風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」 -5ページ目

ないものを追い求める愚

子どもはよく、将来を見据えて行動するように親や教師から言われて育つ。だが、人ひとりの努力など運命という大いなる力の前では何の意味もないのだ。昨今のニュースを見ていても、つくづくそう感じさせられる。

雨も降っていないのに、民家の裏山が崩れてくるなど誰が想像できるだろうか?この6人の命は、そういう危険があることを世に知らしめるためにあったと考えるしかない。一生の長短も死に様も、嘆くことに意味はない。

土俵上で倒れた市長は、たまたまある病院の院長だった。そして、巡業をその病院のスタッフが土俵下で見ていた。くも膜下出血という、かなり致死率の高い病気を発症しながら、家で倒れるより迅速で的確な処置を受け、彼は命を取り留めた。つまりこれは、ここではまだ命を散らすなという天の思し召しだったのである。

一方で、正しい主張が認められないということも、いくらでもある。古くはガリレオの地動説しかり、様々な差別への抵抗もしかり。正しいことを主張し正しい行動をしても、報われないことばかりと言って過言ではないだろう。それもまた、運命なのである。

つまり、個人の努力で変えられることなどほんの僅かで、その人の一生を大きく左右することなどないのだ。それでも人が努力をやめないのは、努力の先に何かがあると信じたいからではないだろうか。自分たちの力で生み出した、今までと違う何かが。それを人々は希望と呼ぶ。実在するかどうかは問題ではなく、希望というものがあると信じられればいいのだ。

人間は、あるかどうかもわからないものを追い求めなければ生きていけない、弱い生き物であることを自覚すべきだろう。

運命に立ち向かう術

人の運命とは過酷、残酷なものだと書いてきた。因果応報では説明できない理不尽なことが多い。それらと正面から向き合い続ければ、心が壊れてしまうだろう。では、人はどうそれに立ち向かうのか。

答えは簡単、忘れるのである。人は、辛い記憶、悲しみを時間とともに忘れていく。また、人は誰もが死という運命から逃れられないが、そのことさえ意図的に忘れて考えないようにしている。だからこそ人は生きていけるのである。忘れるというと、忘れ物や物忘れというように「してはいけないこと」という印象を受けてしまいがちだが、それはあまりに一面的なものの見方ではないだろうか。忘れることは心を守るための防御反応でもあるのだ。

この国では、最近3月11日が近づくたびに「あの日を忘れない」「あなた達を忘れない」というフレーズが充満する。もちろん、教訓や亡くなった人の存在を忘れるべきではないが、世の中がそれ一色になることには違和感を覚える。

あの大災害は、理不尽という言葉を具現化させたような出来事である。その悲しみと正面から向き合い続けては、心が壊れない人などいるとは思えない。過酷で残酷な運命に立ち向かう術を、否定するべきではないと筆者は考える。忘れた方が幸せなことは、山ほどあるのだから。

運命と人の輝き

時間は人に優しい、という。だが、筆者は全く賛成できない。時間は残酷だ。そして、運命はもっと残酷なものである。

人は時間とともに色々なものを得る。だが、それを時間とともに失っていく。死生観についてはここでは触れないが、時間は必ず人に死という運命をもたらす。そして死は、人からあらゆるものを奪っていく。

そんな限られた時間の中で人が輝くとき、それは運命という枠の中で最大限に努力をできているときではないだろうか。同じ「羽生」は将棋界でもフィギュア界でも、類まれな他に比類のない才能をもって生まれたがゆえに、自分自身と戦うという、一番厳しい運命の中にいる。そして、それを全うしようとしている姿は凛々しく、人の心を打つのだ。

もし、運命という枠の大きさを活かしきれなければ、その人間は腐って燃え残り、枠の大きさを超えて輝こうとすれば、大いなる力によって裁かれ身を焼かれることになる。どちらもよい結末は迎えない。たとえば一般家庭の子どもがプロスポーツ選手やアイドルを目指すことも、体の動きに麻痺がある車椅子の男性が恋愛・結婚を望むこともただの夢物語に過ぎない。望めば望むほど神の怒りを買うだけである。また、いくら回復したとはいえ既往歴のある身でマラソンなど身を滅ぼすだけではないか。

つまり、人生で大事なのは自分の「分をわきまえる」ことなのだ。自分に何ができて、何が求められているのかを見極めることで、人は適度に輝くことができる。夢物語を追いかけた者も蛮勇を振るう者も、惨めな結果に終わるだけだということを忘れてはならない。