歴史の暗部?
- 海野 弘
- ホモセクシャルの世界史
私はエロいので本屋に行った時歴史観点もの、医学観点からみたセックルの本を良く立ち読みします。
その系統の本をパラパラとめくっていたらパルジファルの文字が目に入り題名を見たら「ホモセクシャルの世界」えーっ?
(今の流行だとアッー!と云うそうな)
結構値段が高くて今回はいいや・・と見送ったら、探し出すのに豪い時間がかかりあちこち本屋廻りして漸く手に入れました。
実質2ヶ月以上かかったかも・・・・
おもしろいです。
特に近代ヨーロッパ文学と絵とその背景に潜みし、何か奇妙な、ものが奥に挟まったような言い回しの根源にはホモフォービァ(ホモセクシュアルに恐怖を覚える人々)を恐れるホモセクシュアルな人々が日陰の花を咲かせそれが友愛という観点と、文学という観点から見事な大輪になっていてるのが、臭いものには蓋を被せ美化してきた歴史が引っ繰り返されました。
シェイクスピアのソネットにしても実はhe(彼)をshe(彼女)に改変して出され、其れが漸く近代にしておおっぴらになったことも驚きでしたが、DHロレンス(チャタレー夫人の恋人)も其れが潜んでいたことに驚愕(だって某アメリカ女史がこの小説は男根主義的小説であると叩かれた経緯が・・・)
さらにゲーテも其れらしくドイツではゲーテの権威を守るためそのような事象があっても無視という沈黙の構えが(遠慮なんでしょうね)あり、外国の研究者がその綻びを開こうとしていたり。
ランボーの詩集にしても読んでいてぱっと身に染み入るという訳では無いのがこの恋愛詩の対照が同性という鍵で解くとなるほどナイーブに走らざるおえなくなる訳です。(異性間でも心し止めるのは中々難しいと思うのにさらに同性となるとそこ潜むのは絶望に近い憧れなんでしょうか)
英国帝国主義を推し進めたセシル・ローズも筋金入りのホモセクシュアルというのもメがテンでした。
その派生系で「ボーイ・スカウト」というのも生まれ在る意味英国は多大な影響があったりして、性についてオープンにモノを語れることが許される時代になってこそ明かになる歴史が多い事、多い事。
ビアズリーにしてもオスカー・ワイルドの 友 愛 関係を抜きしては彼の自伝を読んでもサッパリ血が通わず、この本にて漸く実像を掴めたような気がします。(喩えていうなら気の抜けたビールを今まで飲まされていたのが本当はこんなものだったのか・という感じです)
人と人のとの繋がり、友愛という点に於いては何よりも肝心な人として生きる糧でありながら、男女間という慣習から見ると恥辱の歴史として闇に葬られた魂の蘇りが妙です。
もっともカミングアウトして男の美しさを求めたヴィスコンティや、コクトー、バレェ・ルスのデアギレフももちろん紹介されていて彼らの生き方も面白いです。
プラトンは随分わかっていらっしゃったようですね。
(今と変わり無いというのは不変の定理でしょうか)
肉の器を脱げば魂の触れ合いそのものですから、寄り添う、慈しみの心の形の発露が多くの人の心を捉え残っていくのでしょうね。
最初のパルジファルに戻ります。
女達の誘惑に負けない禁欲的な「性廃棄し」(聖杯騎士が正しいのですがこの誤変換面白い)パルジファルは聖杯、聖槍に象徴される様々な謎を含んだ神秘劇ですが、
19世紀末に於いては母なるもの、女達からの解放としてホモセクシュアルな意味を持ち、パルジファルは女に触れない無垢の若者を象徴し、バイロイトはホモセクシュアルの聖地であったということです。
今まで包茎ボーイ・「ぱるじふぁる」で色々弄ってみたけれど「衆童・お稚児ぱるじふぁる」という風に弄っても面白いかもしれない・・・
私の立場的にはボードレールに似ていて賛同してみたり、非難してみたりの終始一貫していない揺らぎ状態ですね。
基本的に、割れた肉襞に指を這わせ、匂いを楽しみ、花芯に唇を寄せあふれ出る蜜を舐め啜り蕩ける迄慈しみたいですが・・・
男、男しているよりも中性的要素が残る少年のだったら・・・どうなのだろうと・・・ふと引き込まれます。
関連記事ですぅ(^∇^)↓
美術史における包茎ちんぽとずるむけちんぽ(男の裸が続くので注意!)
