明治神宮にて

 

 

年に数回、明治神宮および隣接する代々木公園に散歩に出かける。今回はサイパン関連の連載を小休止して、代々木公園で撮った写真を記録に残すことにした。昨年秋の新聞で、公園内の或る施設が老朽化のため解体、再建されると聞いて観に行った。

 

その施設は戦後、進駐してきた米軍の軍人やその家族が住んだ「ワシントンハイツ」と呼ばれた広大な住宅地(代々木公園より広い)に現存する最後の元宿舎。このあたりの土地の歴史にほんの少し触れてみる。

 

 

江戸時代は大名屋敷などがあったらしい。明治維新で民間地になったが、帝国陸軍が買い上げて練兵場とした。代々木練兵場は明治四十年代に整備されたそうなので、大正時代に創建された明治神宮は、練兵場に隣接して建てられたことになる。

 

先の大戦後、日本陸軍が解体され、練兵場も廃止された。この広い土地には飛行場もあったそうで、帝国陸海軍初の発動機による航空飛行は、この代々木練兵場で行われたものである由。一般財団法人日本航空協会さんのサイトより。

 

 

 

練兵場跡に上記のとおり米軍が住みついた。日本に返却されたのは我が国の主権回復時ではなく、すでに自衛隊が発足した後の昭和三十九年(1964年)。わたくし4歳。この年号にすぐさま反応する世代は、もう古い。東京オリンピックが開催された。

 

ワシントンハイツの宿舎は廃されて、そのあとにできたのがオリンピックの選手村(なお、選手村はここだけではない)。選手村の解体後、代々木公園となったが、宿舎の一つが記念に保存されて現在に至る。老朽化のため、再建されることになった。

 

 

ちなみに、「パラリンピック」という名の大会が初めて行われたのが、この1964年の東京大会。ただし前身があり、1948年のロンドン大会で傷痍軍人を集めてのアーチェリー大会が行われており、これがオリンピックと肩を並べる存在にまで発展した。

 

 

 

元選手村宿舎の脇に立っているこの看板によると、「オランダの選手宿舎」だったらしい。東京オリンピックでオランダといえば、ヘーシンクではないか。彼もこのあたりに宿泊して、日本武道館に向かったのか。遥か遠い昔の夢のようだ。

 

日本は江戸時代、オランダに世話になった。その学術は蘭学と呼ばれた。17世紀に国際貿易の新鋭としてアジアに進出してきたオランダは、中高の歴史の授業で習った微かな記憶によると、東インド会社を作った。ただしインド国にあるのではない。

 

 

東インドというのはインドネシアのことであり、本ブログではもっぱら蘭印と呼んでいる。そこを占領して商売にいそしんでいたところ日本軍に追い出された。戦後しばらくは反日感情が強かったらしい。皇室外交は強力なり。

 

ところで、英語の授業ではホランドと教わり、ネーデルランドともいうと聞いた。後者が正式な国家名だそうだが、日本に置かれている大使館名は、「在日本オランダ王国大使館」。理由は「オランダ」がもう日本語として定着しているからだそうだ。おおらかで良い。

 

 

オランダは後日改めて話題にする。ところで30年ぐらい前、親族がオランダに駐在していた時期があり、その家に泊めてもらうという好条件で旅行に行った。そこで聞いた話によると、今でこそ体格のよいオランダ人だが、かつて欧州では小柄なほうだったそうだ。

 

アムステルダムの街中やスヘフェニンゲン(通称、助兵衛人間)のビーチでは大柄な男女を良く見たが、確かにゴッホの絵を観ると余り恰幅は良くない。この巨大化の理由は、長年にわたりインドネシアを植民地にできたからだとのこと。ヘーシンクも大男だった。日本人は逆に戦中戦後、栄養失調に陥っている。私の親の世代は小柄。

 

 

雑談を更なる雑談で締めくくる。そのオランダ滞在中、アムステルダムを子連れで散歩していたら大雨につかまり、民家の軒先で雨宿りをしておったところ、大変大柄な女性が通りがかった。マツコ・デラックスを茶髪にしたような迫力で、日本人か? 傘が無いならこれをやると仰る。

 

しかしどうやって貴女に返そうかと尋ねたら、返さんでいい、うちは近所だからと言って、一本しかない傘を手渡してくれた。お礼を述べ見送ったのだが、彼女はひたすら歩き続け、やがてその後ろ姿は雨に霞んで見えなくなった。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

ワシントンハイツの生き残り  (2024年12月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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