世の「常識」に潰された命 | 風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」

世の「常識」に潰された命

仕事にはマニュアルがあり、世間には常識というものがあり、特にこの国ではそれらに沿った言動が良しとされる。理由は明快であり、仕事ならば効率的になること、世間的には周囲との軋轢を生みにくいことである。


ただ、逆に言えば頭を使わずに済み楽だからともいえる。さらに言えば、何かを指摘されたとしても「マニュアルがそうなっているから」とか「常識だから」と言って逃げることもできる。責任から逃れるための逃げ道としてはちょうどいい。


「子どもは実の親と暮らすのが幸せ」


たしかに「常識的」にはそうだろう。筆者も、血の繋がりは強く家族は離れずに暮らすのが良いと考える保守層の一員だと認める。だが、児相や教育関係者は、この「常識」に囚われているといえよう。子どもに危害を加える親と一緒に暮らすことが幸せなのだろうか?家族で一緒に暮らすことが唯一のゴールと盲信していたように見える。


虐待をしてしまった親が、そんなに簡単に更生するとは思えない。今回のように虐待を虐待と認めない親ならばなおさらである。「常識的」な家族の形に戻そうとする前に、まずは「常識的」な判断ができる人物なのかを考えた方がいいと感じている。それができない親ならば、再構築を模索することは無駄である。予算と人手を可能性のある親子に振り分ける方がいい。


親、学校、教育委員会、児相・・・誰かが自分の仕事をきちんとしていれば、この少女の命は救えただろう。そして今回の件は、世に「常識を疑う必要性」を示した。つまり、彼女の命はそのために捧げられる運命だったのだ。人は運命には抗えないということを示す根拠が、また1つ増えたのである。