風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」 -3ページ目

他人事、自分事

痛ましい事故が起こるたび、被害者と同世代、似たような立場の人が現場を訪れ、花を手向ける。カメラとマイクを向けられると一様に「他人事とは思えなくて・・・」と言いつつ涙を見せる。これを悲しくもあたたかい光景と見る向きは多いようだが、筆者はどうしても賛成しかねる。

他人に起こったことは、どう転んでも他人事なのではないか。人は良くも悪くも自分の身に起こったことしか深い理解はできない。事故現場を訪れた人が口々に言う「他人事とは思えなくて・・・」というのは、その奥には「自分でなくてよかった、自分は気をつけよう」という自覚していないような感情があると言わざるを得ない。なぜならば、二言目に出てくるワードは大抵が「かわいそうに、気の毒に」という、第三者的な哀れみの言葉だからである。人間は、自分にとって不都合な感情は気づかぬうちに胸にしまいこんで見ないようにしてしまうものだ。

また、本ブログでも繰り返しになるかもしれないが、子どもや若い人が犠牲になったから「より」悲しい、かわいそうという意識はどうかと思っている。性別や年齢などによって命の軽重が変わるわけはないからだ。子どもや若い人の方がこれからの人生が長そうだから、という思い込みから抜け出せないのは、人間の限界である。

人の生死は人間にはコントロールできない。一生のうちに何を経験するかはあらかじめ決まっていて、他人事を真の意味で自分事にすることなど不可能だ。そして人は、運命という抗えない流れの中で自分の限界、様々な思い込みから抜け出せずにいるということすら知らぬまま消えていく。それもまた、運命なのである。

世の「常識」に潰された命

仕事にはマニュアルがあり、世間には常識というものがあり、特にこの国ではそれらに沿った言動が良しとされる。理由は明快であり、仕事ならば効率的になること、世間的には周囲との軋轢を生みにくいことである。


ただ、逆に言えば頭を使わずに済み楽だからともいえる。さらに言えば、何かを指摘されたとしても「マニュアルがそうなっているから」とか「常識だから」と言って逃げることもできる。責任から逃れるための逃げ道としてはちょうどいい。


「子どもは実の親と暮らすのが幸せ」


たしかに「常識的」にはそうだろう。筆者も、血の繋がりは強く家族は離れずに暮らすのが良いと考える保守層の一員だと認める。だが、児相や教育関係者は、この「常識」に囚われているといえよう。子どもに危害を加える親と一緒に暮らすことが幸せなのだろうか?家族で一緒に暮らすことが唯一のゴールと盲信していたように見える。


虐待をしてしまった親が、そんなに簡単に更生するとは思えない。今回のように虐待を虐待と認めない親ならばなおさらである。「常識的」な家族の形に戻そうとする前に、まずは「常識的」な判断ができる人物なのかを考えた方がいいと感じている。それができない親ならば、再構築を模索することは無駄である。予算と人手を可能性のある親子に振り分ける方がいい。


親、学校、教育委員会、児相・・・誰かが自分の仕事をきちんとしていれば、この少女の命は救えただろう。そして今回の件は、世に「常識を疑う必要性」を示した。つまり、彼女の命はそのために捧げられる運命だったのだ。人は運命には抗えないということを示す根拠が、また1つ増えたのである。

指摘と否定

人に何かを伝え、行動を変えてもらうとき、言葉の選び方や声のかけ方で大きく印象は変わる。だが世の中には、「指摘する」ことと「否定する」ことが区別できない人は少なくない。


「指摘」には根拠があり、基本的に他の誰かにも当てはまることである。一方で「否定」は根拠に乏しく、特定の相手に向けられることがほとんどだ。個人攻撃と感じられることも多い。


伝える側にどのような意図があろうと、受けてが「否定されている」と感じたら行動は変わらない。「成長のためだから」という理由で相手を「否定する」上司は数え切れないほどいるが、「指摘」と「否定」の区別ができない人間に人の成長を語る資格はない。教育者の立場から見れば片腹痛い。


そもそも、人間は相手を育てようと思って育てられるほど立派な存在ではない。さまざまな人と多くの経験を共有することでのみ人は育つ。傲慢なことを考える者には、手痛いしっぺ返しがあることだろう。