試されていること | 風来坊が好き勝手言う「やかましいわぃ!」

試されていること

今回の新型コロナウイルスの問題で、私たちが試されていることは他にもある。

・データを読み解く力
8割おじさんなる人物が脚光を浴びて久しいが、私たちが提示されているデータは妥当なものなのか疑問があるという声も根強い。日本では起こり得ない設定をして恐怖を煽り、過度に自粛を促しているという批判もある。一方、検査数を増やしきれていないため感染者数はあくまで参考程度、死者数も見落としがあるのではないかという疑念も残る。私たちはデータをもとに話し合うべきだが、そのデータが正確なのか、解釈は妥当なのかを疑うことを忘れてはならない(常に疑えと言いたいのではない)。

・リスクを判断、許容する力
季節性インフルエンザで毎年3000人以上亡くなっているが、それは報道されないし、早期に検査してタミフルを飲んでいれば助かったかもしれないのに!などと批判する人はまずいない。交通事故で多くの人が亡くなってきたが、車を使っているのが悪い、車なんて製造するなという人はいない。新型コロナウイルスで亡くなった日本人は現在400人以下であり、インフルエンザよりもさらに少ない。かと言って一斉に行動を再開したら危険だろうが、引き受けうる大きさのリスクと言えるのではないだろうか。

以上の2点が、今回の問題でこの国の課題として浮かび上がってきた。それを踏まえて個人的な見解を述べておく。ウイルスの傾向、正体が全く掴めない間は、ある程度「守りを固める」必要はある。行動を抑制し、表面的にではあるが感染者数を減らすべきだろう。だが、おそらくこのウイルスは、日本においてあまり猛威を振るわない。このままの推移ならば、死者数は季節性インフルエンザ程度かそれ以下に収まるはずだ。であるならば、早期検査と既存薬の投与ができる態勢を整えたうえで、経済活動を再開すべきだと思う。

インフルエンザ程度かそれ以下のリスクであるならば、不幸にも亡くなってしまった方の最後を看取れないことはおかしいし、袋詰めして荼毘に付してから遺族に返す対応もおかしい。医療スタッフも完全防備する必要はないだろう。

人命軽視という批判があるのはわかるが、「救えたはずの命」とか「なくさなくてよかった命」という言い方には大きな違和感を覚える。なら、交通事故で亡くなった人の命は「救えたはずの命」ではないのか?自殺した人の命こそ「なくさなくてよかった命」なのではないのか?新型コロナウイルスによる死だけを特別に忌避する理由はあるまい。あるとすれば、未知のウイルスへの恐怖心だろう。

私は感染拡大してもいいと言いたいのではない。過度にゼロリスクを追い求めるとかえってマイナスが大きいと言いたいのだ。人はいつか必ず死ぬということを前提に、死なないように生きることよりも、悔いのないように生きることの方が幸せなのではないか?医療の進歩と日本の皆保険は圧倒的な長寿化をもたらしたが、同時に死を遠ざけ、あってはならない「敗北」というものに変えてしまった。だが、人は誰でも死ぬのだ。「救えたはずの命」という表現は、現代人の傲慢だと私は感じている。

一度冷静になって出されているデータを読み解くことで、新型コロナウイルスのリスクがどの程度のものなのか、見極めていきたい。