何だかよくわからないが、大変なことになっている。

先週の木曜日、部屋でテレビを見ていたら、20時を少し回った頃、いきなりニュース速報のテロップが流れた。

「ボブ・ディラン ノーベル文学賞授賞…」

ボブ・ディランという文字が目に入ったとき、一瞬「ディラン逝ったか!?」と思いドキッとしたが、テロップの内容を読んで安心する。

20世紀の終わり頃から、ディランがノーベル文学賞の候補に挙がっているという噂はあったのだが、実際にそれが現実になるとは、正直かなり驚いている。

その夜、放送されたすべてのニュース番組のトップでそれは報じられ、翌日の朝刊(もちろん一般紙)でも「ディラン ノーベル賞」の記事は一面を飾っていた。

ボブ・ディランという固有名詞が、これだけメディアを賑わせたのは、少なくとも日本国内においては初めてのことだろう。また海外のロック・ミュージシャンのニュースとして考えても、過去に前例がないくらい盛り上がっている。

翌日、新宿のタワーレコードにアプガのリリイベを観に行ったついでに、ロックのフロアを覗いてみると、店内にはディランの曲が流れていた。

CDショップのBGMに、ディランがかかっていたことなどほとんど記憶にない。

Amazonのサイトを覗いてみると、ディランの主要作品はすべて在庫切れになっていて、そこには入荷未定の文字が踊っていた。

今回、ミュージシャンがノーベル文学賞を授賞したことに対して、いろいろと賛否があるようだが、正直自分にはディランの作品が、文学的な意味で授賞に相応しいものなのかどうかはよくわからない。

ただ今回の授賞をきっかけに、ボブ・ディランに興味を持つ人が増えたのは、大変に喜ばしいことだ。


星の数ほどいるミュージシャンの中でも、ボブ・ディランほど「聴かれていない」有名ミュージシャンはいないと思う。

ある一定の年齢以上で、音楽が好きな人だったら、ほぼ絶対といっていいくらいボブ・ディランの名前は知っている。

おそらくその知名度はエルヴィス・プレスリーやジョン・レノンにも匹敵するだろう。

ではその超有名ミュージシャンのボブ・ディランの曲、あなたは何曲知っていますかと訊ねてみたら、大半の人間は一曲も答えられないだろう。(せいぜい「風に吹かれて」という曲名が出てくれば御の字といったところか)

つまりボブ・ディランというミュージシャンの名前は何となく知っているが、別にその音楽に関心はないし、今後も聴こうとも思わないというのが、一般的な音楽ファンの認識ではないだろうか。

ディランの音楽が「聴かれない」理由はいくつか考えられるが、結局は「難解そうだから」という結論に落ち着くような気がする。これに関しては後述する。

またキャリアが半世紀以上に及び、とんでもない量の作品が出ているために、初心者がうかつに手を出しにくいという物理的な問題もそこにはあるように思う。

個人的な体験を元にそれを考察してみると、初めてディランを聴いた動機というのは、有名ロック・ミュージシャンの多くが、ディランへのリスペクトを口にしていることからして「これはきっと凄いミュージシャンに違いない」と思ったからだった。

それで初めて買ったレコードが【追憶のハイウェイ61】というアルバムだった。

【グレイテスト・ヒッツ】というコスパの良さそうなベスト盤も売っていたが、あえてオリジナル・アルバムを選んだ理由は、そのほうが「通にみえる」と思ったからに他ならない。(初心者に対しても、そういういらぬ気遣いをさせるようなヘンな圧力がディランの作品にはあった)

で、その時【追憶のハイウェイ61】を聴いて以来、ボブ・ディランの熱狂的なファンになったのかというと、決してそうではない。


いま改めてこの作品を聴けば、とんでもない傑作だということがよくわかるが、当時、中学生だった自分の耳には到底理解不可能な音楽だった。

その頃好きになったビートルズやエルトン・ジョンなどと違って、メロディの起伏がほとんどなく、曲の輪郭がつかみにくい。さらにはあの歌声で、おまけに収録曲がどれも長い。もちろん訳詞を読んでもチンプンカンプン。つまりロック初心者が好きになる要素が、そこには何一つなかった。

