2011年のリビア内戦によりカダフィ政権が崩壊すると、養女のハナが生存し医師となっていることが明らかになった。また、アメリカ軍もF-111がシドラ湾上空で1機撃墜され、乗員2人が行方不明となった。なお、うち1人は後に遺体がアメリカに返還されている。
リビアは報復として、イタリアにあるアメリカ沿岸警備隊の基地に対するスカッドミサイル攻撃を行ったが、これは海に着弾し、被害はなかった。また、1988年のスコットランド上空におけるパンナム機爆破事件もこの爆撃の報復とされている。
アメリカの行動は、イギリスなどを除き、他国に対する大規模な軍事行動として各国の非難を受けた。ただし、各国間の外交関係の根本的な変化は発生せず、アメリカとソ連との外交関係にも大きな影響はなかった。
今日という日【4月12日】
■第五北川丸沈没事故
1957年4月12日。
「第五北川丸沈没事故」は、舵を甲板員見習に任せたために操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故。定員の3倍を超える乗客を乗せた上、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113人を出す惨事となった。
1957年4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)「耕三寺」には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第五北川丸(総トン数39t、旅客定員77人、船員7人、合計定員84人)が出航。
この客船は、定員が84人であったにもかかわらず、235人(うち子ども12人)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4人を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5人のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113人、負傷者49人を出す惨事になった。
事故後、現場近くの地元住民らが中心となり、現場近くで毎年4月に慰霊祭を開催してきたが、慰霊会を執り行っていた地元佐木島の住民及び遺族が高齢化してきたため、節目となる49周忌にあたる2006年4月8日の法要を最後に遺族に対して参列呼びかけをしなくなった。しかし、地元住民により慰霊祭は毎年続けられており、事故から55年目を迎えた2012年4月12日の慰霊祭には約20人が集まった。
1957年4月12日。
「第五北川丸沈没事故」は、舵を甲板員見習に任せたために操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故。定員の3倍を超える乗客を乗せた上、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113人を出す惨事となった。
1957年4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)「耕三寺」には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第五北川丸(総トン数39t、旅客定員77人、船員7人、合計定員84人)が出航。
この客船は、定員が84人であったにもかかわらず、235人(うち子ども12人)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4人を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5人のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113人、負傷者49人を出す惨事になった。
事故後、現場近くの地元住民らが中心となり、現場近くで毎年4月に慰霊祭を開催してきたが、慰霊会を執り行っていた地元佐木島の住民及び遺族が高齢化してきたため、節目となる49周忌にあたる2006年4月8日の法要を最後に遺族に対して参列呼びかけをしなくなった。しかし、地元住民により慰霊祭は毎年続けられており、事故から55年目を迎えた2012年4月12日の慰霊祭には約20人が集まった。
今日という日【4月11日】
■ラッセル=アインシュタイン宣言
1955年4月11日。
この日、アメリカの物理学者「アルベルト・アインシュタイン」博士が「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。
「ラッセル=アインシュタイン宣言」は、イギリスの哲学者「バートランド・ラッセル」卿と、「アルベルト・アインシュタイン」が中心となり、1955年に当時の第一級の科学者ら11人によって、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文。
これを発表した3ヶ月ほど前にアインシュタインが没しており、アインシュタインが我々人類に放った遺言状ともいえる。この宣言には、日本の「湯川 秀樹」も署名している。「レオポルト・インフェルト」を除く10人の宣言署名者はノーベル賞を受賞している。
この宣言の要請を受けて、1957年より「パグウォッシュ会議」が開催されることとなり、第1回をカナダのパグウォッシュ村で開催した。日本からは、「湯川 秀樹」「朝永 振一郎」等が参加した。
1955年4月11日。
この日、アメリカの物理学者「アルベルト・アインシュタイン」博士が「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。
「ラッセル=アインシュタイン宣言」は、イギリスの哲学者「バートランド・ラッセル」卿と、「アルベルト・アインシュタイン」が中心となり、1955年に当時の第一級の科学者ら11人によって、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文。
これを発表した3ヶ月ほど前にアインシュタインが没しており、アインシュタインが我々人類に放った遺言状ともいえる。この宣言には、日本の「湯川 秀樹」も署名している。「レオポルト・インフェルト」を除く10人の宣言署名者はノーベル賞を受賞している。
この宣言の要請を受けて、1957年より「パグウォッシュ会議」が開催されることとなり、第1回をカナダのパグウォッシュ村で開催した。日本からは、「湯川 秀樹」「朝永 振一郎」等が参加した。