武将 戸川達安  《そして、戸川氏の歴史散策》 | かまのん紀行

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この度は、戸川達安(みちやす) という 武将の紹介ですパー
 
宇喜多直家を調べてた時に、この武将にたどり着きました!
また、地元とも縁が深いので調べていたら凄い事が分かりました。
 
期間2013年11月~

 

 
 
先ずは、戸川達安公のお墓へ。
 

 

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(戸川達安公の墓)
 
 

戸川達安のお墓がある盛隆寺。庭瀬領主・戸川達安の妹が嫁ぎ先の宇喜多家で他界した際、母親である妙承尼(常山城主友林院殿の室)が娘の冥福を願い、達安もまた妹の死を哀れむとともに、妙承尼の心のうちを察してその願望を叶えようと考え開創した。
五輪塔が、達安公の墓、左に母の墓。右は、嫡子と妻の墓です。
 
 
また、戸川達安の他にも、分家=旗本の妹尾領主、撫川領主の歴代戸川家一族の墓も有ります。
 
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(戸川家墓所)
(霊廟を入ると正面に達安公の墓で、左右に妹尾、撫川の歴代の墓が並びます。また、入り口を入って直ぐ左に(赤枠)達安の弟の墓が在ります。)
 
達安公が、庭瀬城へ入った後に、戸川家の菩提寺として建立した『不変院』
 
 
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早島戸川家陣屋
 
(早島陣屋跡)
江戸時代の初め1631年(寛永8年) 戸川達安の次男の 戸川安尤(やすもと)が分家として、3400石で封じられて以来、 戸川安宅(やすいえ)の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地と、いぐさ産業 を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展 してきた。 
陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、 東西約65メートル、南北約120メートル、約7800平方メートル(約2500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていた。また、家臣たちの住居も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安 を祭る達安大明神の社もあった。 しかし、 この陣屋も明治の初めごろ取り壊され、現在ではここにある堀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなった。
 
その後も戸川家は分家を繰り返し、庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾・中島の6家となりましたが、本家の庭瀬は絶家したため、撫川の戸川家が名跡を継ぎ4000石を加増され交代寄合に叙せられました。
 
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【そして!ここパー地元の早島陣屋跡に在る 小さな記念館に歴史の謎?島左近に、まつわる物が有るとは!殆どの人は知らないだろう!!ハッ
 
     『それは、島左近の兜の忍びの緒』
 
 
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(残念ながら!ココには、兜の忍びの緒だけ展示されています。どうやら子孫の方が兜を、静岡県の久能山東照宮博物館に奉献したとの事。(これは、既に確認済みパー) そして、この記念館を建てるのに忍びの緒だけ残ってたのを展示しているとの事。)
 
 
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では、何故?島左近の兜が、この地に有ったかと言うとパー
 
 
『時は、関ヶ原合戦。招集されなかった達安は、加藤嘉明の陣を陣借りして参戦、細川忠興らと出陣します。 その時、突撃してきた島左近を討ち取ったと良い伝わっています。(コレは、本人の証言で、その時、左近の兜を持ち帰っています。〈子孫が保管していました。また鎧も保管してた様ですが、こちらは残念ながら火災で焼失)。
合戦の後、家康より 29000石を与えられ、備中庭瀬城の城主となり初代庭瀬藩主となりました。
「 陣借りして出陣したのに (陣借りして参戦すると、功を上げても普通は恩賞は無いらしい)  29000石の藩主に取り上げられたのは、まんざら嘘でもないか? 島左近の、 首実験がされた記述は残っていないので、 今では達安の話を信じるしかない。 」
 
他にも、京都での生存説があるが考えにくいと思う。関ヶ原合戦の乱戦中に数騎で突撃~しかも!手負いの状態!落ち延びるのは難しいかと!逃げるとしたら負傷して直ぐかと
 
 
 
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《戸川達安》

 
宇喜多直家の側近で右腕だった戸川秀安の息子で、備前辛川の役において初陣を飾り、小早川隆景を撃破。父・秀安の隠居により家督を相続し、備前の常山城を守備した。当時の宇喜多氏は宇喜多直家の没後、父の秀安も含めた宇喜多三老と呼ばれる重臣が当主の宇喜多秀家を後見する体制をとっていた。しかし、天正19年(1591年)に長船貞親が暗殺され、文禄元年(1592年)には、岳父でもある岡豊前守(家利、元忠)が病死し、直家時代の重臣が不在となったため、達安が国政を任されることになる。

 

しかし、文禄3年(1594年)、突如として秀家からその座を解任された。これは秀家が、達安より長船紀伊守を寵愛し、国政を任せたかったためと言われている。しかしこのことで、達安は紀伊守と対立し、主君・秀家にも不満を抱くようになる。前田氏から豪姫の輿入れに際し、新たに取り立てられた新参家臣である中村次郎兵衛が秀家の信任を受けると、達安と秀家との溝はますます深まった。秀家や豪姫がキリシタンに関心を示すと、日蓮宗の信者が大半を占める宇喜多家中は動揺し、さらに長船紀伊守が急死するなど、家中の緊張は臨界点に達する。