本当の意味で、ディランが理解できるようになるまでは、それから10余年は要しただろうか。

少しづつ、少しづつ、ゆっくりとだが、ディランの音楽、世界観は自分の体内に浸透していった。

確かにディランの音楽は難解であり、取っ付きにくいところが多々ある。

ただ一度好きになってしまえば、これほど深く、また人生を豊かにしてくれるミュージシャンもいないと思う。

今回のノーベル賞騒ぎで、初めてディランのCDを購入したそこのアナタ、きっと最初は理解不可能かもしれないが、ある意味それは正常な反応であり、そこで「つまらない」と切り捨てて、近所のブックオフに売りに行くような愚だけはどうか避けていただきたい。

焦らず、ゆっくりと、気が向いたときにまた聴けばちょっとづつ印象が変化していくと思う。ディランを理解する最大の極意は焦らずに聴くことだ。

さて、ディランは相変わらずノーベル文学賞の授賞に関連した公式なコメントをいっさい発していないわけだが、今までの行動パターンからして、今後も沈黙を貫くことは間違いないと思われる。

日本のマスコミも「ディラン失踪」とか書いていたけど、失踪って普段どおりツアーをやっているのだが。

あとは授賞式に本人が登場するのかどうかということに注目が集まるが、自分の予想では授賞式には出席するが、ノーコメントで一曲だけ歌って立ち去るような気がする。

来月には驚愕の36枚組(!)のライブもリリースされるし、この騒ぎはまだまだ治まりそうもない。
自分の家からだと戸塚に行くだけでもかなり遠いが、さらにその戸塚駅からバスに揺られること約10分、ようやく明治学院大学横浜校舎に到着した。

停留所を降りると、のどかな風景が広がり、あたりにはコンビニが一件あるだけで、他には何にもない。こうなってくるとちょっとした小旅行だ。

大学の敷地内に入ると、いきなり山羊が歩いていたのでビックリしたが、いくらなんでも野生の山羊が生息しているとは思えないので、おそらく学校で放し飼いにでもしているのだろう。

アブガの学園祭といえば、一昨年の秋に日大芸術学部で観たライブが記憶に新しいが、あのときはオールスタンディングのライブで体育館のようなところで行われた。

今回のライブ会場の720教室は日比谷野外音楽堂のようなつくりになっていて、学校の教室にしてはかなり広く、満員なら500人くらいは収容出来そうなハコだった。

その会場に観客は半分くらい、いやシビアにチェックしたら3分の1くらいの入りだろうか。この日は全国のアイドルファンが淡路島に行ってしまったので、ガラコンなのは仕方がない。(んなわけねーよw)

いずれにしても、会場が空いていたおかけで3列目のど真ん中の席を確保することができた。

教室というだけあって、目の前に固定された机があるのが邪魔だが、たまには普段と違ったシチュエーションで観るのも悪くないかなと。

アブガのライブを観るのはGWの新宿ReNY以来になるが、もちろん彼女達はGW以降も毎日のように稼働していて、先週はハワイで行われたホノルル駅伝にグループとして参加してしている。

並のアイドルグループだったら、ハワイで仕事というと、ほぼ間違いなくグラビアやMVの撮影なのだが、「駅伝に参加するため」という誰得なのかよくわからない理由でハワイに行くのがアブガらしい。(そんなことよりもハワイに行っておきながらビーチでの水着の写真の一枚もアップしないというのはいったいどういう了見だ!)

今回のライブは、帰国後、最初のライブということになるわけだが、ハワイ帰りであろうが、学園祭であろうが、客が少なかろうが、そんなことはいっさい関係なく、相変わらずの一本調子のライブパフォーマンス。

そのワンパターンぶりは、ほとんど様式美すら感じさせる。

昨日もそうだったし、今日もそうだった。そして明日もアブガは必ずこういうライブなのだろう。

普通に考えたらそれはアイドルグループとしての停滞を意味するのだろうが、アブガの場合、永遠にこのままのスタイルでいいような気がする。

この偉大なるマンネリズムこそアプガの真髄だ。

そういえば、この日は「メチャキュンサマー」という夏の到来を告げる胸キュン夏ソングが久しぶりに披露されたが、夏の歌でいえば「サマービーム」が表の名曲だとしたら「メチャキュンサマー」はまさに裏の名曲。今年の夏も、どこかの野外ステージで夕暮れ時にこの曲を聴けたら最高だろう。

