風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」 -2ページ目

ウイルスに炙り出された人間の本性

世間は新型コロナウイルスの影響で大混乱に陥っている。皮肉にもそれは、人間の本性を炙り出したと言える。


感染を防ぐため、私たちはあらゆる面において活動の制限を強いられ、我慢をせざるを得ない状況にある。それによる不満、ストレスは負の感情を引き起こす。その根本は、「他責」である。自分は悪くない、相手が悪いと考えることである。もちろん自分を責め続けては病んでしまうゆえ、これは自然な防衛反応だが、行き過ぎれば周囲との軋轢、衝突を生む。


他人に感染させるリスクを考えずに外出を楽しむ若者も、日中からスーパーやドラッグストアに押しかけて買い占めをする中高年も、どちらも批判されるべきところはある。だが、互いに「相手は自分たちがしていないことをしている、ずるいじゃないか」と主張し噛み合わない。これでは話し合いではなく罵り合いである。


無症状の自分が感染させた相手が発症して重症化したら、自分たちが買い占めたものが必要な人に行き渡らなくなり命に関わる事態になったら・・・少し想像すれば自分たちがどう行動すればいいか、自ずとわかってくるはずだ。しかも、周囲への配慮ある行動が巡り巡って結果的に自分の利益になることも、わかるだろう。しかし、現実はそうなっていない。人は、未知なものやとてつもない不安に直面すると我欲に負けてしまう。我が身可愛さの行動をとってしまう。人間の本性とはそういうものなのだ。


それを理解したうえで、この難局を乗り切らなければならない。不安と我欲に負けるのか、想像力と周囲への思いやりがそれらを抑えるのか、今私たちが試されている。

無意味なものに意味を見出す愚

仕事柄、患者や障害者と呼ばれる人と多く交流を持つ。最近話題になっている「人生会議」なるものについて、筆者はとても懐疑的に見ている。理由は簡単である。

・死にゆく人よりも、それを支える人のためのものになりがちであること

・家族がいない人(独身子なし)にとっては機能しないものであること

の2つである。前者は、少し考えれば自ずとわかるだろう。死にゆく人にとって、自分がどう処されているのかはわからない。もし、人生会議なるものが死にゆく人にとって意味があるとしたら、それは「きっと希望通りに善処してくれるだろう」と安心できることくらいではないだろうか。逆に、看取る側にとって人生会議の内容は何よりも強力な盾となり得る。たとえ物事が望んだとおりにならなかったとしても、故人を含めてこれだけ話し合った結果なのだといえば大抵のことは正当化できよう。つまり、看取る側にメリットが偏った代物なのである。

そして後者は一目瞭然、明らかである。遠くの親戚より近くの他人などという言葉もあるが、近くの他人が葬儀の手配から法要、相続の手続きまで手伝ってくれるというのだろうか?そんなはずはないのである。看取れば終わりではないのだ。責任を持って後のことまできちんとお願いできる相手がいなければ人生会議は機能しない。それは、心の通った家族(配偶者、子ども)がいる人にしか無意味なものということであり、未婚化、晩婚化が進むこの国で活用できる層が限られている。実に意味のないことではないだろうか。

ホンネとタテマエ

日本人はホンネとタテマエを使い分けることが多いと言われる。筆者もそう考えるし、同意する日本人は多いだろう。実際、ホンネだけで生活できるのは乳幼児のみであり、周囲との軋轢を避けて円滑な社会生活を送るためにタテマエは不可欠である。社会生活を送るうえでは必ず周囲と折り合い、譲るところは譲り我慢するところは我慢しなければならない。綺麗事を語ることも必要だ。しかし、世界的に「タテマエに疲れた」人々が続出しているような事象が散見される。英国のEU離脱しかりAmerica first しかり、そして日韓の問題もそうだろう。また、国内の問題を考えても立場の異なる相手を尊重できない風潮はとても気になる。

この際だから、一度ホンネをぶつけ合ってみるのもよいのではないかとも思えてくる。「なんであんな連中と協力しなければいけないんだ!」「なんであんな人たちの面倒を見ないといけないんだ!」「お前たちに言われる筋合いはない!」「あんたらはそこまで偉いのか!?」きっと罵詈雑言が飛び交うことになるだろうが、ある意味でスッキリするかもしれない。

ホンネとタテマエの間でもがきながら生きることも、我々に課せられた運命なのである。そのプロセスの1つとして、互いのホンネをぶつけ合うことで見えてくるものがあるかもしれない。