アートにおいてのセクシュアリティという問題です、早い話
上記画像の高画質板は此方 で
英語でいうヌードとネイキッドと説明した方が判りやすいかも、多分この辺に関し美術研究家が色々書いているので、ヘタれな知識で生暖かく温め直すよりも、描いている、創作している側の感じ方と云うモノを自分なりに解釈をしてみたいと。・・・
創作している側の欲望が作品と言う形に残されるに従い、何処まで妥協するかが自分の感覚の瀬戸際において、セクシュアリティの問題は根源的な問題を含んでいるため、あるいみ万人に判りやすく、訴えやすいものです。
見たまま、考えているまま、欲望のまま自分の知識に忠実に描きたいが、しかし、周りの目も在るという事で、古今東西の絵描きたちは薄布とか褌(loincloth)とかで自分の欲望を宥め、誤魔化してきたように思えるんだわ。
カラヴァッチョとかスプランヘルとかの絵をみるとそんなきがする。とくにスプランヘルは肌の色にボディペイントしたような鎧を描き、股間にはそれらしきものを配置しているところを見ると、ああ・・・このひとは本当はちんぽを描きたかったのだろうなーと思うわけです。(ゴヤも依頼されて裸のマハを描いた訳ではなく絵描きの止むに止まれる情熱(と書けば体裁が良いですが、欲望です)によって、描いたものではないかと思えます)
で最近特にパルジファルの為の資料集めしてるのですが、其処にいくとホモ・セクシュアルとバイ・セクシュアルというモノに当り、ある意味、普遍的な人類愛というものはバイセクシュアルというの在りかという考え方に辿り着いた訳です。
じっさい男の絵を集め出すと結構面白く自分の感性の広がりというものを実感します。
不道徳とか、背徳とか一般には言われるものには、好きなもの、嫌いなものの表れで意識が集中して観察眼というものが養われます。
興味が無ければ其の侭スルーすれば良いだけの話しです。 特にこの点に引っかかってくるのは嫌悪の裏返しの興味と言えます。
で、最初に戻ってヌードとネイキッドの問題があります。
これの場合ヌードと言う風に弄りたければ、褌を外し、垂れた包茎ちんぽを描きたせば、其の侭問題無く展示できるのでしょうけれど、あえてこれの ずる剥けちんこお勃ばーじょん をつくってみました。(笑
これも一種の命の発動で、絵描きの欲望の暴走ともいえますし、古来の絵としての考え方で観ると冒涜ですね。
最近はアートというモノの台頭によって漸く、ヌードとネイキッドの垣根が取り払われるようになってきたように思えます。
絵描きにとって描きたかったものが漸く手に入る時代とでもいうのでしょうか。
シュリンゲンジーフのえんしゅつ
聖杯が黒人女性ということでブーレズの演奏以前に大ブーイングが起きてしまったもの
かれはオーストラリア博物館にあるヴィーレンドルフのヴィーナスをイメージさせたかったのかもしれない。
全然違和感ありません。(彼もこのようなことを念頭に置いていたのではと思います。勿論彼のサイトにはそのようなことが一切かかれてませんが
只この絵柄でバイロイトで見たら私はブーイングをせざる終えないと断言します。
通過点の一つとしてこのような演出作品が在っても良いような気がしますが是はバイロイトではなくシュテットガルド、ケルン、ミュンヘン向けのような気がしますね。
演出家の発想は「優性思想」の破壊を目指したのでしょうがもう一つ飛びぬけた考え方がないため、薄っぺらい感じがしないでもありません。
ラインの黄金の後書の更にネタ晴らしになりますが、私の「指環」で「ラインの黄金」にて三人の娘をコーカソイド系にせず、セム、ハム、ヤフェト、と定義づけしたのは一地域のお話ではなく全世界を巻き込んだグローバルな問題であり、この三つの名前を出した時点でカッバーラを織り込んでいるとの意思表示です。
参照画像三人の娘とアルベリヒ
彼女らは「黄金の光」のなかではセム、ハム、ヤフェトの違いが「消滅」します。肉体という殻の違いを黄金の光で「浄化」すると表現した方がわかりやすいかも。
一応そのよーなメッセージをラインの黄金で仕込んであります。
「只、裸のねーちゃんが泳ぎまくっているという訳ではにゃーでぎゃ。」(名古屋弁あってます?)