「あてになんない天気予報 外れまくってるけど 今日は各地で最高気温…」

アプガと一緒に駆け抜ける五度目の夏がもうすぐ始まろうとしている。
2014年の来日公演からわずか2年、まさかこんなに早くボブがまた日本を訪れるとは。

前回の公演はZepp DiverCityという、おおよそディランに似つかわしくないライブハウスで行われ、どこか居心地の悪さを感じたが、今回はオーチャードホールという重厚感のある落ち着いた会場だったのでホッとする。

しかし、そんなことよりも来日するたびに、値上がりするチケット代金の高騰ぶりはどうにかならないものだろうか。

若者の「洋楽離れ」が囁かれて久しいが、SS席25000円ってこんなムチャクチャなチケット料金で、どうやって若い人間が気楽に観に行けるというのだろう。少なくとも「伝説的なミュージシャンだしちょっと行ってみようかな」などと考えるような値段ではない。

従ってボブを観に行くことが出来るのは経済的に余裕のある年寄りだけに限定され、場内は定年退職間近のオッサン連中で溢れていた。ポール・マッカートニーやローリング・ストーンズの客層と違うところは、ボブのコンサートには「オッサンしか」いないところだろう。

何にしても、舞台に立つ演者も年寄りなら、観客も年寄りという、実に「非ロック的」空間の中でコンサートは始まった。

以前までのボブのライブだと即興性が重視され、常に日替わりのセットリストが用意されていたが、前回の来日公演あたりから、ショーとしての様式に拘っているのだろうか、あるいは単に面倒くさいだけなのか(おそらく後者だと思うが)、ほとんど固定されたセットリストになっている。

今回の公演も現時点では、ほぼ毎日同じ楽曲が同じ曲順によって歌われているのだが、その半数近くの曲が、大昔のスタンダードナンバーで占められていた。

誤解のないように言っておくが、ボブの歌うスタンダードナンバーは決して悪くはない。例えばビリー・ホリデイの晩年の名唱でも知られる「I'm a fool to want you(恋は愚かだと言うけれど)」の枯れた味わいなどは、生で聴いてゾクゾクするほど素晴らしかった。だからといって、わざわざ日本に1ヶ月近くも滞在し、観客の前で連日披露するようなものなのだろうかという気がする。

シナトラになりきってスタンダードナンバーを歌うボブのパフォーマンスを、観客は着席して静かに聴いているのだが、会場内には明らかにシラケた空気が漂っていた。事実、自分の隣で観ていた60前後の男性客はコンサートの途中で完全に寝ていた。

とくに盛り上がるわけでもなく、淡々とライブは進行し、時おりボブが中央のスタンドマイクの位置からピアノを弾くためにステージ上を移動するのだが、その歩き方が完全に老人のそれであり、これにはちょっとしたショックを受けた。

いまだに年間100本近いコンサートツアーを行っている現役ミュージシャンだとはいえ、よくよく考えてみれば、来月で75歳になる老人なのだ。最近のボブがギターを弾かない、激しい曲を歌わないというのは、年齢的、肉体的な問題なのかもしれないと思った。

アンコールが終わり、客電が点いたときに場内から漏れた「あーあ…」という溜め息は「本当にこの内容で終わりなのかよ…」という正直な声であり、この嘆き声こそ観客席から見たこの日のコンサートのすべてを表していた。

はっきりいえば、今回のボブのステージには、観客が何を望んでいるのかという視点が完全に欠如しており、単に本人がスタンダードナンバーを歌いたいという欲求のみによって成立している演目のようにも感じた。

あるいは前述したように、年齢的にもう激しい歌は歌えない「衰え」のスケープゴートとして、この路線に走っているようにも思える。

ボブ・ディランというミュージシャンは、常に予定調和を嫌い、観客を惑わせ、置き去りにすることによって、逆に信者からの支持を得てきたようなところがあるが、今回のライブもおそらく物議を醸すことになるだろう。

はたして、あなたならどう評価する?