 

慶長5年(1600年)1月、宇喜多家中でお家騒動が発生した(宇喜多騒動)。これは前年に死去した紀伊守の後を継いで国政を担った中村次郎兵衛に対して達安が宇喜多詮家や岡越前守とともに反感を持っており、一触即発の事態にまで至ったものである。しかし徳川家康の調停があって宇喜多氏を退去し、家康の家臣となった。
 
『 ほとんど聞きなれない武将だが!間違いなく当時、宇喜多軍の主力を務めた歴戦の猛者なのです。
備前辛川の役において13歳で初陣。その後は、織田軍と共に備中高松城攻めに参陣し、毛利方の支城の冠山城、宮路山城、加茂城などを攻略した。小牧・長久手の戦いや紀州根来攻めにも参陣した。四国征伐に一宮城攻め、九州征伐に岩石城と益富城、日向高城攻め、小田原征伐に山中城、小田原城攻略、文禄・慶長の役に碧蹄館の戦いや幸州山城の戦い、第二次晋州城の戦い、南原城の戦いに奮戦、いつも宇喜多軍の主力として出陣、戦陣に武勇や知略を発揮して数々の戦功を立てました。特に「根白坂の戦い」に勇猛の島津軍と対戦して、大勢の敵兵を討ち取り一番討ちの戦功を立て大勝利したと知られる。
 
お家騒動で、達安をはじめ宇喜多詮家(坂崎直盛)、岡、花房など武勇に優れた旧臣が出奔した事は宇喜多秀家には痛手だっただろう!関ヶ原合戦では、宇喜多軍は西軍の主力でしたが、そこに達安たちは居なく、逆に東軍に達安が参陣するのでした。』
 
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あと、他の分家の陣屋跡にも行ってみましたが!
《庭瀬陣屋跡に残っている陣屋井戸。 それと、帯江陣屋跡の碑。どちらも、現在は住宅地となっている。》
 
 
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【戸川秀安公の墓所】(岡山県玉野市宇藤木) 
 〈常山城の山麓にある友林堂には、位牌が安置されています。〉
「達安の父の秀安の紹介も少し。正式には、富川秀安と言い『戸川』としたのは達安からだそうな」
 
(戸川秀安公の墓 と友林堂)
〇 秀安は、宇喜多直家が乙子城主となった頃から小姓として仕えはじめ、青年期から直家の右腕として活躍します。1566年、三村家親の弔い合戦として、元親 が兵を率いて、備前に攻め入った時に、宇喜多忠家らとともに迎え討つ。その後は三村氏や毛利氏らとの戦いに度々出陣し、武功を立てました。1570年、直家が謀略により金光宗高を切腹させた後の石山城 (岡山城)の接収を馬場職家とともに執り行った。天正3年(1575年)に は2万5千石を領して常山城主となり、岡家利や 長船貞親と並ぶ宇喜多三老の一人ですが、直家 の信任は三老の中で最も厚かったといわれていて。直家の晩年頃から宇喜多氏の国政を任されたが、直家死後、家督を嫡男の戸川達安に譲って隠居し、友林と号した。
 
 
 
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【備前 常山城 】
 
山頂の本丸を中心に14の曲輪で構成される「連郭式山城」です。 (戦国時代には三村氏の部将で三村元親の妹と 婚姻した上野隆徳の居城。 1575年(天正3)毛利によって滅ぼされます。その時、城主の隆徳や家臣。 妻は、30数人の女性で編成された女軍を率いて戦い、ことごとく全滅した城として有名な城なのです( ̄^ ̄;) 
その後、毛利氏の支配下に置かれ、毛利氏以後 は、宇喜多氏家老の戸川秀安が城主となります 。) 「宇喜多秀家の時代。常山城は児島半島が島で あった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点であったが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603年( 慶長8)に廃城となる。城は解体され、廃材の 一部は新たな監視の拠点となった下津井城の改修に使用されました。」
 『昔、一度行った事がありますが、遺構は、曲輪、石垣、井戸など、わりかし残っています。でも!そんな悲運なストーリーも有って地元では心霊スポットとしても 有名な城跡なのです・・・(゜д゜lll)  車で山頂まで行けましたが、何時ぞやの台風で道が崩落し現在
は 、登山道を登るしかないです…。』
 
 
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《撫川城跡》
 
 撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、南北七十七メートル、南北五十七メートルの長方形を示し、幅十五メートルの濠がぐるりと廻っています。西に高さ四メートル強の高石垣(野面積)と東には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しがみられます。
 
 
この城は永禄二(1559)年に備中成羽城主三村元親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正十[1580]年)には毛利方の国境防衛の城「境日七城」の1つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配化になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
 戸川氏は安風(四代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
 なお、入り口に現存する門は、撫川地行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
 
 
 
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《庭瀬城跡》
 
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝据城とも呼ばれた。一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後、宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を拡げ城下町をととのえた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示してい
る。
寛政5年(1793)板倉勝貴は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の遺品を所蔵した。