其れゆえ彼女達は浄化できず、不浄な物を身体に溜めつつ在った為、黄金を欲するという風なのも仕込んでましたが、是は巧く表現できずじまいでしたが。
聖杯という存在が白人社会の犯すべからざる宗教の思い入れがある為、黒人女性というものは、赦されざる冒涜のような気がします。(演出家は其れを意図的に狙ったのでしょうが)
日本に喩えると天皇が行き成り黒人に「乗っ取られた」フィーリングが解り易いかも知れません。
黒人が「さあ、合法的に天皇家になった。敬え!」を許せる人がいるかどうか・・・
優性思想に基いたものでもそのエッセンスを汲み取る事は重要なポイントで其れを普遍的な要素に置き換え、読み替えしてゆくのが今後の課題であることは間違いないと言えます。
「象徴(シンボル)と寓意(アレゴリー)」で聖杯を「黒人の女性」で現した事が「象徴」を含んだ問題になってしまい、蒙昧且つ底の低いものになってしまったことです。(優性思想の嘲笑、偶像化に留まり、それ以上のテーマに成り得ない)
是が「銀色のボディ・ペイント」をした「黒人女性の『裸』」であったならば「寓意」(本質的なものを含まない)というものが現れ、ワーグナーが求めた「永遠に女性的なもの」を含んだテーマまで昇華できたような気がします。
多分私だったらさらに背中に光の車輪背負わせて「四つの天使」を描かせて、「世界」のタロットと「運命の輪」を持たせたでしょうね。
その姿はまるで菩薩様のようですが・・・・・
ベースは黒人女性ですが、私の念頭にあるのはミトコンドリア・イヴ。人類の総ての遺伝子の元。
ググると解りますが北アフリカエチオピア(上ナイル)にミトコンドリア・DNA解析によって最初の女性が存在したと言われてます。
両足から巻き上がる左螺旋の金と銀のペイントは二重螺旋のDNA
女性の寓意であるため陰毛及び頭髪は剃ってます。
子宮の真上のマークは赤い杯(盃)
手に持つ錫はトート・メルクリウスの杖。ヨーロッパに住んだことが在る人はこのマークは医療のマークである事が解る筈。
背中の車輪は黄道と不動宮の四つの星座。
ある意味タロット・カードの「世界」
本当は目隠しという感じに弄りたかったけれどチョッと冴えないので目を閉じた状態。
(非ゲルマン系の人間から考えると着目すべき点でしょう。)
それだからこそ黒人女性を其の侭だしてしまってはパトリス・シェローがあれほど気をつけた「寓意」ではなく「象徴」そのものを含んだ問題に終始してしまうのです。
あえて其れを避けたいがため、私ならば黒人女性にボディ・ペイントという風にしたいと考えます。そうした場合、「ネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドの違いって何」という具合に人類全体の問題提起出来るからです。
股間にチンポが無く、割れている。胸が大きいくて豊か・・・・
是はある意味記号でしか過ぎないということの人類全体の「寓意」です。
では其れは何のためか?聖杯は「キリストの血を受け止め留める」たゆえに尊いのか?それに付随する奇跡が存在するゆえに尊いのでしょうか?
