宇喜多の支城 八浜城 | かまのん紀行

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うっかりハッ投稿してたと思ってたけど、忘れてた城があったので掲載です笑い泣き
 
その城は《 八浜城 》また、両児山城(ふたごやま城)とも言われている宇喜多氏の支城です。この辺りは、当時は湾(海)で水運の要所でもあり、また毛利を警戒する前線の城でもありました。
 
結構マイナーな城跡ですが、歴史的には見逃せない城です。後に八浜合戦と呼ばれた《 毛利VS宇喜多 》の合戦地で有名なのです。
 
天正9年(1581年)末、当主であった宇喜多直家は53歳で病没。宇喜多側は、しばらくこの事を隠していたが、いち早く察知した
毛利氏は、元就の四男の穂井田(毛利)元清を総大将として、戸川秀安が守る常山城の在る児島群へ進軍する。
 
宇喜多氏は宇喜多直家の甥で、忠家の息子の宇喜多基家を大将とし、八浜城に布陣する。
そして常山城と八浜城の間に在る麦飯山に砦を築こうとした。
しかし、築城を察知した毛利勢は、先に麦飯山を占拠し戦いが始まる。最初は、小競り合い程度だったのが!
 
翌天正10年初旬。遂に大崎村(玉野市八浜町大崎) 柳畑の浜辺で、大合戦となった。その合戦の指揮をとっていた宇喜多基家は、敵の銃弾を浴び討ち死にした。
大将を亡くし敗走し始めた宇喜多勢だったが、後に八浜七本槍と呼ばれる8人の家臣の働きでかろうじて毛利勢をくい止めた。そして秀吉の救援を待ち八浜城にて籠城戦へと移行する。(秀吉の援軍が来たのか?その後は、毛利勢は引き上げたとされる?)
 
そして、羽柴秀吉の備中攻めが始まり、最前線の備中高松城や冠山城、撫川城など備中七城と呼ばれる城攻めに戦場が移り、八浜城は生き延びたのでした。
 
~のちに八浜七本槍と呼ばれた強者たち~
能勢頼吉
国富貞次
宍甘太郎兵衛
馬場職家
岸本惣次郎
小森三郎右衛門
粟井三郎兵衛正晴
 
 
《 八浜城跡 》(岡山県玉野市八浜)
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遠目から見るとラブひょうたん島みたいな小さな山で標高は53m程です。
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城跡は公園化していて、途中まで車で上がれます。ちょうど窪んだ辺りパー
 
遺構は、南北の尾根沿いに曲輪を置き帯郭も配置されています。あと竪堀や土塁、空堀(横堀)が残っています。
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主郭とされる曲輪跡パー 
 
 
 
そして、この城跡の見所は、この空堀(横堀)と土塁ラブ
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現在は、1mほどの深さだが、当時は、もっと深かったはずパー
 
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クランク状の折れも音符これは、横矢がかりと言われる防御法。草が、なければもっと見易かったかなニヤリ 
この様に、城全体に空堀(横堀)と土塁を巡らせています。
また、竪堀も確認できましたが、カメラアセアセ竪堀はカメラ泣かせの為、断念笑い泣き『深く残っていれば映るけどね~』
 
 
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児島湾側を城から眺めたとこラブ 見える範囲は、昔は海だった爆  笑
 
 
 
おまけ
 
現在、城跡に在る八浜八幡宮パー
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                  おわり