風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」
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生きてはいる

新型ウイルスが5類になって1年、ようやく人々は気にしなくなった。だが「後遺症」はまだまだ根深いし、これから解消される見込みもない。

仕事をしづらくなったり、プライベートも邪魔されたり、散々な3年間だったし、それを「仕方なかったよね」で済ませる日本人と政府にも、辟易する。

収穫といえば、自分の頭で考えない(考えられない)人が思いの外多いとわかったことだろう。

現代に決定的に欠けているもの

この国は敗戦を乗り越え、戦前の反省に立ち、社会を発展させてきた。海外の文化を柔軟に受け入れ、自分たちの文化と融合させてきた。そんな中で現代の日本人が決定的に目を背けてしまったことがある。それが「死」である。

豊かになり、医療が発達し、様々な病気と共存できるようになりつつある今、多くの人が何となく平均寿命くらいまで生きられるものだと思い込んでいる。しかし、それは当たり前でないことを私たちは何度も何度も思い知ってきたはずだ。悲惨な事件が起こるたびに、大規模な災害に見舞われるたびに、何の罪もない人の命がたやすく失われていく現実を目の当たりにしてきた。それでも私たちは、ことが過ぎるとそれを忘れてしまう。いや、意図的に考えないようにしてしまう。そして、それができる環境にあるのだ。

「死」は日常から遠く身近にあってはならないものになり、近しい人の死には何らかの理由を探すようになってしまった。医療過誤なのか、防災対策の不備、政府のウイルス対策の遅れ、車を運転していた相手・・・誰か、何かのせいにしないと気が済まなくなってしまったのだ。

救えたはずの命、助けられた命と言いたくなる心境は痛いほどわかる。だが、これまでもこれからも、人は「理由なく」ふとしたときに命を落とすものなのだと思う。私たちが「納得」できる理由などありはしないのだ。事故に遭って亡くなった人も、インフルエンザで亡くなった人も新型コロナウイルスで亡くなった方も、最終的にはそうなる運命だったと考えなければ辻褄が合わない。

筆者とて今すぐ死にたいなどということは全くないが、時間は有限で死は避けられないものだということは自覚している。だからこそ、死なないために生きるのではなく、幸せのために、自分の望むもののために生きる方が生産的だろう。運命に無駄に抗い、存在しない「理由」を探すより、運命を意識し、いつか訪れる死を前提にそれまでをいきいきと生きることを私は選びたい。このような考えを持てば、いわゆる自粛警察のように過度に自粛を他人にも強要するようなことにはならないはずだ。自粛警察になってしまった人の脳裏には、ストレスと死への恐怖があると推測している。

「死」が遠い社会は一見素晴らしい。しかし、その弊害が新型コロナウイルスによって炙り出されたと言っても過言ではない。今こそ、一人ひとりの死生観を再考してみるときだろう。

試されていること

今回の新型コロナウイルスの問題で、私たちが試されていることは他にもある。

・データを読み解く力
8割おじさんなる人物が脚光を浴びて久しいが、私たちが提示されているデータは妥当なものなのか疑問があるという声も根強い。日本では起こり得ない設定をして恐怖を煽り、過度に自粛を促しているという批判もある。一方、検査数を増やしきれていないため感染者数はあくまで参考程度、死者数も見落としがあるのではないかという疑念も残る。私たちはデータをもとに話し合うべきだが、そのデータが正確なのか、解釈は妥当なのかを疑うことを忘れてはならない(常に疑えと言いたいのではない)。

・リスクを判断、許容する力
季節性インフルエンザで毎年3000人以上亡くなっているが、それは報道されないし、早期に検査してタミフルを飲んでいれば助かったかもしれないのに!などと批判する人はまずいない。交通事故で多くの人が亡くなってきたが、車を使っているのが悪い、車なんて製造するなという人はいない。新型コロナウイルスで亡くなった日本人は現在400人以下であり、インフルエンザよりもさらに少ない。かと言って一斉に行動を再開したら危険だろうが、引き受けうる大きさのリスクと言えるのではないだろうか。

以上の2点が、今回の問題でこの国の課題として浮かび上がってきた。それを踏まえて個人的な見解を述べておく。ウイルスの傾向、正体が全く掴めない間は、ある程度「守りを固める」必要はある。行動を抑制し、表面的にではあるが感染者数を減らすべきだろう。だが、おそらくこのウイルスは、日本においてあまり猛威を振るわない。このままの推移ならば、死者数は季節性インフルエンザ程度かそれ以下に収まるはずだ。であるならば、早期検査と既存薬の投与ができる態勢を整えたうえで、経済活動を再開すべきだと思う。

インフルエンザ程度かそれ以下のリスクであるならば、不幸にも亡くなってしまった方の最後を看取れないことはおかしいし、袋詰めして荼毘に付してから遺族に返す対応もおかしい。医療スタッフも完全防備する必要はないだろう。

人命軽視という批判があるのはわかるが、「救えたはずの命」とか「なくさなくてよかった命」という言い方には大きな違和感を覚える。なら、交通事故で亡くなった人の命は「救えたはずの命」ではないのか?自殺した人の命こそ「なくさなくてよかった命」なのではないのか?新型コロナウイルスによる死だけを特別に忌避する理由はあるまい。あるとすれば、未知のウイルスへの恐怖心だろう。

私は感染拡大してもいいと言いたいのではない。過度にゼロリスクを追い求めるとかえってマイナスが大きいと言いたいのだ。人はいつか必ず死ぬということを前提に、死なないように生きることよりも、悔いのないように生きることの方が幸せなのではないか?医療の進歩と日本の皆保険は圧倒的な長寿化をもたらしたが、同時に死を遠ざけ、あってはならない「敗北」というものに変えてしまった。だが、人は誰でも死ぬのだ。「救えたはずの命」という表現は、現代人の傲慢だと私は感じている。

一度冷静になって出されているデータを読み解くことで、新型コロナウイルスのリスクがどの程度のものなのか、見極めていきたい。
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