それは信仰の証にほかなりません。
女性器(この場合「聖器」文字通り聖なる器と表現したほうがいいかも)
男性の遺伝子情報を(種?、単に精液)「受け止め留め」るだけに限らず「闇の中」自分の遺伝子を組み合わせた新しい命を育み、「光の元」に産みいずるという所に奇跡の存在があり、人類全体の普遍の真理です。
産みいづる苦しみの中で授かった命の福音は女性だけに与えられた喜びの奇跡という風に私だったら「聖杯」を捉えたいです。
演出家は残念な事に彼の頭の中にはカッバーラの思想がない為終始人類救済というテーマには辿り着かない、底の浅い物に収まってしまうのでしょうな~
ナザレのイエス、マグダラのマリアは元々セム族なのでこの辺あたりを弄ると又問題が起きそうですけれど わし、ヒューマンボディに色を塗ったくって表現したものが好きなもので・・・・
追記
イゾルデ様からのメッセージの転載↓
ところで、聖杯の色合いについて。
ローエングリンでワーグナーが聖杯に使用した調はイ長調。
光り輝く黄金色のイメージ。
一方パルジファルで使用されている調は変イ長調。
くぐもった銀色のイメージ。
と聞いた事があります。
さすがに黒人女性、まんまでは音楽に寄り添いにくい??
グルネマンツから聖杯の事をきいたパルジファルは
それを「人だと思って」こう聞きますね。
パルジファル「グラールって誰のこと?」
グルネマンツ「それは口では言えぬこと」
イゾルデ様
とても貴重な情報を有難うございました。
御蔭さまで
ローエングリンの聖杯⇒黄金の光⇒太陽の明るさ
パルジファルの聖杯⇒銀の光⇒月の優しい光
というイメージが湧きました。
そうでした。パルジファルはグラール(グレイル)聖杯の事を霊止
(ひと)だと思っていたのでした。
是ってダビンチ・コードの魁的発想じゃないかと思うのは独りよがりの考え過ぎかなぁ・・・・
イラストをダラダラと 5
ネタ的には2005年バイロイト・シュリンゲンジーフのパルジファルに被ります。
そちらのほう は後で書き綴ります。
ラインの黄金の登場
上記の聖杯の擬人化という考えかたは、以前ラインの黄金は黄金色した少女という風に設定した事とが在ります。
構想してからすでに・・・・・
早い話「金粉ショー」を思い浮かべれば納得がいくのではないかと・・・
フライアの姿、フライア自身というイメージです。
ラインの黄金擬人化諸情報
アルベリヒに誘拐された黄金の少女はニーべルハイムにて解体され、天上界にて再構築。
しかしそこには少女ではなく女性の形をした片眼が欠けたオブジェ(メトロポリス(フリッツ・ラング)のロボット、若しくはC3P0と説明した方が解り易い?)
頭髪がないのはその位置に「隠れ兜」チェイン・メイル状のものが宛がわれる為。
ジークフリートではファフナーが懐にその黄金のアンドロイド少女を抱き、ファフナーを斃した暁には完全体の顔から片目を取り出すジークフリートという風な絵を起した事あります。
つまり指環が瞳のオブジェに近い感じ。
(でも其れは没でしたが。)
この頃から金粉ショーが好きだったのかもね。(爆
その残り香がフニンとムギンの二匹の鴉のボディ・ペイント調擬人化として作品には描いてますが。
↑参照画像
というか自由に動ける生きた人間が黄金色をしているのが重要で、ニーベルハイムで解体後、ロボット化、アンドロイド化し(生命が無いもの、無機質化)、ジークフリートに到ってはファフナーのダッチ・ワイフ化を現したかったのが本音。
神々の黄昏では、逆に黄金の片目をした金粉を塗っていない丸裸少女が最後を締めくくるという(緞帳を引く)具合です。
ああっ指環の演出やりたい。









