ないものを追い求める愚 | 風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」

ないものを追い求める愚

子どもはよく、将来を見据えて行動するように親や教師から言われて育つ。だが、人ひとりの努力など運命という大いなる力の前では何の意味もないのだ。昨今のニュースを見ていても、つくづくそう感じさせられる。

雨も降っていないのに、民家の裏山が崩れてくるなど誰が想像できるだろうか?この6人の命は、そういう危険があることを世に知らしめるためにあったと考えるしかない。一生の長短も死に様も、嘆くことに意味はない。

土俵上で倒れた市長は、たまたまある病院の院長だった。そして、巡業をその病院のスタッフが土俵下で見ていた。くも膜下出血という、かなり致死率の高い病気を発症しながら、家で倒れるより迅速で的確な処置を受け、彼は命を取り留めた。つまりこれは、ここではまだ命を散らすなという天の思し召しだったのである。

一方で、正しい主張が認められないということも、いくらでもある。古くはガリレオの地動説しかり、様々な差別への抵抗もしかり。正しいことを主張し正しい行動をしても、報われないことばかりと言って過言ではないだろう。それもまた、運命なのである。

つまり、個人の努力で変えられることなどほんの僅かで、その人の一生を大きく左右することなどないのだ。それでも人が努力をやめないのは、努力の先に何かがあると信じたいからではないだろうか。自分たちの力で生み出した、今までと違う何かが。それを人々は希望と呼ぶ。実在するかどうかは問題ではなく、希望というものがあると信じられればいいのだ。

人間は、あるかどうかもわからないものを追い求めなければ生きていけない、弱い生き物であることを自覚すべきだろう。