幸せは、誰かの幸せを願うこと。


自分のための幸せではない。


職場や家庭で、誰かの幸せを願うとき、働いたり、教えたり、思いやったりする。


そういう人は、大事にされるし、家族が笑顔になれば、自分も幸せ。


自分のための幸せを考えるとき、自分さえ良ければいい、という風になってしまう。


職場の人や家族から嫌われて、幸せになれないわけです。


そうはいっても、みんなのために働くばかりで、それが当たり前になり、搾取されるだけで、何もリターンがない。


それでは、自分は幸せになれない。


言いたいことを主張したり、たまには休みをもらったり、仕事を分担してもらうことも、幸せには必要なこと。


わがままを言ってもいいのだと思う。


それが正当な願いなら。


誰かの幸せを願うことと同じくらい、自分の幸せも願う。


簡単にかききえてしまう幸せの灯りをそっと抱えながら、コロナ禍を生きる。
あまりにも考えないので、何かをするとき、3秒、考えてみようと思って、壁紙にした画像↓




我ながら、バカみたいだと思う。
カラマーゾフの兄弟 上巻を10%まで読んだ。

3人兄弟の末っ子、アリョーシャ。

天使のような性格で、みんなから愛される。

俗悪の父親フョードルにさえも、愛された。

アリョーシャは、若く、活力が溢れ、理想に燃えていた。

聖母マリアに祈っていた幼いときに見た亡き母の記憶。

聖人として、崇められたゾシマ長老との出会い。

アリョーシャが目指したのは、不死だった。

心の内から燃え上がる理想の王国の実現だった。

若いときは、無知なもの。

挫折を知らず、世の中にある複雑な問題を単純に解決できると考え、理想に燃える。

挫折し、世の中の問題がそもそも手に負えないことだと悟ると、老化とともに、理想の火は消えていく。

年を重ねることは、あきらめを重ねていくことと同じ。

若い日の夢は、現実という日常に醒まされて、妥協とあきらめに満ちた生活になっていく。

そんな中年になった私でも、アリョーシャのような輝きに満ちた目を見ると(見ていないけど)若い日を思い出す。


どうせ挫折するのだろう。

理想が叶わない心の痛みを軽くするために釘を刺す。

でも、その理想を失わないのなら、その心は本物だ。

小説というウソの世界だけでも、理想を失わないアリョーシャが存在して欲しいと願う。


kindle unlimitedで、カラマーゾフの兄弟を購入。

今、上巻の5%まで読んだ。

これまでの感想……

ずる賢く、抜け目なく、好色のフョードル。

村でも有名な俗物に生まれた3人の息子たちの物語。

不幸に生まれても、救いの神はいるもので、篤実なポレノフや召使いのグリゴーリィに助けられて子供たちは成長する。

ひどい父親の下に生まれたからといって、必ずしも不幸になるわけではない。

十字架のように背負う父親の遺伝子。

それに翻弄されながらも、各自が、人生を切り開いていく。

ストレスということを考える。

ストレスが大きいことは不幸なことだ。

でも、ストレスがないと、成長がなく、認知症にもなりやすくなる。

適度なストレスが人間を成長させることを考えると、親がかけた呪いのような遺伝子が、成長に欠かせない起爆剤のようになるのではないか。

悪名高い、最低の父親、フョードル。

これからドミートリー、イワン、アリョーシャの数奇な物語がはじまる。



明けない夜はない。

夜明け前がいちばん暗い。

いつか希望の朝日が昇る。

……そんなことをよく聞く。

コロナ禍からはじまった世界の流れは、どうも深刻な闇が深まっているような気がしてならない。

本当に朝日が昇るのだろうか

ステイホームで持久戦のように耐えている。

弱いところから、倒れている。

オリエンタルランドでさえ、赤字。

このままでは、みんなが好きなディズニーランドが倒産する。

ワクチンでコロナが制圧できるのだろうか

コロナより、もっと恐ろしい事態が水面下で進んでいるような気がする。

それはともかく、自分自身にも、闇がある。

世の中が、「夜」の中であるように、自分自身も、無知蒙昧という闇に覆われている。

世界の夜明けを期待するだけでなく、何より、自分自身の夜明けを達成するべきではないか

そんなことを思う。

お釈迦様が自灯明と言われたように、自分自身に太陽のような光が灯されたら、周囲の人たちを照らすことができる。

誰もが夜明け前の暗闇の中にいる。

心に朝日を昇らせるには、どうしたらよいか

そんなことを考えて、スマホの壁紙を新しくした。





夜があけるには、どうしたらいいんだろうな〜



四十を過ぎても、親の言うことは耳に残って消えない。

納得がいかないから、したがえないけど。

愛されたいと思う相手の言葉は、無視できない影響力をもつのだと思う。

あとから振り返ったとき、それらの言葉をどう思うのだろうか

聞かなくて後悔するのかな

やっぱり、自分が正しかったと思うのかな

親は、心配してくれてる。

でも、聞きたいのはそんな言葉じゃなくて、ただ、背中を押してくれたらそれでいいんだ。

保育園に3歳娘を迎えに行った帰り道。


夕陽を見た。


娘は言った。


「おほしさま!」


おひさまだよ、と訂正しても、おほしさま、と言う。

娘にとっては、おほしさまなんだね。


太陽も、恒星で、星のひとつ。


娘が天使だったとき、太陽も星のように見えていたのだろうか


小さい子の感性には、びっくりするときがある。



未来のことが不安になるとき、心が「今」から離れている。

心が遠い未来へ行ってしまって、今という地面に足が着いていないから、得体の知れない不安が忍び寄ってくる。

不安は、今に専念することで消えていく。

ミヒャエルエンデの「モモ」で、掃除夫べっぽじいさんは、こう言った。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

広い道路を掃除することを考えると、自分にできるのか不安になる。

掃除は、まず、つぎの一歩、つぎのひと呼吸、つぎのひと掃き。

それを考える。

それは、今に生きること。

得体の知れない未来への不安は、目の前にある「今」に専念することで消えていく。




会社で「何を学ぶか?」と自分自身に質問しながら、現場へ向かった。

仕事でミスをして、上司に説教される。

いつもなら、嵐が過ぎるのを待つだけの説教。

今回は違った。

「何を学ぶか?」

それは、今の自分に欠けていることへの気づき。

上司の説教が今までとは違って聞こえた。

自分自身に質問することで、脳がGoogle検索してくれる。

いきなり効果があったので、樺沢紫苑の「アウトプット大全」はオススメです。