THE BATMAN-ザ・バットマン-(2022)

 

個人的評価:A

 

※ネタバレなし

【新しいバットマン】


私たちの生きる現実は、常に理不尽の暴風にさらされます。映画のような伏線もなく、思い付きのような唐突さで私たちの大切なものが奪われます。そんな現実にあって、映画は私たちの悲劇に意味を与える手助けをします。
 

「悲劇は成長の糧である」
 

そのように映画は意味づけをし、前へ進む手助けをしてくれます。しかし、時折、こうも思うのです。それは、悲劇から目を背ける行為ではないかと。もちろん悲劇の生む傷を見つめるだけでは前へ進めませんし、傷から目を背けて前を向くことで、先を見据えることができる。進んだ後で余裕の生まれた心で傷に向き合える。そういう道もあるでしょう。

しかし、本作のバットマンは違います。人を思いやる心、両親への深い愛情があったからこそ。彼の視線は、理不尽に両親の命が奪われた悲劇の「あの夜」から動くことはありません。その視線、佇まいは陰鬱そのもの。これまで映画で描かれてきた、悲劇を抱えつつも、昼は辣腕の経営者、夜は復讐者という二面性を体現するような器用さを本作のバットマンは持ちえません。

作中において一貫して悲しみを抱える闇の属性を体現します。従来のバットマンは夜に現れるヒーローですが今作のバットマンは自分のあらわれる場所を朝でも昼でもお構いなしに夜と錯覚させるような陰鬱さを背負っています。

過去作のバットマンのように自らの不幸と器用に向き合う姿勢は否定されるものではありませんし、成長のための合理的な振る舞いと言えます。ただ、愚直に自らの悲しみと向き合う本作のバットマンに今までにない哀愁と切なさを感じ引き込まれずにはいられません。

【意外にも、行動的】


ただ、本作のバットマンの興味深い点は上述した陰鬱さを持ちつつも行動的である点です。プライベートの外出の少ない彼ですが犯罪者の追跡となれば積極的に動き、社交の場にも表れます。これほど陰鬱な彼に、果たして社交などできるのでしょうか。


できませんでした。

全くできていません。
 

操作の手がかりをつかむ目的は達成しつつも会話は最低限のものにとどまり、愛想笑いなど望むべくもなく、目つきは常に相手を不安にさせる鋭さ。社交の場の空気を凍りつかせながら、次の捜査へ向かう姿は、本作のバットマンは変わっているという認識を更に確かなものにします。

また、序盤にリドラーの手にかかった被害者の子供とバットマンが対面する場面があります。バットマンも両親を犯罪者に奪われています。その共通性からきっとバットマンは子供にやさしいまなざしを向けるのだろうかつてゴードン警部がブルース少年にしてくれたように・・・

そう思っていました。

あろうことかバットマンは

子供をにらみつけます
子供は恐怖に囚われ

動くこともできません。

・・・いや、睨んではいないのでしょう。バットマン本人としては被害者の子供に慈しみの視線を向けるという精一杯の気遣いでしょう。ただ、悲しいことに対人能力に決定的に欠ける本作のバットマンは、向けるべき表情を完全に誤ってしまいます。

そのような描写の積み重ねが、本作のバットマンは行動力があり、やさしくもありつつも、不器用で愚直という人物であると視聴者に伝えます。ヒーローとしてなかなかにギリギリのキャラクターですが人間としては実に魅力的なキャラクター造形です。

【辛いものは辛い、痛いものは痛い】


そんなバットマン像は、自らのトラウマに向き合う方法が一つではないと教えてくれます。悲しみに意味付けをして、悲劇の悲劇性から一時目を背け前へ進む方法とは違う。悲劇と真正面から向き合うこと。辛いものは辛い。痛いものは痛い。悲しい時に、泣いても良いということ。それは、不安や恐怖に向き合う暴露療法的な試みと言えるでしょう。

傷から一時、目を背ける器用さもない。それでも愚直に痛みと向き合い続け。自分の魂を救うため行動することをやめない、その中でリドラーにより過去の傷を暴かれ。新たな傷を刻み込まれていく。それでも、進み続ける。そんな今作のバットマンの不器用な生きざまに私はシリーズで一番引き込まれました。