今回は、秀吉勢が中国攻めに出陣し、その中でも有名な城の一つ、備中高松城の攻城戦の水攻めの時に秀吉が本陣を移した石井山へ
この本陣跡いつでも行けると後回しにし続けていたら、時季的など、なかなか行く機会が無くて今になってしまった
(水攻めの時の布陣図)
再三の攻城も失敗に終わり、考えた結果、黒田官兵衛が発案した水攻めとなりました。
水攻めの時に築かれた堤の一部
石井山の本陣跡には持宝院さんの裏手を上って行きます この入り口から本陣跡まで300mほどかな
今回、秀吉が座ったと云われる太閤岩は、スルーで
しばらく行くと! 案内札が 清水宗治の首塚跡と、本陣跡に到着
先ずは本陣跡へ
元々ここに、寺宝院が在りましたそこを本陣に使ったわけですね
雨風も防げるしね
本陣から高松城を見下ろしたとこ 中央右上が高松城跡。 中央の建物が見える所辺りに清水宗治が小舟の上で自刃したとされる場所(現 妙玄寺)
そこには、供養塔があります
それから、清水宗治の首塚跡へ
天正10年6月4日 宗治の切腹により毛利勢と和睦した秀吉ですが、この時、宗治の首実験の後、持宝院の境内へ埋葬したそうです。 その後、今の場所へ改葬されたのです 明治になってかららしいが!頭蓋
が有ったのかな!?
それから、山を下り
御崎神社に ココには、堀尾吉晴が陣を置きました
他の武将の陣跡なども在りますが、此れにて備中高松城については、とりあえず終わります
(妙玄寺)
清水宗治が自刃したとされる場所にある供養塔
以前に掲載した記事も備中高松城址 と (冠山城攻防戦)
備中での織田軍と毛利軍との戦いの前哨戦となった宇喜多の支城 八浜城
おまけ、武将 戸川達安 《そして、戸川氏の歴史散策》 備中七城の一つ撫川城についても少し
ココでは宇喜多直家の側近 戸川秀安の子。 戸川達安視点で少しだけ撫川城(庭瀬城)を紹介してます。